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第二話

 深い森の中で目覚めた俺は、しばらくその場から動けずにいた。


 この身体に慣れるまで、相当な時間がかかりそうだった。人間だった頃の感覚とはまるで違う。まず視覚からして異常だった。正面だけでなく、三百六十度すべての方向を同時に認識できる。頭を動かす必要がない。背後の木々も、左右の茂みも、上方の枝葉もすべて一度に見えている。

 焦点も自在に調整できた。遠くの鳥の羽根一本一本から、足元を這う蟻の動きまで鮮明に捉えられる。人間の目では絶対に不可能な芸当だった。


 聴覚の変化はさらに劇的だった。


 数百メートル先で枝が折れる音、地中を這う虫の足音、樹液が幹を流れる微かな音まで聞き分けられる。音の方向と距離も正確に把握でき、まるで頭の中に立体的な音の地図が描かれているようだった。

 人間だった頃は、せいぜい目の前の会話や近くの車の音程度しか意識できなかった。それが今では森全体の音響世界が手に取るように理解できる。


 しかし最も衝撃的だったのは嗅覚だった。

 土の匂い、植物の匂い、そして生き物の匂い。これまで経験したことのない濃密さで、それぞれの匂いが俺の意識に流れ込んできた。森には多くの生命が存在していることが、匂いによってはっきりと感じ取れた。

 小鳥、リス、そしてより大きな動物たち。一匹一匹の体温や健康状態、最後に食べた餌の種類まで匂いから読み取れる。まるで空気中に漂う無数の情報を文字として読んでいるような感覚だった。


 人間だった頃は、料理の匂いや香水程度しか区別できなかった。それが今では、風向きや湿度の変化も敏感に察知し、匂いの強弱から距離や方向を正確に把握できる。

 そして俺自身から発せられる匂いが最も強烈だった。

 血と錆の混じった、金属特有の刺激臭。それに加えて、何とも形容しがたい有機質な臭い。まるで工場の廃液と生肉を混ぜ合わせたような、おぞましい悪臭が俺の身体から立ち上っている。


 俺は怪物になってしまった。


 立ち上がってみる。思ったより簡単に動けた。ゲル状の身体は予想以上に機敏で、人間だった頃よりもスムーズに動作できる。

 六本の触手のような肢体が地面を掴み、安定した姿勢を保っている。一本一本を独立して制御でき、岩の上でも滑りやすい苔の上でも確実に歩行できる。バランス感覚も格段に向上し、急な斜面でも楽々と移動できそうだった。


 動いてみると、金属片が軋む音が森に響く。錆びた鉄パイプの断片、曲がった針金、釘や鋲といった雑多な金属が身体に埋め込まれ、歩くたびに不協和音を奏でる。

 この音で、他の生き物たちが俺の存在に気づくだろう。実際、森の小動物たちが俺から遠ざかっていくのがわかった。本能的に危険を察知しているのだ。鳥たちは慌ただしく羽ばたき、小さな哺乳類たちは茂みの奥へと姿を隠した。


 森の中を歩き回りながら、俺は自分の身体の機能を確かめていった。

 ゲル状の構造は自由に形状を変化させることができるようだった。意識を集中すると、身体の一部を伸ばしたり縮めたりできる。粘性も意識的に調整でき、水のようにサラサラにも、粘土のように固くもできる。

 身体に埋め込まれた錆びた金属片も、単なる装飾ではないことが分かった。試しに意識を集中してみる。すると、身体の表面に突き出していた釘が勢いよく飛び出し、近くの木の幹に深々と突き刺さった。


 射程距離は十メートル以上、威力も十分だ。


 鉄パイプの断片、針金の塊、釘や鋲といった雑多な金属が身体に混在している。まるで廃材を集めたオブジェのような様相だが、それぞれが独立した武器として機能する。近距離戦では打撃武器として、遠距離戦では投射武器として使い分けられる。


 その時、強烈な匂いが俺の嗅覚を刺激した。

 血の匂い。そして肉の匂い。


 身体の奥から、原始的な欲求が湧き上がってきた。飢餓感。それは人間だった頃には感じたことのない、圧倒的な渇望だった。胃袋ではなく、身体全体が栄養を求めて疼いている。

 この感覚は、とても理性では制御できない、本能に根ざした衝動だった。

 匂いの源を辿って森の奥へ向かうと、そこには小さな動物の死骸があった。何かの小動物らしいが、既に腐敗が始まっている。人間だった頃なら確実に吐き気を催したであろう光景だが、今の俺には食欲をそそる対象でしかない。


 理性が必死に抵抗する。


「これはダメだ。人間として食べられるものじゃない。」


 そう自分に言い聞かせた。しかし身体は既に行動を開始していた。六本の触手が死骸に向かって伸び、ゲル状の身体が獲物を包み込む準備を整えている。

 意識と身体の乖離に戸惑いながらも、俺は自分の行動を止められなかった。


 死骸に触れた瞬間、強烈な快感が全身を駆け抜けた。これまで体験したことのない、圧倒的な満足感。飢餓感が一気に和らぎ、代わりに力が身体の奥から湧き上がってくる。

 最初の捕食を終えた俺は、身体の変化を実感していた。筋力が向上し、反射神経も鋭くなっている。何より、この異形の身体を制御する能力が格段に向上していた。


 同時に、死骸を食べることへの嫌悪感は薄れ、代わりに『次の獲物はどこにいるか』という思考が浮かぶ。道徳的な罪悪感よりも、効率的な捕食方法を考える自分がいた。

 この変化に対する恐怖もあった。しかし、それ以上に身体の奥から湧き上がる充実感の方が強い。人間だった頃の慢性的な疲労感や憂鬱感は完全に消失し、代わりに生命力に満ち溢れた感覚が支配している。


 次の獲物を求めて森の中を探索していると、小さな鳥の群れを発見した。


 人間だった頃なら『可愛い』などと思ったであろう小鳥たちが、今は『食料』にしか見えない。


 鳥たちに近づく。人間の頃なら確実に逃げられたであろう距離だが、今の俺は完全に気配を消すことができる。ゲル状の身体は音をほとんど立てず、匂いも意識的に抑制できる。

 一羽の鳥が俺の存在に気づいた時には、既に手遅れだった。触手が稲妻のように伸び、獲物を捕らえる。他の鳥たちが慌てて飛び立つ中、俺は確実に一匹を捕獲した。


 捕食の瞬間、新たな感覚が生まれた。


 獲物の記憶の断片が流れ込んできたのだ。鳥が最後に見た景色、感じた恐怖、そして死の瞬間の感覚。それらが俺の意識に混入し、一瞬だけ鳥の視点で世界を見ることができた。

 これは偶然なのだろうか。それとも、この身体が持つ特殊な能力なのか。


 実験として、もう一匹の小動物を捕食してみる。今度はより鮮明に、獲物の記憶が流れ込んできた。生息地の情報、他の動物たちの行動パターン、危険な場所と安全な場所。短時間の接触で、膨大な情報を得ることができた。

 この能力により、俺は森の生態系を急速に理解し始めた。どこに何の動物がいて、どのような行動パターンを取るのか。人間だった頃なら何年もかけて学ぶべき知識を、捕食によって瞬時に獲得できる。

 捕食を重ねるごとに、身体の能力も向上していく。最初は小鳥やリス程度しか捕らえられなかったが、徐々により大きな獲物にも対応できるようになった。


 ある時、中型の哺乳類と遭遇した。


 人間だった頃の知識では正確な種類は分からないが、犬ほどの大きさの肉食動物のようだった。

 相手も俺を警戒している。牙を剥き、唸り声を上げて威嚇してくる。人間だった頃なら恐怖で動けなかっただろうが、今の俺には獲物としてしか見えない。


 戦闘が始まった。


 相手の攻撃は確かに鋭い。鋭い牙と爪で俺の身体を引き裂こうとしてくる。しかし、ゲル状の身体は物理攻撃にある程度の耐性を持っている。傷を受けても即座に修復され、致命的なダメージを受けることはない。


 一方、俺の反撃は相手にとって予想外だった。身体から射出された金属片が相手の足を貫き、動きを封じる。そして触手による拘束攻撃で、相手を完全に制圧した。

 この戦闘で、俺は自分の戦闘能力を理解した。単純な力では人間の頃とそれほど変わらないかもしれない。しかし、特殊な身体構造と武器、そして高度な感覚能力により、人間では到底太刀打ちできない相手とも戦えることが分かった。

 捕食後、またしても獲物の記憶が流れ込んできた。今度はより豊富で詳細な情報だった。この森の地形、危険な場所、他の肉食動物の縄張り、そして…人間の存在。


 この哺乳類は、人間を見たことがあった。

 記憶の断片から、森の外縁部に人間の集落があることが分かった。距離はそれほど遠くない。歩いて半日程度の場所に、人間たちが住んでいる。

 その瞬間、俺の中で何かが変わった。

 これまでは森の小動物を捕食することで満足していた。しかし、人間の存在を知った途端、新たな欲求が湧き上がってきた。


 人間を食べてみたい。


 この思考に、俺自身が驚いた。この姿になるまで、ごく普通の人間だった自分が、同種を捕食したいと考えていた。

 人間の肉はどんな味がするのだろうか。小動物とは違う、より複雑で濃厚な味がするのではないか。そして、人間の脳から得られる記憶や知識は、動物のそれとは比較にならないほど豊富なのではないか。

 こうした思考を巡らせている自分は、もはや全てを論理的に処理する思考パターンに変化しているようだった。


 日が傾き始める頃、俺は森の奥深くで休息を取ることにした。

 人間だった頃のように眠る必要はないようだが、捕食と戦闘により消耗したエネルギーを回復させる必要がある。適当な洞窟を見つけ、そこに身を潜めた。


 静寂の中で、俺は自分の変化を振り返った。

 俺はもはや人間ではなくなった。身体だけでなく、思考も感情も、すべてが異形のそれに変わってしまった。

 しかし、不思議と絶望感はない。

 むしろ、この身体と能力があれば、人間だった頃には決して到達できなかった境地に達することができると思えた。


 前世で人間だった頃の記憶と知識は残っている。

 しかし、そんな過去は今の俺には、もはや何の意味を持たない過去の遺物と化していた。

 今の俺が何よりも欲しているのは、根源的な欲求とこの姿としての新たな能力を発展させていく。そのことだけだった。


 明日は人間の集落に向かってみよう。そこで何が起こるかは分からないが、きっと新たな発見があるはずだ。


 そして、人間の味も確かめてみたい。


 洞窟の奥で身体を休めながら、俺は次の行動を計画した。人間の集落を観察し、適当な獲物を選定する。できれば一人でいる時を狙い、他の人間に気づかれないように捕食する。

 夜が更けていく中、俺の身体は静かに次の進化への準備を整えていた。

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