第十二話
エリッサによる実験が始まって三日が過ぎた朝、館の静寂を破る音が俺の部屋にも届いた。
その音とは、鳥の鳴き声だった。
しかし、それは普通の鳥ではない。魔力を帯びた特殊な音色があり、何らかのメッセージを運んできているようだった。
甲高い鳴き声は規則的なパターンを持ち、まるで人間の言葉を模倣しているかのようだ。
エリッサが慌ただしく玄関へ向かう足音が聞こえる。
普段の彼女は優雅で落ち着いた動きを見せるが、今朝は明らかに急いでいる様子だった。階段を駆け下りる音、扉を開く音、そして鳥と会話しているような声が断続的に聞こえてくる。
俺は窓際に移動し、外の様子を観察した。
中庭に降り立っているのは、普通の鳥の倍ほどの大きさを持つ美しい青い鳥だった。翼には魔法文字が浮かび上がり、くちばしからは微かな魔力が放射されている。おそらく、伝書鳥の一種らしく、重要な連絡を運んできたのだろう。
エリッサは鳥から小さな巻物を受け取ると、その場で内容を確認し始めた。彼女の表情が次第に深刻になっていくのが、窓からでも見て取れた。
しばらくして、彼女が俺の部屋を訪れた。
手には先ほどの巻物が握られており、いつもの研究道具は持参していない。今日は実験ではなく、別の用件があるようだった。
「緊急依頼が来ました。」
エリッサの声には普段の学術的な興奮ではなく、真剣さが込められていた。
俺は興味を示さず、彼女の方を見ることもしなかった。どうせ俺には関係のない話だろう。彼女の研究活動の一環に過ぎない。
「近隣のダンジョンで魔物の異常発生が確認されたそうです。調査と対処が求められています。」
エリッサが巻物の内容を説明し始めた。
ダンジョンの名前は俺の知らない場所だったが、この地域では有名な場所らしい。通常は比較的安全とされているダンジョンで、突然大量の魔物が出現し、周辺地域に被害が及んでいるという。
「依頼元は町の冒険者ギルドです。原因の調査と、可能であれば問題の解決を求められています。」
面白そうな様子で、エリッサが詳細を語っていく。
俺は内心で苛立った。また彼女の仕事に付き合わされるのだろうか。実験室から檻が変わるだけで、結局は彼女の都合に振り回される存在でしかない。
だが、エリッサの次の言葉は俺の予想を裏切った。
「タカシ、あなたも一緒に来ていただけませんか。」
その提案に、俺は驚いた。
これまで館の外に出ることは一度もなく、エリッサが俺を連れ出すことを提案するとは想像していなかった。
常に監視下に置き、実験を繰り返すだけの彼女が、なぜ俺を外に連れ出そうとするのか。
俺は警戒心を込めて彼女を見つめた。
エリッサの表情には、いつもの研究者としての冷静さに加えて、何か計算的な思考が見えた。
「あなたの戦闘能力は確実に私を上回っています。それに、実際の戦闘でのデータを取ることができれば、研究にも有益です。」
エリッサの説明は論理的だった。
だが、俺には彼女の真意が理解できた。
俺の能力を実戦で観察し、より詳細なデータを収集する機会として捉えている。
それでも、館の外に出られるという事実は、俺にとって魅力的だった。
久々に檻から解放される機会。そして、わずかでも束縛から脱出できる可能性が生まれるかもしれない。
それに、この場所から出られること。それは何よりも優先したい事柄のひとつだった。
俺はテレパシーで応答した。
『分かった。協力しよう。』
エリッサの表情に満足そうな笑みが浮かんだ。
「ありがとうございます。準備を整えましょう。」
出発の準備が始まった。エリッサは魔法装置や薬品類を詰め込んだ鞄を用意していた。
そして、俺には身体に突き刺さった槍の制御調整を行った。
「戦闘に支障がないよう、制約を緩和します。ただし、私に危害を加えないという基本的な制限は残りますよ?」
そう言いながらエリッサが槍に向かって複雑な呪文を唱えると、これまで感じていた束縛感が大幅に軽減された。
身体の動きが軽やかになり、久々に自由な感覚を味わうことができた。
完全な自由ではないが、これまでの窒息しそうな束縛感と比べれば天国のような解放感だった。
六本の触手が思うように動き、身体の形状変化も以前のように自在に行える。
ただし、エリッサに向かって攻撃的な行動を取ろうとすると、依然として制限が働くのが分かった。根本的な支配構造は変わっていない。
館から出た、俺は複雑な心境だった。
数週間ぶりに館の外に出ることができる喜びがある一方で、これが新たな実験の一環であることへの警戒心もある。
エリッサは俺を実験動物として連れ出しているのであり、俺の自由を認めたわけではない。
だが、それでも外の空気を吸えることは貴重だった。
森の匂い、鳥の鳴き声、風の感触。すべてが檻の中では味わえない感覚だった。俺の嗅覚が久々に多様な情報を捉え、全身の感覚器官が活性化していく。
森の中を歩きながら、エリッサが話しかけてきた。
「タカシは、前の世界でどのような生活を送っていたのですか?」
彼女の質問は純粋な興味から発せられたもののようだった。
俺は最初無視しようとしたが、久々の外出で気分が高揚していることもあり、答えることにした。
『会社で働いていた。毎日同じような業務の繰り返しで、特に充実感はなかった。』
「会社、ですか。多くの人が集まって働く場所でしょうか?」
『そうだ。数十人から数百人の人間が一つの建物で様々な仕事をしている。』
俺の説明を聞いて、エリッサは興味深そうに頷いた。
「私にはあまり理解できない環境ですね。ずっと一人で研究を続けてきましたから。」
エリッサの言葉に、俺は彼女の生活について疑問を抱いた。
『なぜ一人で森に住んでいるのだ。町で他の魔法使いと一緒に研究した方が効率的ではないか?』
「それは…」
エリッサが言葉に詰まった。
何か答えにくい理由があるようだった。
「私の研究分野は、あまり一般的ではないのです。他の魔法使いたちには理解してもらえませんでした。」
彼女の声に寂しさが滲んでいた。
この会話で、俺は初めてエリッサの人間的な側面に触れた気がした。
常に冷静で計算的な研究者という印象だったが、彼女にも孤独や疎外感といった感情があるらしい。
一人で森に隠れ住んでいるのは、単なる好みではなく、社会から受け入れられなかったからなのかもしれない。
『どのような研究をしているのだ?』
俺の質問に、エリッサは少し躊躇した後で答えた。
「異常な魔法現象の研究です。通常の魔法理論では説明できない現象を調査し、新たな理論を構築しようとしています。」
『それが受け入れられない理由なのか?』
「一般的な魔法使いたちは、既存の理論に固執します。新しい発見や理論を認めたがらないのです。」
エリッサの言葉に、俺は微妙な共感を覚えた。
人間だった頃の俺も、会社で新しいアイデアを提案しても受け入れられないことが多かった。上司や同僚は既存のやり方に固執し、変化を嫌がる。
もちろん、俺の状況とエリッサの状況は全く異なる。彼女は俺を実験動物として扱っている。だが、それでも彼女なりの苦労があることは理解できた。
森を進む間、二人の会話は続いた。
「あなたの世界では、どのような技術が発達していたのですか?」
『魔法の代わりに科学技術が発達していた。電気を使った機械や、情報を処理するコンピューターなどがあった。』
「興味深いですね。魔力を使わずに現象を制御する技術…ぜひ詳しく聞かせてください。」
エリッサの学術的な興味が刺激されているのが分かった。
俺は電車、自動車、インターネットなどについて簡単に説明した。魔法が存在しない世界で発達した技術の数々を、彼女なりに理解しようと努めている。
「魔力を使わずに人や情報を移動させる…理論的には可能ですが、実現は困難でしょうね。」
彼女の分析を聞いていると、俺は自分の前世について客観的に考える機会を得た。
人間だった頃の生活は確かに便利だったが、それほど充実していたわけでもない。
今の俺は異形の怪物になったが、人間だった頃よりもはるかに強大な力を得ている。エリッサに支配されているという問題はあるが、純粋な能力面では人間時代とは比較にならない。
そんなことを考えていると、やがて、俺たちはダンジョンの入口に到達した。
岩山の麓に口を開けた洞窟から、確かに異常な魔力の波動が発せられていた。通常のダンジョンよりもはるかに強い魔力が渦巻いており、内部で何らかの異常が発生していることは間違いない。
俺の嗅覚が捉えた匂いも尋常ではなかった。
大量の魔物の匂い、恐怖と興奮の混合、そして何か異質な魔力の残滓。通常の環境では感じられない、混沌とした雰囲気が漂っていた。
「あれがダンジョンの入口です。」
エリッサが指差した洞窟を見て、俺の戦闘本能が刺激された。
久々に強敵と戦える機会かもしれない。館での実験生活で鈍った身体を動かし、本来の力を発揮できる場がようやく訪れた。
そして、何より重要なのは、この状況で脱出の機会を見つけることだった。
戦闘の混乱に紛れて逃走できるかもしれない。あるいは、ダンジョンの奥で槍の制御を解除する方法を見つけられるかもしれない。
「それでは、行きましょう。」
エリッサが俺に話しかけてきた。
俺は頷き、彼女と並んでダンジョンの入口に足を踏み入れた。




