第一話
平凡な日々。それが突然終わるとは思ってもいなかった。
東京の喧騒に埋もれた日常。高層ビルの谷間で、俺は何の変哲もない会社員として生きていた。
二十六歳。中小のIT企業に勤める若手社員だ。特筆すべき才能があるわけでもなく、かといって特別不器用というわけでもない。そんな普通の存在が俺だった。
朝は満員電車に押し込まれ、夜は疲れ果てた顔で帰宅する。そんな毎日を繰り返していた。
あの日も、そんな普通の一日だった。はずだった。
オフィスで仕事を終え、いつもより遅い帰り道を歩いていた。電車を一本逃したため、普段使わない裏通りを通ることにした。明かりが少なく、足元に気をつけながら歩いていく。
「残業だけはもうたくさんだな…」
ため息が自然と漏れた。会社での業務、上司からの無理難題、ギリギリの納期。すべてが俺の肩に重くのしかかっていた。
うちの会社は表向きはホワイト企業を装っているが、実態はブラックそのもの。残業代はほとんど出ないし、休日出勤も当たり前。新人の頃から『これが業界の常識だ。』と刷り込まれ、みんな黙って従っている。
スマートフォンで時刻を確認した。午後十一時十五分。こんな時間に帰宅するのはもう慣れてしまった。
画面の隅に表示された未読メールの通知を見てイライラした。きっと明日の朝一番に処理しなければならない案件だろう、と。
差出人は上司だ。そこまでしなくてもいいとは思うくらいに、メールには俺の名前である、『有賀タカシ』という名前がしっかりと指名されている。
「有賀くん、明日までに資料修正しておいて。」
今日のプロジェクトミーティングで言われた言葉が頭をよぎった。また無理な要望を押し付けられた。客の言いなりになる上司に反論する気力もなく、結局俺が尻拭いすることになるのだろう。
小さな画面に映る自分の顔は疲労でくすんでいた。最近は自分の顔を見るのも嫌になっていた。目の下のクマ、やつれた頬、生気のない表情。二十代半ばとは思えない老けた顔つきが画面に映っている。
「このままじゃダメだ…転職しないと…」
何度目かの自己啓発の言葉。しかし毎日の疲労で行動に移せないまま、時間だけが過ぎていく。
コンビニの袋に入った弁当とペットボトルのお茶が、歩くたびに軽く揺れる。今日の夕食はこれだけだ。自炊する気力も時間もない。
自動販売機の前を通りがかる。一瞬立ち止まりかけたが、もう家が近いので通り過ぎた。
その時だった。
前方から何かが聞こえてきた。金属がこすれ合うような、不快な音。
最初は工事現場の音かと思った。しかし、この時間に工事をしているはずがない。それに、音は規則的ではなく、不規則に響いてくる。まるで何かが動いているかのように。
「誰かいるのか?」
声をかけたものの、返事はない。不安が胸に広がる。逃げ出したい衝動に駆られながらも、足は前へと進んでいた。
恐怖よりも好奇心が上回っていた。
暗闇の中、前方に何かの動きが見えた気がした。
街灯の薄明かりが届かない場所で、何かが蠢いている。
歩みを進めるうちに、その正体が徐々に明らかになってきた。
最初は巨大な犬かと思った。しかし近づくにつれて、それが全く別の何かであることがわかった。
大きさは大型の熊ほど。しかしその姿は、この世のものとは思えないほど異様だった。
透明で半透明のゲル状の身体。内部には血管のような赤い線が不規則に走り、内臓らしきものが浮遊している。まるで透明な袋に臓器を詰め込んだかのような、グロテスクな構造だった。
六本の細い触手のようなものがすべて地面について動いている。手や足に当たるものだろう。
六本脚の生き物――俺の知る限りそんなものは、この地球上で存在していない。
いや、それだけではない。
最も異様なのは、その身体から無数に突き出した金属片だった。錆びた鉄パイプの断片、曲がりくねった針金、釘や鋲といった雑多な金属が、まるでオブジェのように身体に埋め込まれている。
金属同士がぶつかり合う音。それがあの不気味な軋みの正体だった。
異形は俺の存在に気がついた。透明な身体の奥で、何かが蠢く。
恐怖が全身を駆け抜けた。足がすくんで動けない。逃げなければと頭では理解しているのに、身体が言うことを聞かない。
これは夢だ。そう思いたかった。しかし鼻を突く鉄錆の臭いと、粘液特有の生臭さが現実であることを教えてくれる。
異形がゆっくりと俺に向かって動き始めた。ゲル状の身体が波打ち、金属片が不協和音を奏でる。
俺の身体は恐怖から、コンビニの袋を落としてしまった。弁当とお茶のペットボトルが地面に転がった。
「何だ…何なんだ、これは…」
声が掠れていた。喉が乾いて、うまく言葉にならない。
異形は俺を観察するように、じっと見つめている。透明な身体の奥で、何かが脈打っている。
逃げようと身体を動かした瞬間、異形が信じられない速度で俺に向かって突進してきた。
間に合わない。
ぶつかる直前、俺は目を閉じた。
衝撃。
しかし予想していたような痛みではなく、冷たく湿った感触が全身を包み込んだ。
目を開けると、自分が透明なゲルの中に沈んでいることがわかった。異形の身体の内部に取り込まれている。
息ができない。しかし不思議と苦しくはなかった。代わりに、身体の感覚が徐々に失われていく。
指先から始まって、手首、肘へと麻痺が広がっていく。同時に、何か鋭いものが身体の内部を駆け抜けた。
痛み。それは針で刺されるような鋭い痛みではなく、身体の奥深くから湧き上がる、得体の知れない苦痛だった。
俺の身体が溶けている。そんな実感があった。
意識が薄れていく中で、最後に見たのは自分の手が透明になっていく光景だった。
そして、すべてが暗闇に包まれた。
◇
次に意識を取り戻した時、俺は全く違う場所にいた。
深い森。太い木々が空を覆い隠し、薄暗い緑色の光が差し込んでいる。
湿った土の匂い、葉擦れの音、遠くで鳴く鳥の声。間違いなく森の中だった。
「生きてる…のか?」
声を出して驚いた。自分の声のはずなのに、どこか違和感がある。音色が微妙に変わり、まるで水中で話しているような籠もった響きが混じっていた。
身体を起こそうとして、さらに大きな衝撃を受けた。
手が見えない。正確には、透明になっている。
慌てて全身を確認した俺は、戦慄した。
俺の身体は、あの異形と全く同じ姿になっていた。
透明で半透明のゲル状の身体。内部に浮遊する臓器のような構造。そして無数に突き出した錆びた金属片。俺は、あの怪物と同一の存在になっていた。
「嘘だろ…嘘だと言ってくれ…」
動揺しながらも、身体の感覚を確かめてみる。人間だった頃とは全く異なる感覚だった。
まず触覚が驚異的に変化していた。指先だけでなく、身体全体の表面で細かな刺激を感じ取れる。地面の小石の凹凸、空気の流れ、近くの植物から発せられる微細な振動まで、すべてが皮膚感覚として伝わってくる。
視覚も劇的に変わっていた。人間の時のように正面だけでなく、三百六十度の範囲をカバーしている。頭を動かすことなく、背後の木々や左右の茂み、さらには上方の枝葉まで同時に認識できた。焦点も自在に調整でき、遠くの鳥の羽根の一本一本から、足元の蟻の動きまで鮮明に捉えられる。
聴覚は驚くほど鋭敏になっていた。数百メートル先で枝が折れる音、地中を這う虫の足音、樹液が幹を流れる微かな音まで聞き分けられる。音の方向と距離も正確に把握でき、まるで頭の中に立体的な音響地図が描かれているようだった。
そして、嗅覚。これまで経験したことのない強烈な匂いの洪水が意識に流れ込んできた。
土の匂い、植物の匂い、そして…生き物の匂い。
森には多くの生命が存在していることが、匂いによってはっきりと感じ取れた。小鳥、リス、そしてより大きな動物たち。ただし、人間だった頃の鈍い嗅覚では体験したことのない濃密さで、それぞれの匂いを識別するのに混乱していた。
これが普通の森の匂いなのか、それとも俺の感覚が異常に発達したせいで強く感じるのか、判断がつかない。人間だった頃、こんなに深い森に入ったことはないし、比較する基準がない。
俺はどこにいるのだろうか。東京から離れた山奥の森だろうか。それとも全く別の場所に運ばれたのか。この身体の感覚では、正確な判断ができない。
しかし最も強烈だったのは、自分自身から発せられる匂いだった。
血と錆の混じった、金属特有の刺激臭。それに加えて、何とも形容しがたい有機的な臭い。まるで工場の廃液と生肉を混ぜ合わせたような、おぞましい悪臭が俺の身体から立ち上っている。
俺は怪物になってしまった。
現実を受け入れるのに時間がかかった。これは悪夢であってほしいと願ったが、五感すべてが現実であることを告げている。夢であれば、ここまで鮮明で一貫した感覚を体験するはずがない。
立ち上がってみる。思ったより簡単に動けた。ゲル状の身体は予想以上に機敏で、人間だった頃よりもスムーズに動作できる。
足…いや、触手のような六本の肢体が地面を掴み、安定した姿勢を保っている。一本一本を独立して制御でき、岩の上でも滑りやすい苔の上でも確実に歩行できる。バランス感覚も格段に向上し、急な斜面でも楽々と移動できそうだった。
動いてみると、金属片が軋む音が森に響く。錆びた鉄パイプの断片、曲がった針金、釘や鋲といった雑多な金属が身体に埋め込まれ、歩くたびに不協和音を奏でる。この音で、他の生き物たちが俺の存在に気づくだろう。
実際、森の小動物たちが俺から遠ざかっていくのがわかった。本能的に危険を察知しているのだ。鳥たちは慌ただしく羽ばたき、小さな哺乳類たちは茂みの奥へと姿を隠した。
俺は森の中を動き回り、自分の状況を把握しようとした。
歩きながら周囲を観察する。木漏れ日が地面に斑模様を作り、苔むした岩や倒木が点在している。シダ植物が群生し、つる性の植物が木々に絡みついている。一見すると普通の森のようだが、人間だった頃の記憶では詳細な比較ができない。
俺がいる場所がどこなのか、まったく見当がつかない。ただ一つ確実なのは、都市部から遠く離れた深い森だということだけだった。
空気が澄んでいて、車の排気ガスや工場の煙の匂いが一切しない。代わりに、土と草木の匂いが鼻腔を満たしていたからだ。
信じがたい現実だったが、受け入れるしかなかった。俺は死んだ。そして、どこかの森で異形の怪物として生まれ変わったのだろう。
森の奥へと向かいながら、俺は新しい身体の感覚に慣れようと努めた。この身体で、この場所で、俺はどう生きていけばいいのだろうか。
人間だった頃の記憶と感情は残っている。会社での日々、満員電車、深夜の残業、コンビニ弁当の味。すべてが鮮明に思い出せる。しかし身体は完全に異なる存在となった。
ふと、遠くから聞こえてくる鳴き声に注意を向けた。鳥の声のようだが、人間だった頃に聞いたことのない種類の鳴き方だった。ただし、俺の知識不足なのか、それとも本当に聞いたことのない鳥なのかは判断できない。
その時、強烈な匂いが俺の嗅覚を刺激した。
血の匂い。そして肉の匂い。
身体の奥から、原始的な欲求が湧き上がってきた。
飢餓感。それは人間だった頃には感じたことのない、圧倒的な渇望だった。胃袋ではなく、身体全体が栄養を求めて疼いている。この感覚は、とても理性では制御できない、本能に根ざした衝動だった。