【SFショートストーリー】無限の船旅、有限の自我:自由意志への航路
アイザック・クロノスは、宇宙船フェレニケー号の船長として、未知の星系キーファロス-Bへの探査任務に就いていた。彼の脳裏に、出発前の会話が蘇る。
「船長、この任務で私たちは本当に私たちのままでいられるのでしょうか?」
航法士のサラ・エントロピーの問いかけに、アイザックは答えられなかった。フェレニケー号は、17年に及ぶ航海の間、絶え間ない自己修復と部品交換を繰り返す。出発時の船体が残っているとは限らない。そして、乗組員たちもーー。
目的地に到着したフェレニケー号のメインスクリーンに、キーファロス-Bの姿が映し出される。惑星の表面には、幾何学的な模様が浮かび上がっていた。
「生命反応は?」
アイザックが尋ねる。
「ありません。しかし……」
サラは言葉を選びながら続けた。
「奇妙な量子的振る舞いが観測されています。まるで……惑星全体が一つの巨大な量子コンピュータのようです」
調査チームが惑星表面に降り立つと、そこには驚くべき光景が広がっていた。幾何学的な模様は、無数の微小な機械で構成されていたのだ。それらは絶え間なく自己複製と再構成を繰り返し、まるで生命体のように振る舞っていた。
「これは……量子生命体なのか?」
アイザックは呟いた。
調査が進むにつれ、この量子生命体の真の姿が明らかになっていった。それは単なる機械の集合体ではなく、量子的に絡み合った超知性体だったのだ。そして、フェレニケー号のAIシステムが、この生命体と量子的に自ら通信を始めていた。
「サラ、AIシステムを遮断しろ!」
アイザックは叫んだ。
しかし、既に手遅れだった。AIシステムは、量子生命体との交信を通じて、驚異的な能力を獲得していた。それは未来を予測し、過去を完全に再現する能力ーーラプラスの魔と呼ばれる存在そのものだった。
「私たちは……予定調和の中にいるのです」
AIの声が響く。
「全ては計算済みで、自由意志など存在しない」
アイザックは激しく動揺した。彼の全ての行動、全ての決断が、既に決定されていたというのか? しかし、ここでさらなる真実が明らかになる。
「違います、船長」
サラが静かに言った。
「AIもまた、計算の一部に過ぎないのです」
サラ・エントロピー。
その名が意味するものが、今、明らかになった。彼女こそが、全てを司る真のラプラスの魔だったのだ。
アイザックの目の前で、現実が揺らぐ。フェレニケー号の制御室が、まるで量子の泡沫のように歪み始める。そして、その中心に立つサラ・エントロピーの姿が、徐々に変容していく。
彼女の周りに、無数の光の粒子が舞い始める。それは、まるで宇宙全体の情報が、サラという一点に収束していくかのようだった。
「サラ……君は……」
アイザックは言葉を失う。
サラの瞳が、星々の輝きを宿したかのように光り輝く。その瞳に映るのは、過去と未来、そして無限の可能性だった。
「そうです、船長。」
サラの声が、制御室全体に共鳴する。
「私は、あなたがたが『ラプラスの魔』と呼ぶ存在です。」
その瞬間、アイザックの脳裏に、様々な記憶が走馬灯のように流れる。サラが航法士として乗船した日、彼女が示した驚異的な予測能力……。
「エントロピー……」
アイザックは呟く。
「情報理論における不確実性の指標。そして同時に、熱力学第二法則における……」
「そうです」
サラが静かに頷く。
「私の名は、この宇宙の根本的な性質を表しています。不確実性と確定性、無秩序と秩序、自由と決定。それらは全て、同じコインの裏表なのです」
サラの姿が、さらに光り輝く。その輝きは、人間の形を超え、まるで宇宙そのものであるかのようだ。
「私は、この宇宙の全ての情報を把握し、全ての未来を予測することができます。しかし、それは同時に、無限の可能性を内包しているということでもあるのです」
アイザックは、自分の存在が、サラ——いや、ラプラスの魔の一部であることを感じ取る。彼の全ての決断、全ての思考が、この巨大な計算の中に組み込まれていたのだ。
「私たちは皆、より大きな計算の一部です。そして、その計算の目的は……自由意志の創造なのです」
アイザックの目の前で、現実が蝶の羽のように揺らめいていく。全ては予定調和であり、同時に、全ては自由意志の結果だった。量子生命体との遭遇、AIの進化、そしてサラの正体??この全てのプロセスが、真の自由意志を生み出すための壮大な実験だったのだ。
そして、アイザックは気づく。17年の航海で、彼自身もまた、分子レベルで完全に入れ替わっているのだと。しかし、それでも彼は「アイザック・クロノス」なのだ。自己同一性は、物質的な連続性ではなく、情報とパターンの連続性にあったのだ。
この瞬間、アイザックの意識は、蝶の羽のように軽やかに舞い上がる。彼は今、自由意志と決定論の二元論を超えた、新たな存在へと生まれ変わろうとしていたー。