下宿の裏庭
下宿している宿の、小さな中庭で、リナはひとりの大男と向かい合っていた。
その大男、ウォルは、見上げるような背丈に、広い肩幅、そして美しく盛り上がった筋肉をもっている。唇は引き締まり、濃い眉の下で、その眼光はいつも鋭い。
「これが、最後だ」
リナは頷き、剣を構える。
「お願いします!」
ウォルが、大剣ほどもある巨大なニンジンを振りかぶった。
ビュオッッ!!!
剣が閃き、ニンジンが宙でバラバラになる。
リナは剣を鞘に収めて、ぱっと顔を上げた。
「野菜の切り込み、完了です!」
「助かった」
ウォルに頭を下げられて、リナは慌てて顔の前で両手を振った。
「いえいえっ!わたしも、いい鍛錬になりましたから!」
そう言って、えへへっと笑って見せる。
ウォルは頷き、地面に散らばったニンジンを袋に集めはじめた。リナも手伝って、遠くにとんだニンジンをウォルの持つ袋に投げ入れる。
意味が分からないほど大きいが、味もそれなりに良いという、この巨大野菜は近年、魔法技術を使った品種改良によって新たに生み出された。
ニンジンだけでなく、キャベツにジャガイモ、トマトなどなど。この街でも、いろいろな巨大野菜を見かける。
「休憩だ」
ニンジンが地面から無くなったのを見て、ウォルが言った。腰掛石に載せていた水筒をリナに投げてよこす。
「ありがとうございますっ」
受け取って、リナはその水を一口、飲んだ。
「ぷはぁっ」
冷たい水が、一本の筋になって身体の中を通っていく。
見上げると、青い空がどこまでも続いていた。わたのような曇がのんびりと流れて、太陽がちょうど真上から照りつけている。
日差しの強さに、ほんのわずか、夏の気配を感じた。
ここは、オーグウェル連合王国のなかでも屈指の大きさを誇る城塞都市、ノーズクライフ。広い丘をぐるりと、堀や城壁でかこんだ中に、たくさんの建物がひしめき合っている。
その中腹にあるこの宿、ヤドリギの中庭はいつでも風が吹きあがってきて、涼むのにはちょうどいい。
「あーっ、気持ちいいっ!」
リナは中庭のふちに立って両手を広げ、全身で風を受けた。
その場所からは、下半分の街並みと、外の森までが広く見渡せた。
城壁の正門から丘の頂上まで、らせん状につづく大通りを、今日もたくさんの人が行きかっている。石畳の上には露店が立ち並び、客寄せの声がリナの耳にも聞こえていた。
宿の表の道を子どもたちが歓声をあげて走ってき、リナはつられて微笑んだ。
「今日もにぎやかですね!本当、わたしが育った田舎とは大違いです」
ウォルは無言で頷く。
「これだけ大きい街だと、日雇いの仕事を探すのにもほとんど苦労しなくていいので助かるんですよね」
リナは笑いかけたが、ウォルは頷かなかった。無表情のまま、短く言う。
「護衛屋は」
「……」
リナが笑顔のまま固まった。その顔がみるみるうちに涙目になって、ウォルはちょっと慌てた。
「だって……依頼が来ないんですもんっ」
そう言っている声がもう、震えている。
「これだけ大きい街だから、すぐに依頼が来ると思ったのに、来ないんですもん。全然、来ないんですもん」
そう言うと、ふらふらっと巨大ジャガイモに突っ伏した。
「わたし、ずーっと、ずうっと、待ってるのにぃぃ!!」
ジャガイモに、ぐりぐりと高速でおでこを押しつける。おでこに土がついた。
ちょっと、どころではなく、かなり変わったいきさつがあったものの、無事に仕事の仲間が見つかり、リナが個人経営傭兵事務所「護衛屋」を開業してからもうすぐひと月が経とうとしている。
ウォルが手ぬぐいを差し出しながら言った。
「他の仕事も、ある」
「それはっ……そうなんですけど」
おでこを拭きながら口ごもる。
「他のお仕事だって、とっても大事なことだっていうのは、分かってるんですよ?でも……」
拗ねたように唇を尖らせて言った。
「わたしは、いのちを守るお仕事がしたいんです」
その声は、自分で思っていたよりもずっと小さかった。
顔を上げると、街ゆく人々や、青い空をゆうゆうと飛ぶ鳥たち、鮮やかな緑の森が、全部いっぺんに目に映る。
リナには、そのすべてが眩しく、きらきらと輝いて見えていた。
―――いのちの病に侵されし者、汝の生くべき姿に還れ
かつて幾度となく使った言葉は、心に思い浮かべるだけでも自然と口が動く。
「再生」
しかし身体の中の熱は、まったく動かなかった。あるはずの感覚がないというのは、物や立場を失うこととはまた違った寂しさがある。
唇を引き結ぶリナの横顔を、ウォルが黙って見ていた。
リナは大きく息を吸い込むと、パン!両手で頬を叩いた。
「うん!くよくよ悩んでたって仕方ないっ」
リナはにっこり笑顔をつくって、ウォルを見上げる。
「さあ、ウォルさん!他には何をお手伝いしましょうか!」
「続きは、ウォル、あなたが一人でやってちょうだい?」
別の声が聞こえて振り向くと、宿の裏口にひとりの女性が立っていた。
「リンダさん!」
若くして、この小さな宿とその一階の酒場、両方をひとりで切り盛りしているしっかり者の女主人だ。リナにとっては、普段から何かと気にかけてくれる優しい大家さんでもある。下がった目尻と泣きぼくろにたまらなく色気があると、客の間で評判らしい。
「お疲れ様、リナちゃん。手伝ってもらっちゃってごめんなさいね。助かったわぁ」
「いえ、このぐらいお安い御用です!リンダさんとウォルさんには、いつもお世話になってますから!」
「ふふ、どうもありがとう」
リンダは笑って、なにやら楽しそうにリナを見つめている。
「……あの、なにか?」
「あのねえ、とってもいいお知らせがあるの。ちょっと、耳、貸してごらんなさい」
いたずらっぽい笑みを浮かべて、リンダが手招きする。
「ええ……?」
リンダは傍に来たリナの耳をそっと指で撫で、そこに口元を寄せた。
い・ら・い・に・ん。
「んなっ」
勢いよく振り向いた拍子に、高く結んだ金髪がリンダの顔を直撃しそうになった。リンダはそれを手の甲でさっと防ぐ。
「いいい依頼人!それって、もしかして、護衛屋の依頼人ですか!?」
「そうよぉ」
「来てるんですか?いま?」
「ええ、たった今。ノイマン様っていうご婦人よ」
ぱあっと花が咲くような笑みを浮かべ、リナは目を輝かせた。
「やったぁ……!!」
その表情があまりにも期待通りで、リンダは思わず吹き出した。笑いを含んだ声で言う。
「お客様には酒場でお食事していただいているから。その服、着替えてらっしゃい」
「はいっ!」
「ちゃんと汗を拭いて、支度してくるのよ。あなたのお昼ごはんも後で準備させるわね」
「ありがとうございます!」
「それから、彼」
「へっ?」
リンダは宿の二階、角の部屋を指さした。こんな時間なのに、窓にはぴったりとカーテンが閉められている。リンダは苦笑しながら言った。
「たぶん、まだ寝てると思うわ。起こしてくるでしょう?」
「……もちろんですっ」
リナは大きく頷いた。