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『たったひと言』とベリーパイ

 もう、何もかもあきらめようか。作家になる夢をあきらめて、あのひとのプロポーズを受け入れて、つつましく主婦として暮らしていこうか……。


 勤めている会社の近くの公園で、昼休みに手作りのサンドイッチを食べながら、マーガリートは考えていた。好物のピーナツバターサンドの味も、水筒に入れた熱いアールグレイの味も、今は何も分からない。


 あのひとのことは、好きだ。愛してもいると思う、たぶん。同じ大学の同じ科のひとつ先輩だった。付き合いだして大学を卒業し、今は同じ会社の別の課に勤めている、ハンサムなひと。


 優しいし、とてもモテるのにこの私だけ見ていてくれるし、子どもっ気の抜けないところも可愛いし……そう、私手作りのミックスベリーのパイのことを、あのひとはとてもめてくれる。


 初めてのデートでそれをデザートに持っていったら「こんな美味しいパイ、今までに食べたことないや!」って青い目をきらきら輝かして、少年みたいにかぶりついてくれたっけ。


 ……でも、あのひとのプロポーズを受けてしまえば、秘めていた夢はかなわなくなる。作家になるという夢が。あのひとは私の夢を知らない。打ち明けたなら、ダリルはきっと応援してくれるだろう。でもだめだ、私は自分で知っている。自分が不器用な人間だって。


 今だって昼は会社員、夜アパートの部屋に帰ってから執筆というサイクルでいっぱいいっぱいなのに、主婦という肩書きが加わったら、オーバーワークで壊れてしまう。ダリルのことは好きだから、三つの『仕事』でおかしくなった私のごたごたに巻き込んで困らせたくはない……。


 ――あきらめようか、すっぱりと。本好きな子どものころからひそかに胸に(いだ)いていた、『作家になる』という夢を……。


 そう考えながらぼんやりかじるサンドイッチは、やっぱり味が分からない。ピーナツのかけらの歯ごたえをひとごとみたいに感じていると、公園のかたすみの茂みから、ひとりの老婦人が小柄な姿をあらわした。


 老婦人は私の前まで歩いてきて、日だまりで丸くなる猫のような笑顔を見せた。何だろう。まったく知らないひとなのに、なんだか不思議とほっとする。


「……お話を書くでしょう、あなた」


 いきなり言葉をぶつけられ、心臓が破裂したかと思った。――何で? どうして分かるの、何も言っていないのに! 全然知らないひとなのに!!

 老婦人はそっと私の肩に手を置き、しみじみと、穏やかにこう告げた。


「――素晴らしい作家になるわよ、あなた」

 それだけだった。老婦人はまた日だまりの猫みたいな笑みを浮かべて、静かに歩いて茂みの中へと去っていった。気のせいなのか、そこから壊れた洗濯機みたいな音が、かすかに聞こえたような気がした。


 そして私の胸の奥底、見も知らぬ老婦人のひと言が、食いついて沁み込んで離れなかった。


 ――素晴らしい作家になるわよ、あなた。


* * *


 それからは、きっぱりと夢をあきらめた。『ダリルと結婚して、ささやかな幸福を築く』という夢のほうを。


 私はなけなしの貯金を当面のあてに、会社をやめた。そして猛然と書き始めた。一日に一本『超短編』を書き、一週間に一本は短編を一本書いて、それを一年間続けた。中でも出来が良いと思える話をひっさげて、手当たりしだいに大小の出版社に持ち込みした。


 はじめは迷惑顔で追い出されてばかりだった、半年目から「また何か書いて持っておいで」と言われるようになり、八か月目に一本の短編が小さな雑誌のすみっこに載った。


 それからはだんだん軌道に乗り、一年目の習慣をずっと持ち続け、馬鹿みたいに書き続けて、まがりなりにもこの国でいっぱしの作家になった。


 ……五十年が経ち、『マーガリート・エリオット』という著者名の本に、本のびっしり詰まった四方の本棚に囲まれて、私は深く息をついた。ダリルとは、とっくの昔に別れていた。そうしていまだにひとり身だった。私も、ダリルも。


 私はずっと、あの時から、あの老婦人に恋をしていた。あのかた。私の運命を決定づけてくれた、あの見も知らぬ老婦人に。


 いつか逢えるかもしれない、こうして作家を続けていれば、いつか私のサイン会に、あの老婦人が現れるかも。そうしてきっとこう言うんだ、あの日だまりの猫みたいな笑顔を見せて――「ね? 私の言った通りでしょう?」


 その夢を持ち続け、引きずり続けて、とうとうここまで来てしまった。もうどう転んでも、あのかたはお歳でこの世を去っているだろう……そんな歳まで長生きして、今、私はひとりで作家だ。ひとりきりで、自分の名を誇らしげに抱いた本たちに囲まれて。


 ……そうして、もう分かっている。五十年生きて、タイムマシンも発明された今になって、もう痛いほど分かっている。あの老婦人は、自分自身なんだって。心折れかけた過去の自分を励ましに、五十年先の未来からはるばる会いに、励ましに来てくれたんだって。


 だから今、私の目の前には、一人乗りの機械がある。私はそれに乗り込んで、過去の自分に会いに行く――。狭苦しいコックピットに乗り込んで、私は時間を設定し、スイッチを押して、目を閉じた。


* * *


 大昔に勤めていた会社の近くの公園で、マーガリートは……昔の私はサンドイッチを食べていた。ベンチにひとり、時おり思い出したように水筒の中の紅茶をすすって、ぼんやりと……何かを待っているような。見知らぬ誰かに、どこかから来た老婦人に、自分の迷いを断ち切ってもらいたいような。


 だから私は……動かなかった。彼女に近づいていかなかった。正しいのかは、分からない。でも考えて、マーガリート。これまでの五十年、あなたは本当に幸せだった? がむしゃらに生きて、おしゃれにもほとんど気を使わず、自分の作ったベリーパイの味さえ忘れて、後悔はなかった?


 この老いた体で、この前ばったりダリルに再会した時の胸の痛みを……今サンドイッチを食べている若いあなたは、五十年先に味わいたい?


 バッグから読み込んでよれよれになった文庫本を……『マーガリート・エリオット』って書かれた本を取り出して、しわだらけの顔でダリルが微笑んだ時の……彼がずっと独身だったって聞いた時の胸の痛みを、五十年先に味わいたい?


 答えはもう分かっていて、だから私は動かなかった。昔の私はぼんやりサンドを食べ終えて、ぼんやり紅茶を飲みだした。待っている。なにかを、誰かを待っている。


 とうとう私はたまりかね、彼女のほうに歩き出した。その瞬間、足がとまった。走ってきたのだ――ダリルが、息を切らして向こうから。栗色の髪を風になびかせ、青い瞳をきらめかせ、その瞳に昔の私をきらきら映して。


 ダリルはマーガリートの前に立ち、笑いながら何かしゃべって……昔の私は泣き出して、愛しいひとの広い肩にすがりつき、ダリルはとまどいながらも彼女の背へと手をまわし、何か言ってはなぐさめている。


 私はくるりときびすを返し、機械の待っている公園のかたすみに向かって歩き出す。――何もせず、何も言わず、自分の未来へ戻るために。




 戻ったら、本棚はあとかたもなく変わっていた。知っている作家の名前、知っている本のタイトル、昔から大好きだった単行本や文庫本……『マーガリート・エリオット』の名はどこにもない。一冊も。


 今まで書き溜めて世に出してきた本は残らず、存在しなくなったのだ。五十年前のあの日から、未来は変わって、今五十年後の私は作家ではない、何者でもない。


 視界がじわじわぼやけてくる、枯れたほおを涙が伝う。軽くノックの音がして、「いるかい?」と誰かが部屋に入ってきた。


 ――ダリルだ。このあいだ再会した時と同じ、ロマンスグレイの髪に変わらず美しい青い瞳。彼は驚いた顔をして、老いた私の小さな肩へ手を触れる。


「……どうしたんだい、可愛い奥さん……どこか調子が悪いのかな?」


 ああ、私は作家の未来をあきらめて、このひとと一緒になったんだ。あの後ダリルと結婚して、今……いま……。

 続く言葉があんまりにも彼らしくて、私は泣きながら笑ってしまった。


「……どうだい? なんだか分からないけど、気分直しに昨日きみが焼いてくれたベリーパイでも食べようか……なんたってきみのパイは、世界一美味しいんだからねえ!」


 冷えた後あたたかくなった心の中に、ベリーのパイの味がする。いつかのピーナツバターのサンドイッチと紅茶より、ずっと甘くて、ずっと愛しく感じられた。


(完)

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