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第三話

 哺乳類の記憶から得た情報を頼りに、俺は森の外縁部へと足を向けた。昨夜の捕食で獲得した知識が、頭の中で整理されていく。


 人間の集落。


 その言葉が、俺の中で新たな欲求を呼び覚ましていた。小動物の血肉も悪くないが、より複雑な思考を持つ存在の脳髄には、どれほど豊富な情報が詰まっているのだろうか。

 六本の触手が地面を蹴り、俺の身体は森の奥から人里へと向かっていく。ゲル状の身体は枝や岩の間をするりと縫って進み、人間だった頃では考えられないほど自在に動いてくれる。

 身体に埋め込まれた金属片が軽やかに鳴る音すら、今では心地よく感じられた。


 森を抜けると、視界が一気に開けた。

 人の手が入った土地特有の、整然とした景色が広がっている。畑の畝が規則正しく並び、用水路が碁盤の目のように区画を分けていた。遠くには煙突から立ち上る煙が見える。


 確実に人間の集落だ。

 俺の全身に戦慄が走る。興奮ではない。純粋な捕食欲が、身体の奥底から湧き上がってくる感覚だった。


 その中で、ふと夜空を見上げた時、俺は驚愕した。


 月が二つ浮かんでいる。

 大きな月と小さな月が、まるで兄弟のように並んで夜空に輝いていた。地球では絶対に見ることのできない光景。


 ここは異世界なのか。


 その事実を受け入れるのに、さほど時間はかからなかった。異形の怪物に変わった俺にとって、場所が地球でなかろうと大した問題ではない。重要なのは、この世界にも人間という捕食対象が存在するということだけだ。

 思考が完全に変わってしまったのだろう。人間だった頃なら、異世界転移という状況に混乱していたはずだ。だが今の俺は、この状況を単なる新しい狩場として認識している。

 感情の起伏が著しく小さくなり、すべてを論理的に処理する思考パターンに変化していた。


 集落の偵察を開始する。


 夜の闇に身を隠しながら、人間たちの住居に近づいていく。ゲル状の身体は光をほとんど反射せず、意識すれば金属音も抑制できる。完全に気配を消すことが可能だった。

 最初に目に留まったのは、集落の外れにある小さな家屋だった。

 窓から漏れる灯りが、内部に人がいることを教えてくれる。鼻孔に届く匂いから判断すると、住人は一人だけのようだ。


 窓の隙間から内部を覗き込む。


 中年の男性が一人、質素な夕食を取っていた。痩せこけた体つきで、深い疲労が顔に刻まれている。農民らしい粗末な服装をしており、手は農作業で荒れていた。

 俺の嗅覚が、この男性に関する詳細な情報を分析していく。

 栄養状態は良くない。慢性的な疲労を抱え、健康状態も優良とは言えない。一人暮らしで、他の住民との接触も限定的。社会的な結びつきが薄い人物だった。


 つまり、獲物だ。

 男性が食事を終え、床についたのを確認してから行動を開始した。


 窓からの侵入は想像以上に簡単だった。ゲル状の身体を薄く延ばし、僅かな隙間から内部に浸透していく。人間の身体では絶対に不可能な芸当だった。

 寝室に向かう足音も、まったく立てずに済む。

 男性は深い眠りについていた。一日の労働で蓄積した疲労が、彼を熟睡状態に導いている。多少の物音では目覚めそうにない。


 俺は男性の枕元に立った。

 身体の奥から、圧倒的な飢餓感が押し寄せてくる。人間の肉への渇望が、理性的な思考を押し流していく。もはや制御することなど不可能だった。

 触手が男性の首に巻きつく。


 その瞬間、男性の目が見開かれた。俺の異形の姿を捉えた瞳に、純粋な恐怖が宿る。声にならない悲鳴を上げようとするが、既に声帯は圧迫されており、音を発することができない。

 恐怖に歪んだ表情が、俺の食欲をさらに刺激した。

 この恐怖こそが、人間特有の『調味料』なのかもしれない。小動物にはない、複雑で深い感情の味わい。


 捕食を開始する。

 男性の身体が徐々に俺のゲル状の身体に取り込まれていく。最初は激しく抵抗していたが、時間の経過とともにその動きも弱々しくなっていく。


 そして、決定的な瞬間が訪れた。


 男性の脳から、膨大な記憶と知識が津波のように流れ込んできたのだ。

 これまでの小動物とは次元の違う情報量だった。男性の人生すべてが、一瞬で俺の記憶となって定着していく。

 彼の名前、家族構成、集落の住民数、近隣の地理情報。この世界の社会システム、文化、宗教観に至るまで、あらゆる知識が脳内に蓄積されていく。

 情報量があまりにも膨大で、一時的に意識が混濁した。

 しかし、異形の身体は人間の脳を遥かに上回る情報処理能力を有しているようだった。混乱した情報群が瞬時に整理され、体系的な知識として再構築されていく。

 得られた知識により、俺はこの世界の概要を理解することができた。


 ここは魔法と剣の世界だった。


 人間以外にも、エルフやドワーフといった異種族が存在している。モンスターと呼ばれる危険な生物も各地に生息しており、それらを討伐する冒険者という職業も確立されていた。

 この集落は小規模な農村で、住民は約五十人程度。最寄りの町まで半日の距離があり、交通の便は決して良くない。防衛力も最低限で、時折モンスターの襲撃を受けることもあるという。

 そして、俺のような異形の存在は、この世界でも極めて稀で危険な存在として恐れられているらしい。


 これらの情報を整理しながら、俺は人間の肉の味を堪能していた。


 小動物の肉とは全く異なる、複雑で濃厚な味わいだった。単純な栄養価だけでなく、知識や記憶といった精神的な要素も同時に摂取している感覚がある。

 初めての人間捕食により、俺の身体にも劇的な変化が生じていた。

 知性が大幅に向上している。情報処理能力、記憶容量、論理的思考力のすべてが飛躍的に向上した。人間だった頃よりもはるかに頭脳明晰になったような感覚だった。

 身体能力も底上げされている。筋力、敏捷性、耐久力のあらゆる面で能力が向上していた。

 男性の記憶から得た詳細な情報により、俺は集落攻略の完璧な計画を立てることができた。

 住民の生活パターン、家屋の構造、逃走経路、隠れ場所。すべてを把握している状況で、効率的な捕食作戦を実行できる。


 次の獲物を物色する。

 集落の端に位置する家屋に、高齢の女性が一人で住んでいることが男性の記憶から判明していた。足腰が弱く、移動能力が制限されている。他の住民との交流も少なく、数日間姿を見せなくても気づかれる可能性が低い。

 理想的なターゲットだった。


 二人目の捕食は、一人目よりもスムーズに進行した。


 俺の技術が向上したこともあるが、それ以上に人間を捕食することへの心理的な抵抗が完全に消失していた。もはや俺にとって、人間は単なる食料でしかない。

 老女の記憶からは、より深層の地域情報を獲得することができた。

 彼女は長年この集落で生活しており、周辺地域の歴史や人間関係に精通していた。特に重要だったのは、この地域の防衛体制に関する情報だった。

 最寄りの町には騎士団の支部があり、緊急時には援軍を派遣してくれる体制が整っている。しかし、連絡手段は伝令による徒歩伝達のみで、相当な時間を要する。

 この集落の武装は貧弱だった。剣や槍などの基本的な武器はあるが、魔法武器は存在しない。住民の大半は戦闘経験がなく、モンスターとの実戦には不慣れだった。


 これらの情報を総合すると、集落の住民全員を捕食することも十分に可能だと判断できた。


 三人目、四人目と捕食を重ねていく。

 新たな知識と記憶を獲得するたびに、俺の理解はより深くなっていく。この世界の政治システム、経済構造、宗教観、文化的背景。人間社会のあらゆる側面が俺の知識として蓄積されていった。

 同時に、身体能力も継続的に向上していく。捕食のたびに新たな能力を獲得し、既存の能力も強化されていく好循環が生まれていた。

 五人目の捕食を行った時、俺は画期的な発見をした。

 身体から複数の触手を同時に展開し、複数の獲物を並行して捕食することが可能になったのだ。


 効率が格段に向上し、短時間で大量の栄養と情報を獲得できるようになった。この新能力により、俺は一夜にして集落住民の大半を捕食した。

 抵抗を試みる者もいたが、俺の圧倒的な能力の前では無力だった。

 彼らの武器は俺の身体にほとんど効果を示さない。鋼鉄の剣や槍はゲル状の身体に吸収されるか、金属片によって弾き返される。

 戦闘と呼べるほどの交戦すら発生しなかった。

 集落制圧を完了した俺は、森に戻って今回の成果を整理した。


 膨大な知識と記憶を獲得し、身体能力も大幅に向上した。何より、人間社会に関する理解が深まったことで、今後の行動計画を立案しやすくなった。

 この初陣により、俺は自分の潜在能力を確信した。

 適切な情報収集と計画的な行動により、この世界のあらゆる存在を捕食することが可能だ。人間だった頃の俺では絶対に到達できなかった境地に、既に足を踏み入れている。


 森の奥で休息を取りながら、俺は次の標的について検討した。

 より大規模な町、より強力な相手。それらを攻略することで、俺はさらなる高みに到達できるはずだ。

 夜空に浮かぶ二つの月を見上げながら、俺は新たな世界での生活に完全に適応したことを実感していた。


 人間だった頃の記憶はまだ残っている。会社での日々、満員電車、深夜の残業、コンビニ弁当の味。すべてが鮮明に思い出せる。

 しかし、それらはもはや遠い過去の出来事でしかない。

 今の俺が求めているのは、根源的な捕食欲の充足と、この異形の身体としての能力をさらに発展させることだけだった。


 明日はより大きな獲物を求めて、さらなる狩場へと向かおう。

 洞窟の奥で身体を休めながら、俺は次の行動計画を練り上げていった。人間の町を観察し、価値の高い情報源を選定する。できる限り効率的に、そして確実に捕食を実行する。

 夜が更けていく中、俺の身体は静かに次の進化への準備を整えていた。


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