第八話
王国軍を壊滅させてから一週間が過ぎた。
俺は森の最深部で新たな獲物を探していた。もはや森にいる動物程度では満足できなくなっており、大きな動物で、多くの知識を蓄えた存在――人肉への渇望が、日を追うごとに激しくなっていた。
六百名の王国軍との戦闘により、俺の能力は飛躍的に向上している。集団魔法の技術、国家レベルの戦術、そして大規模戦闘での制圧能力。すべてを習得した俺にとって、通常の相手では物足りない状況になっていた。
その時だった。
風向きが変わった瞬間、これまで感じたことのない強烈な魔力の匂いが鼻腔を刺激した。その魔力は、俺がこれまで遭遇したどの魔法使いよりも桁違いに強力だった。
王国の上級魔法使いたちが束になっても及ばないほどの、圧倒的な魔力の密度。それが単一個体から発せられているという事実に、俺の戦闘本能が激しく反応した。
俺の身体が本能的に興奮する。六本の触手が小刻みに動き、身体に埋め込まれた金属片が共鳴するように振動した。
これほどの魔法使いの脳を捕食できれば、どれほどの知識が手に入るだろうか。この世界の秘密、高度な魔法技術、そして隠された真実。すべてが俺のものになる。
茂みの間から金髪が見えた時、俺は美しい光景に目を奪われた。
黒いローブを纏った美しい少女が、森の中を一人で歩いている。輝く金髪がゆるやかなウェーブを描き、青い瞳は月光のように美しい。白い肌と華奢な体型は、まるで人形のような完璧さを持っている。
しかし、彼女から発せられる魔力の強大さは、その可憐な外見とは正反対だった。
俺がこれまで遭遇した魔法使いたちとは次元が違う。エルフの魔法使いや王国の上級魔法使いでさえ、彼女の足元にも及ばないだろう。その強大な魔力に、俺の捕食欲がさらに刺激される。
空気中のマナ濃度が異常に高まっているのが分かった。彼女の存在そのものが、周囲の魔力環境を変化させている。
少女は俺の異形の姿を見ても恐怖を示さなかった。
むしろ、興味深そうに俺を見つめている。その瞳には好奇心と、何かを探るような深い洞察力が宿っていた。まるで貴重な標本を観察する研究者のような表情だった。
これまで俺の姿を見た者たちは、例外なく恐怖か敵意を示した。しかし、この少女は全く異なる反応を見せている。
恐怖どころか、俺に対して学術的な興味を抱いているようにすら見える。
彼女が口を開いた。
「あら、素敵な存在ですね。」
その声は少女らしい明るさを持ちながら、どこか神秘的な響きがあった。
丁寧な口調だが、そこには年齢に似つかわしくない深い知識と経験が感じられた。
「私はエリッサと申します。あなたのような方にお会いできて、とても嬉しいです。」
俺には彼女の意図が読めなかった。
もし、普通の人間であれば俺の姿を見た瞬間に恐怖で逃げ出すか、あるいは戦闘態勢に入るかのどちらかだ。しかし、この少女は俺を『素敵な存在』として認識している。
彼女の言葉には裏がありそうだった。表面的には礼儀正しく友好的だが、その奥に隠された真意を読み取ることは困難だった。
だが、俺の関心は彼女の脳髄に集中していた。あれほどの魔力を持つ存在の記憶を得られれば、この世界の深層にある秘密を知ることができるはずだ。
俺は彼女に向かって突進した。
六本の触手が地面を蹴り、ゲル状の身体が猛烈な速度で彼女に向かう。これまでの戦闘で培った最高速度での移動だった。
距離は十メートル。俺の速度なら一秒足らずで接触できる。
エリッサが最初に放ったのは『グランドフレア』だった。しかし、王国の魔法使い部隊が放った同じ魔法とは威力が桁違いだった。
巨大な炎の奔流が俺を包み込み、温度は異常に高い。王国軍との戦闘で五十名の魔法使いが協力して発動した集団魔法と同等か、それ以上の威力を彼女一人で発揮している。
炎の渦は直径二十メートルにも及び、中心部の温度は鋼鉄を瞬時に蒸発させるほどに達していた。炎の色も通常とは異なり、白と青と紫が複雑に織り交ぜられた異常な輝きを放っている。
これまで獲得した火炎耐性でも、完全には防ぎきれない威力だった。だが、俺の身体は即座に適応を開始した。
火炎に触れた部分から新たな耐性組織が生成され、熱を吸収して無効化する機能が発達していく。数秒後には、エリッサの火炎攻撃に対する完全な耐性を獲得していた。
エリッサの表情に驚きの色が浮かんだ。
「まあ、すごいですね。これほど短時間で適応するなんて。」
彼女の声には純粋な驚きと、科学者が新発見をした時のような興奮があった。
恐怖や困惑ではなく、知的好奇心が刺激されている様子だった。この反応も、これまでの敵とは明らかに異なっている。
次に彼女が発動したのは『アイスランス』だった。
巨大な氷の槍が空中に形成され、俺を貫こうと迫ってくる。その威力は冒険者の魔法使いが放ったものとは比較にならない。
氷の槍は建物ほどの大きさがあり、表面には複雑な魔法文字が螺旋状に刻まれている。単純な氷結攻撃ではなく、魔法的に強化された複合攻撃だった。
槍は空中で分裂し、複数の氷塊となって俺を包囲する。それぞれが異なる角度から同時攻撃を仕掛けてくる高度な制御技術だった。
俺の身体に氷の槍が刺さった瞬間、激しい冷気が全身を襲った。
しかし、火炎攻撃の時と同様、俺の身体は瞬時に氷結耐性を発現させた。冷気を吸収し、逆に氷結魔法を使用する能力まで獲得した。
続いて雷撃魔法『ライトニングボルト』が俺を襲った。
空から降り注ぐ雷は、これまで経験した雷撃とは威力が全く違った。しかし、俺の進化能力は電撃に対しても即座に対応した。
電気を吸収し、逆に電撃を発生させる能力を獲得する。同時に、電撃に対する完全な免疫も確立された。
だが、エリッサの攻撃はそこで終わらなかった。
「面白いですね。では、これはいかがでしょう?」
彼女が次に発動したのは、俺が見たことのない種類の魔法だった。
『グラビティクラッシュ』。
重力を操作する魔法で、俺の身体に異常な重力がかかり始めた。通常の数十倍の重力が俺を地面に押し付けようとしてくる。
六本の触手が地面に叩きつけられ、移動が著しく困難になる。これまで経験したことのない種類の攻撃だった。
しかし、俺の適応能力は重力攻撃に対しても対応した。
身体構造を調整し、重力の影響を軽減する機能が短時間で構築される。さらに、重力を操作する能力まで獲得することができた。
戦闘が続くにつれ、エリッサの表情が変化していった。
最初の興味深そうな表情から、困惑の色が浮かび始める。彼女の強力な魔法が次々と俺に無効化されていく様子を見て、初めて戸惑いを見せていた。
「不思議ですね。どんな攻撃も学習してしまうなんて。」
彼女の声には困惑と同時に、さらなる興味も込められていた。
研究者としての好奇心が、困惑を上回っているようだった。
エリッサはより高度な魔法の使用を開始した。
『メテオストーム』、『アブソリュートゼロ』、『サンダーストーム』、『トルネード』。四大属性の最上級魔法が次々と俺を襲った。それぞれが国家レベルの脅威となる威力を持っていたが、俺の適応能力は彼女の魔法をも上回っていた。
『メテオストーム』では無数の炎の隕石が空から降り注ぎ、森の一部が焼け野原となった。
『アブソリュートゼロ』では絶対零度に近い冷気が周囲を覆い、木々が凍り付いて砕け散った。
『サンダーストーム』では連続する雷撃が大地を穿ち、巨大なクレーターを作り出した。
『トルネード』では竜巻が森を襲い、大木が根こそぎ引き抜かれていった。
しかし、どんな攻撃も一度受ければ二度目は通用しない。エリッサの攻撃パターンを学習し、魔法に対する完全な耐性を獲得していく俺を見て、彼女の表情に初めて本格的な困惑の色が浮かんだ。
俺は反撃を開始した。
身体から金属片を高速で射出し、複数の方向から同時攻撃を仕掛ける。鉄パイプの破片、曲がった針金、錆びた釘が彼女を狙う。
しかし、エリッサの反応は俺の予想を上回っていた。
彼女は華麗にそれらを回避し、まるでダンスを踊るように軽やかに身体を翻す。同時に、俺が習得したばかりの火球術で反撃してくる。
俺の火球術と彼女の魔法が空中で衝突し、爆発を起こす。威力は互角だった。
エリッサの身体能力も尋常ではなかった。
魔法使いでありながら、俺の高速攻撃を軽々と回避してみせる。その動きには無駄がなく、まるで未来を予知しているかのような正確性があった。
俺は触手による拘束攻撃を試みた。
六本の触手が異なる軌道でエリッサを包囲し、逃走経路を完全に封鎖する。これまでの戦闘で、この攻撃を回避できた敵はいない。
しかし、エリッサは空間魔法『テレポート』を発動し、瞬時に別の位置に移動した。
俺の触手は空を切り、彼女は数十メートル離れた場所に再出現していた。
「なかなか捕まえるのは難しそうですね。」
エリッサが余裕を見せながら言った。
彼女の戦闘スタイルは、これまでの敵とは根本的に異なっていた。力押しではなく、技術と知識による洗練された戦闘を展開している。
俺は魔法攻撃に切り替えた。
火球術、氷の槍、雷撃を連続で発動し、エリッサの回避能力を試す。しかし、彼女は俺の魔法を相殺する魔法で対応してきた。
『ファイアウォール』で火球を無効化し、『アイスシールド』で氷の槍を防ぎ、『ライトニングロッド』で雷撃を逸らす。
彼女の防御魔法の技術も極めて高度で、俺の攻撃を完璧に無力化していた。
戦闘は膠着状態に入った。
俺の攻撃力では彼女を捕らえることができず、彼女の攻撃力では俺を倒すことができない。互いの能力を理解し合った均衡状態が生まれていた。
これまでの戦闘では、時間の経過とともに俺が圧倒的に有利になっていった。しかし、エリッサとの戦闘は違っていた。
彼女も俺の攻撃パターンを学習し、対応策を次々と繰り出してくる。俺が進化するのと同じ速度で、彼女も戦術を改良していく。
戦闘は一時間ほど続いた。
俺は彼女のあらゆる攻撃に対する耐性を獲得し、彼女も俺の攻撃パターンを学習して対応してくる。互いの能力を理解し合った膠着状態となった。
周囲の森は戦闘の余波で大幅に地形が変わっていた。
巨大なクレーター、焼け野原、凍り付いた大地、雷撃で焦げた木々。まるで天変地異が起こったかのような惨状だった。
その時、エリッサが突然攻撃を止めた。
「とても興味深いです。あなたは本当に素晴らしい存在ですね。」
彼女の表情に恐怖はない。むしろ、新たな発見をした研究者のような喜びがあった。
この一時間の戦闘で、彼女は俺の能力を詳細に分析していたのだろう。
「でも、今日のところはここまでにしましょう。私にはまだ準備が必要なようです。」
そう言うと、エリッサは空間魔法を発動した。
彼女の周囲に複雑な魔法陣が展開され、空間が歪み始めた。
転移魔法だった。俺がこれまで見たことのない高度な魔法技術だった。
俺は慌てて彼女を捕らえようとしたが、既に手遅れだった。
エリッサの姿が薄れ始め、次の瞬間には完全に消失していた。転移魔法により、どこか遠い場所に移動してしまったのだ。
俺は森に一人残された。
初めて、俺は完全に取り逃がした獲物を前にしていた。これまでの敵はすべて捕食できていたが、エリッサは俺の手の届かない場所へと逃げ去った。その事実が、俺にとって新たな刺激となった。
彼女の魔力の記憶が、俺の嗅覚に深く刻み込まれている。この匂いを忘れることはないだろう。
エリッサとの戦闘は、俺にとって多くの発見をもたらした。
まず、俺と同等か、それ以上の戦闘能力を持つ存在がこの世界に存在するということ。
次に、俺の適応能力を理解し、それに対応できる知的な敵が存在するということ。
そして、俺でも捕食できない相手がいるという現実。
これまでの俺は、あらゆる敵を圧倒してきた。しかし、エリッサは違った。
彼女は俺の能力を理解し、対等に戦い、そして自分の意志で戦闘を終了させた。俺が主導権を握れなかった初めての戦闘だった。
夜が深まる中、俺はエリッサとの戦闘を振り返っていた。
彼女の魔法技術は確かに高度で、俺がこれまで相手にしてきた敵とは格が違う。単純な戦闘力だけでなく、戦術的な思考力も卓越している。
そして何より、俺に対する反応が他の敵とは根本的に異なっていた。恐怖ではなく興味を示し、俺を『素晴らしい存在』として評価している。
彼女は俺と同じように、この世界の常識を超越した存在なのかもしれない。
「また近いうちにお会いしましょう。」
彼女の最後の言葉が、俺の記憶に残っていた。彼女は必ず戻ってくる。その時には、今度こそ彼女を捕食してやる。
俺は次の機会を楽しみに待つことにした。
エリッサという名の少女。
俺にとって初めての、真の意味での強敵との出会いだった。




