面倒なその挙式をまとめます。 ~リディアの王宮結婚差配室~
いつも誤字報告ありがとうございます。
――貴族の結婚は面倒くさい。
家と家が結びつく一大行事だなんて、聞こえはいいけれど……
その実態は、見栄と体裁と意地の張り合いだ。
まず、結納の儀式。
教会に依頼状を出すところから始まるけれど、これも一筋縄ではいかない。
両家の格を考慮して、依頼する教会の格も決めなければならないのだ。
もちろん、事前に両家で念入りなすり合わせが必要になる。
結納品のリストアップから、儀式の進行手順まで……
当日恥をかかないようにと、リハーサルまで行われることもある。
馬鹿らしいにもほどがある。
そして、本番の結婚式はもっと面倒くさい。
教会の司祭を呼ばなければならないのはもちろんのこと。
その教会へのお布施。これがまた厄介だ。
金額が少ないと『教会を、ひいては神を軽んじているのか』と顰蹙を買う。
多すぎれば『金に物を言わせる成り上がりか』と陰口を叩かれる。
……ちょうどいい塩梅なんて、誰が分かるというのだろう。
来賓だってそうだ。
あちらを立てればこちらが立たず。
席次ひとつで、今後の派閥の力関係が変わるなんて言われるくらいだ。
彼らへの招待状も、一人ひとり手書きで、文面も相手に合わせて変える。
優美で心のこもった文章でなければ、それもまた嘲笑の種になる。
披露宴の準備なんて、考えただけで頭が痛くなる。
料理、音楽、引き出物……
すべてに意味と格式が求められるのだから。
とにかく、貴族の結婚というのは、ひたすらに面倒くさい。
私はリディア・ヴェルフェン――王城に勤める下級貴族の文官。
雑務をこなしながら、いつも「貴族の結婚は面倒くさい」と思う。
私の仕事は、そんな華やかな舞台とは無縁の、地味で退屈な書類仕事。
それで十分だった。
……いや、十分なはずだったのだ。
◇ ◇ ◇ ◇
ある日のことだった。
私はいつものように書庫の片隅で古びた台帳の整理をしていた。
すると、上司のダリウス課長がほとほと困り果てた顔で頭を抱えていた。
御年四十。恰幅のいい、人の良さだけが取り柄のような人だ。
その課長の前には、一組の男女が泣きついている。
男性はすっかりやつれて顔色が悪く、女性は美しい顔を涙で濡らす。
どうやら、課長の遠い親戚筋にあたり、最近結婚したらしい。
「それで……いったいどうしたんだね?」
課長が恐る恐る尋ねると、げっそりとした新郎が重い口を開いた。
「それが……父上が……」
話を聞けば、こういうことだった。
新郎は歴史と格式を重んじる侯爵家の嫡男。
もうすぐ老齢の父君から家督を譲り受ける身だという。
新婦もまた、同格の侯爵家の令嬢。
二人の結婚式は先日、つつがなく執り行われた。はずだった。
和やかに始まった結婚式は、新郎の挨拶が終わる頃から、突然空気が変わったらしい。
新郎の父である侯爵が、見るからに不機嫌になる。
そして、式が終わるや否や、こう言い放ったというのだ。
「……もう一度、やり直せ」
何が、どうして、どう悪かったのか。
一切説明はない。
理由も分からず、ただただ途方に暮れた二人。
藁にもすがる思いで課長を頼ってきた、というわけだった。
「いったい何が悪かったんだろう……」
「途中までは、あんなに和やかに進んでいたのに……」
「やはり、貴族の婚姻らしく、もっと派手にやれということなのだろうか?」
新郎新婦と課長の三人が、揃って眉間に皺を寄せている。
聞こえてくる会話は、どんどん的外れな方向へ進んでいく。
「そうか、そうに違いない!格式を重んじるお父上だ。もっと盛大に、豪華絢爛にやらねば、お気に召さなかったのだ!」
「では、もっとお金を掛けて……領地中の花という花を買い占めるくらいに……」
「来賓も、もっと高位の方々をお呼びして……」
三人がそんな結論に達しかけたときだった。
「……それ、たぶん違うと思います」
私の口から、思わず言葉が滑り落ちた。
――しまった!
心の声が、そのまま外に出てしまった。
私は慌てて口を押さえたが、もう遅い。
三人の視線が、一斉に私に突き刺さる。
気まずい沈黙が、重くのしかかった。
(どうして余計なことを……!)
普段なら、絶対に首を突っ込まない。
面倒事はごめんだ。
けれど、泣きそうな顔の新婦と、今にも倒れそうな新郎を見ていると、どうにも居た堪れなくなってしまったのだ。
「……ええと、君は?」
「申し訳ありません。ただの雑務係です。聞き流してください」
私がそう言って踵を返そうとすると、課長が慌てて私の腕を掴んだ。
「待ってくれ!何か分かるのかい?頼む、助けてくれ!」
……はぁ。
こうなっては仕方がない。
私は観念して、一つため息をついた。
「分かりました。ですが、私の言う通りにすると約束してください」
「もちろんだとも!」
私は三人の前に進み出て、指示を出す。
「結婚式を派手にもう一度、などと考えるのはやめてください。お金の無駄です」
「で、ではどうすれば……」
「今度は、ごく内輪で結構です。来賓は、侯爵閣下と歳の近い、気心の知れた方々だけで十分。そして、最も重要なのは……式の進行です」
後日。
私の職場に、あの新郎新婦が満面の笑みでやってきた。
手には高価そうなお菓子の詰め合わせまである。
「ありがとう!君が指示してくれたおかげで、父上も大変ご満悦で、何とか円満に済ませることができた!」
新郎は、以前のやつれた姿が嘘のように晴れやかな顔をしている。
新婦もまた、幸せそうに微笑んでいた。
……まあ、そうだろう。
今回の問題は、至極単純なことだったのだ。
結婚式の最中、来賓に挨拶をして回るのは、本来、新郎側の家長の務めだ。
それは、家を代表して、祝福に訪れた人々へ感謝を伝えるという、重要な意味を持つ。
それなのに、あの新郎は張り切りすぎた。
父である侯爵より先に、自ら来賓への挨拶を始めてしまったらしい。
これでは、家長である父を軽んじ、その顔に泥を塗ったことになる。
ましてや、歴史と格式を重んじ、これから息子に家を継がせようとしている侯爵だ。
自らの手で家の長の権威を貶めるような跡継ぎの姿を見て、腹に据えかねたのだろう。
(まったく……これだから、貴族の結婚は本当に面倒くさい)
私が内心でいつも通りの感想を抱いた。
すると、ダリウス課長が興奮した様子で私の肩を叩いた。
「いやあ、君はすごいな!私にはさっぱりだったよ!そうだ、貴族同士の婚姻については、これからは君に聞けば何でも分かりそうだ!」
(……そんな!)
――その一言が、私の平穏な文官生活に終止符を打った。
課長の軽率な一言は、あっという間に王城内に広まった。
貴族同士の婚姻には、どうやら揉め事がつきものらしい。
あれよあれよという間に、私のもとへ「ちょっと相談が……」と人が訪れるようになる。
もちろん無視したかったが、中には上司からの正式な指示として回ってくる案件もある。
それらを渋々ながらも解決しているうちに、事態はさらに悪化した。
「本日付で、新たに『王宮結婚差配室』を設立する!室長は私、そして室員は君だ!」
……私だけの。
こうして、王城の片隅に、ほぼ私一人のための、新しい事務室が誕生してしまった。
王宮で働く人々は、いつしか私のことをこう呼ぶようになった。
ブライダルコーディネーター、と。
(なぜ、こんなことになってしまったのか……)
がらんとした新しい事務室で、私は深いため息をつく。
私の新しい上司になったのは、ダリウス課長ではない。
フェイ・アーゼ室長。
どこからか現れた、飄々とした若い男だった。
私と同じ下級貴族のはずなのに、どんなコネがあるのか、いきなりこの部署の室長に王族直々に任命されたらしい。
その新しい上司は、私の顔を見るなり開口一番こう言った。
「君、その大きな丸いメガネ、全然似合ってないね」
……余計なお世話だ!
私自身、結婚になど微塵も興味はない。見栄もなければ野心もない。
普段は化粧も最小限しかしないし、この大きなメガネも見栄えはしないだろう。
いずれは親が決めた、どこかの誰かと政略的な結婚をするのだろう。それでいい。
だから、誰がどの貴族に見初められたとか、誰と誰が恋に落ちただとか、そんな話は心底どうでもよかった。
『面倒事は仕事の結婚だけで十分』
それが私の新しい信条になった。
とはいえ、この仕事が完全に嫌いかと言われると、そうでもない。
複雑に絡み合った家同士の事情や、見栄と体裁、そして当人たちの隠された本音。
それらを一つ一つ解きほぐし、誰もが納得する形に整えていく作業は、まるで難解なパズルを解いているようで、少しだけ面白いと感じ始めている自分もいるのだった。
◇ ◇ ◇ ◇
「おはよう!」
がらんとした事務室に、やけに明るい声が響き渡った。
声の主は、私の新しい上司。
妙なコネで『王宮結婚差配室』の室長に任命された胡散臭い男だ。
普段はどこをほっつき歩いているのか、ほとんど顔を出さないくせに。
たまに現れたかと思えば、決まって面倒事を持ち込んでくる。
「……帰ってください」
「つれないね、リディア。そんなに眉間にしわを寄せていると、せっかくの可愛い顔が台無しだよ」
「その口説き文句、聞き飽きました。どうせまた、面倒くさい仕事を持ってきたんでしょう」
軽薄な笑みを浮かべる上司を睨みつける。
すると、彼は「ご名答」とでも言うように、一枚の書類をひらひらさせた。
そして、やはり。
それはまた、面倒な仕事の依頼であった。
エリナ子爵令嬢とゲオルグ公爵の結婚。
年の差も、家の格も釣り合わない、異例中の異例というべき縁談だ。
なんでも子爵令嬢のあまりの美貌に、かの色好みで有名な公爵様が一目惚れした、とか。
(どうせろくな話じゃない……)
私の予感は、だいたい当たる。
後日、私たちは公爵閣下の屋敷で、当事者たちと打ち合わせを行うことになった。
豪奢な応接室に通される。
そこには初老の公爵と、その隣に小さくなっている子爵令嬢、そして彼女の両親が座っていた。
令嬢は、噂に違わぬ、まるで人形のように整った顔立ちの少女だった。
「やあ、フェイ室長。わざわざご足労いただき感謝する」
「いえいえ、公爵閣下。この度は誠におめでとうございます」
上司が優雅に挨拶をする。
それまで俯いていた子爵令嬢が、上司の顔を見て「わっ」と小さく声を上げ、頬を赤らめた。
(……またやってるよ、この人は)
私は内心で深くため息をついた。
この上司は、とにかく見た目だけは良いのだ。
きらきらと輝く金糸の髪に、空の色を映したような青い瞳。
貴族然とした優雅な物腰。
性格は驚くほど軽薄なくせに……
結婚準備の打ち合わせをすると、大抵の新婦は顔を上気させて喜ぶ。
そのうち、いつか駆け落ちでも提案されたり、嫉妬した新郎に刺されたりするんじゃないかと、私はいつも冷や冷やしている。
気を取り直して打ち合わせを進めていく。
しかし、どうにも奇妙だった。
ヒヤリングを進めても、なぜか新婦側は終始浮かない顔をしているのだ。
両親の表情も硬い。
異例の玉の輿だというのに、この重苦しい空気はいったいどういうことだろうか。
私が疑問に思っていると、公爵が口を開いた。
「それで、室長殿。結婚式の準備については全面的にお任せするが……結納金や持参金に関する取り決めだけは、我々と子爵家の間だけで進めさせていただきたい」
にこやかに、しかし有無を言わさぬ口調だった。
基本的にすべての結婚事務を請け負うのが、この部署の役割のはず。
それなのに、金の流れだけは自分たちでやると言う。
(何かを隠そうとしている……?)
私の疑念は、確信に変わった。
◇ ◇ ◇ ◇
打ち合わせを終えた私は、事務室に戻るなり調査を開始した。
自分に任された仕事ではない。それは分かっている。
下手に首を突っ込むべきではないことも。
だけど、あの令嬢の、助けを求めるような瞳が忘れられなかった。
そして何より、私の目の前に提示された、解き明かされるべき『パズル』の存在が、私を駆り立てた。
まず、子爵令嬢の家について調べる。
すぐに分かった。子爵家の運営する事業が、深刻な資金繰りに行き詰っている。
次に、王立図書館の記録保管庫に潜り込み、登記簿や債券の情報を洗い出す。
……あった。
子爵家が発行した多額の債券を、公爵家が裏で買い占めている。
そして、その返済期限は、結婚式のすぐ後に設定されていた。
「結婚と貸付」が、明らかに連動している。
次の日、私は子爵令嬢……エリナ嬢を一人で事務室に呼んだ。
「単刀直入に伺います。この結婚は、あなたの意思ですか?」
そう問いかけると、彼女の大きな瞳から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。
嗚咽を漏らしながら、彼女はすべてを語ってくれた。
家の借金の、実質的なかたとして、望まぬ政略結婚を強いられているのだと。
エリナ嬢が帰った後、私は公爵についても徹底的に調べ上げた。
貴族名鑑や過去の社交界の記録を漁ると、出てくる、出てくる。
見目麗しい下級貴族の令嬢に次々と結婚を持ちかけては、妊娠が分かると一方的に婚約を破棄したり、慰謝料と称して更に追い詰めたり……
その手口は巧妙に隠され、表沙汰にはなっていなかった。
だが、被害者の数は一人や二人ではなかった。
(政略結婚は貴族の義務……。けれど、これは違う)
これは、ただの人身売買だ。
私は、ぎり、と奥歯を噛みしめた。
◇ ◇ ◇ ◇
私のやるべきことは決まった。
まず、私は子爵令嬢の両親を事務室に呼び出した。
「お二人は、このままでよろしいのですか?令嬢の幸せを、借金と引き換えになさるおつもりで?」
私の言葉に、二人は顔を青くして俯いた。
彼らもまた、苦しんでいたのだ。
私は彼らの前で、資金繰りに窮している事業の企画書を広げた。
「この事業、まだ立て直せます」
私は三日三晩徹夜して、彼らの事業計画を徹底的に磨き上げた。
そして、それを王家の財務局へ持ち込み、直接プレゼンテーションを行った。
私の熱意と、再建計画の緻密さが認められ、王家からの出資を約束する意思確認書を獲得することに成功した。
それと並行して、法務局にも足を運んだ。
公爵の過去の悪行の証拠を突きつけ、今回の結婚が公序良俗に反する人身売買に近いと訴える。
そして、婚約を破棄するための法的な手続き準備を整えさせる。
さらに、懇意にしている投資家連盟にも話を持ちかけ、短期融資の仮承認を取り付けた。
資金調達の、まったく新しいルート。
そして、婚約を破棄するための、揺るぎない正当な理由。
全ての武器を揃えた上で、私は再びエリナ嬢を呼んだ。
「エリナ様。もう、あなたが我慢する必要はありません。借金は、別の方法で返せます。公爵との婚約も、合法的に破棄できます」
私は彼女の前に、全ての選択肢を並べた。
「……あなたはどうしたいですか?あなたの本当の気持ちを聞かせてください」
彼女は、しばらくの間、ただ黙って涙を流していた。
やがて、震える声で、しかしはっきりと、こう言った。
「わたくし……わたくしの意志で……結婚する相手を、選びたいです」
その言葉を聞いて、私は静かに微笑んだ。
こうして、公爵と子爵令嬢の異例の結婚は、正式に白紙撤回された。
公爵は王家と法務局から厳しい警告を受け、表向きの体面を保つことすら難しくなったらしい。
次の日。
上機嫌な上司が、鼻歌交じりに事務室へやってきた。
「やあ、リディア!聞いたよ、君がやったんだって?いやぁ、助かったよ!やるねぇ!」
その能天気な顔を見た瞬間、私の中で何かがぷつりと切れた。
「面倒な仕事を押し付けておいて、どの口が言うんですか!」
私は立ち上がり、力の限り叫んだ。
「あなたはいつもそうだ!厄介な案件だけ放り投げて!こっちの身にもなってください!面倒事は!仕事の結婚だけで!もう十分なんですよ!」
私の怒声に、上司はきょとんとした顔で目を丸くしていた。
◇ ◇ ◇ ◇
私が怒鳴りつけたというのに……
次の日、あの上司は何事もなかったかのように、ひょっこりと事務室に顔を出した。
「やあ、リディア。今日も眉間に皺が寄ってるね」
「……誰のせいだと」
じろりと睨みつけるが、柳に風と受け流される。
本当に食えない男だ。
そして、こういう時に彼が持ってくる話は、ろくなものじゃない。
「実はさ、有名なデザイナーのマダム・ロゼが新作ドレスのモデルを探していてね。先日の一件もあって、エリナ嬢を紹介したんだ。そうしたら、ぜひ君にお願いしたい、ということになって」
「…………は?」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
「なぜ、私が!?意味が分かりません!」
「いやあ、エリナ嬢がね、君のことを恩人だって、すごく褒めてたらしいんだ。『凛としていて、知性的で、自分の道を切り開く強さを持った素晴らしい方』だってさ。マダム・ロゼがその話にいたく感動して、今回のドレスのテーマにぴったりだ、と」
「お断りします!私は文官です!モデルなど!」
私が断固として拒否すると、上司は困ったように眉を下げた。
「そう言うなよ。エリナ嬢からの、心からのお礼の気持ちも含まれているんだ。無下にはできないだろう?」
……うっ。
それを言われると弱い。
あの少女の、涙ながらの感謝の言葉を思い出す。
ここで断れば、彼女の好意を踏みにじることになるかもしれない。
それに、デザイナーにまで話が通ってしまっている。
今更断る方がよほど面倒なことになるだろう。
「……時間は、かかりますか」
「半日もあれば終わるさ」
私は、空が落ちてきたかのような深いため息をついて、その依頼を受けることにした。
あれよあれよという間に、私は王城の一室に連れ込まれ、数人のメイドたちに取り囲まれた。
「さあ、リディア様、こちらへ!」
「まずはその大きな眼鏡を外しましょうね」
私の抵抗も虚しく、トレードマークの丸いメガネがひょいと取り上げられる。
視界が少しぼやけるが、それ以上に、素顔をさらすことへの居心地の悪さが勝った。
そのまま椅子に座らされ、手際よく化粧が施されていく。
髪は美しく結い上げられ、きらびやかな髪飾りがつけられた。
そして、最後にマダム・ロゼがデザインしたという、深青色のドレスに袖を通す。
上質な絹の生地が、さらりと肌を滑った。
「……まあ、なんてことでしょう!」
メイドたちが感嘆の声を上げる中、私は姿見に映った自分を見て、我ながら呆然としていた。
着付けが終わり、恐る恐る上司が待つ部屋へ向かう。
私が姿を現すと、扉のそばで壁に寄りかかっていた彼がこちらを見て目を見開いた。
いつもの軽薄な笑みも消え、珍しく驚いたような顔をしている。
「……お前、化粧をすると化けるんだな」
ややあって、彼がぽつりと呟いた。
「やっぱり、あのメガネは似合ってないんだよ」
「……余計なお世話です!」
私は顔に集まる熱を感じながら、精一杯そう言い返した。
実のところ、自分でも顔立ちがそれなりに整っていることは理解していた。
だが、この仕事をする上で、それは邪魔でしかない。
下手に目立てば、打ち合わせなどで新郎側に色目を使われたり、面倒なトラブルに巻き込まれたりする可能性が高くなる。
だからこそ、わざと野暮ったく見える大きなメガネで顔を隠し、地味な格好を貫いてきたのだ。
「さあ、行こうか。撮影は教会で行う」
上司に促され、二人で王城の廊下を歩く。
どういうわけか、すれ違う騎士や文官たちが皆、こちらを見て息を呑む。
ひそひそと噂話をしているのが分かった。
その視線が、私のことを見ているのだと気づくのに、時間はかからなかった。
後日、上司が面白そうに言っていた。
「なあ、リディア。あの日以来、俺のところに『あの麗しい令嬢は一体どなただ!?』って問い合わせが殺到してるんだけど」
(だから言わんこっちゃない……!面倒事が増えるから、絶対に正体がばれないようにしないと!)
私は心の中で、固く固く誓ったのだった。
◇ ◇ ◇ ◇
その頃、ゲオルグ公爵は屈辱に打ち震えていた。
子爵家の娘との結婚はご破算になった。
全ては王城にいる、あの小賢しい文官娘のせい。
ゲオルグは、自室でグラスを握りしめながら、どう復讐してやるかを考えていた。
家を取り潰し、路頭に迷わせ、絶望の淵に突き落としてやる。
そうでなければ、この腹の虫が収まらない。
その、まさにその時だった。
静かに部屋の扉が開き、一人の青年が音もなく入ってくる。
しかし、その身にまとう威圧感は尋常ではなかった。
「……何用かな、若造。名乗りもせずに入るとは、礼儀を知らんの……」
言いかけたところで、目の前の青年が誰なのかようやく気づいた。
王家の紋章。そして、その類い稀なる美貌と瞳の色。
「まさか……王太子……殿下……?」
フェリクス・ゼーアドラー。
彼は冷たい光を宿した青い瞳で、真っ直ぐに公爵を見据えた。
「先日は婚約がご破算になったと聞いた。大丈夫かと見に来たのだ」
「いえ、王太子殿下が気になさるようなことでは……」
「まさか、王城の文官に復讐でも企んでいるのではないだろうな、公爵」
その声に、公爵は心臓を鷲掴みにされたかのような衝撃を受けた。
なぜ、それを知っている。
「余計なことは考えるな。我が国の有能な文官に、指一本でも触れてみろ。……公爵家がどうなるか、分かるな?」
それだけを言うと、王太子は静かに踵を返し、部屋を出ていった。
残された公爵は、その場に崩れるように椅子に座り込み、呆然とするしかなかった。
たかが文官の娘ごときに、なぜ王太子殿下自らが出張ってくるのか。
復讐など、もはや不可能だった。
◇ ◇ ◇ ◇
王太子は堅苦しい儀礼用の馬車に乗り込むと、大きく息をついた。
そして、窮屈な正装を脱ぎ捨て、いつものラフなシャツ姿になる。
くしゃりと金色の髪をかき混ぜる。
これでようやく、ただの「フェイ」に戻れる。
王太子としての仕事は、多忙を極める。
政務に、視察に、つまらない貴族の相手。
だが、あの事務室で、あの口うるさくて、生意気で、それでいて放っておけない文官とやりとりをする時間があるから、何とかやっていけていた。
(……それにしても)
フェリクスは、先日のリディアのドレス姿を思い出す。
(あれは、美しかったな)
衣装と化粧であれほど化けるとは。いや、違う。元がいいのだ。
普段、あの野暮ったいメガネで隠されている涼やかな目元も、きつく結ばれがちな唇も。
本当は驚くほど魅力的だということを、自分だけが知っている。
そんなことを考えている自分に気づき、フェリクスは苦笑した。
今日は、どんな面倒事を持ち込んで、彼女をからかってやろうか。
どんなに怒った顔で、自分を睨みつけてくれるだろうか。
それを思うだけで、退屈な日常が、少しだけ色づく気がした。
馬車を降りたフェイは軽やかな足取りで、王城の片隅にある小さな事務室へと向かうのだった。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
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