【ローランド・シュナイザー①(Mr.Roland Schneizer)】
テルアビブにあるイスラエル国立オペラ劇場に比べると、1/10と言っても言い過ぎではないほど小さな劇場。
しかしオーケストラは本物だった。
交響組曲「シェエラザード」の第1楽章は「海とシンドバッドの船」
その冒頭に演奏されるのは、凶悪な暴君「シャリアール王の主題」
トロンボーンとチューバの2つの管楽器を中心に、重々しく恐ろしい雰囲気を劇場内に轟かせるところからコンサートは始まった。
これは、毎夜若い娘を寝所に呼び、一夜を過ごしては殺害し続けるシャリアール王の恐ろしさを表している。
その直ぐ次にはハープとヴァイオリンのソロによる美しい演奏「シェエラザードの主題」が始まる。
この美しい調こそ、「千夜一夜物語」の主人公シェーラザード。
これからシェーラザードによる様々なお話が音楽として奏でられ、シャリアール王と共に私たちもシェーラザードの話しに心をときめかす。
フーン、フーン、フーン……。
コンサートが始まって未だ第2楽章の「カランダール王子の物語」が始まったばかりなのに、隣から寝息を立てる音。
確かに、この第2楽章の始まりのヴァイオリンのソロからファゴット→オーボエのソロへと物悲しく静かな調で始まるので心が落ち着くのは当たり前だから、その延長線上にある眠りに着いてしまうのも無理は無いのかも知れない。
特に日中40度近く上がる気温の中で、死と隣り合わせの緊張を強いられる兵士なら尚更なのかも知れない。
けれども周りの迷惑になるから、イビキだけは掻かないで頂戴ね。
コンサートはリムスキー=コルサコフの交響組曲「シェヘラザード」の中でも傑作と言われる1964年9月に録音された、レオポルド・ストコフスキーとロンドン・シンフォニー・オーケストラによるものを再現しており聴きごたえは十分。
全ての演奏が終わった時には、この小さな劇場に大きなスタンディングオベーションが起きたとき、私は慌てて眠っているローランド中尉に目を向けた。
私が慌てた理由は、ローランド中尉が私を誘った理由。
心配していた通り、シェーラザードの心地好い調べに疲れた身心を委ねていた彼が急に沸き起こった大きな拍手の音に、悪夢を背負い目覚める。
慌てて頭を抱える様に自分の耳を両手で覆ったローランド中尉が、椅子の上で蹲る。
今、彼の脳は、この拍手の音を戦場の音と誤認識してしまっているのだ。
「大丈夫よ、ローランド。ここはコンサートホールで隣には私が付いているわ!」
中尉の広い背中が震えていて、私はその背中に覆いかぶさるようにして耳打ちする。
「サラ、大丈夫か!?お、俺は今、グリムリーパーに、グリムリーパーに――」
「大丈夫!グリムリーパーは私が神の矢で始末したから、もう心配は要らないのよ」
自らの耳を抑える中尉の震える手を優しく包むように剥がし、後ろから撫でながら中尉の心を落ち着かせるようにユックリと甘く囁く。
それは私がまだ小さかった頃、怖い夢を見て夜中に泣いていた時にママがそうしてくれたように……。
直ぐに落ち着きを取り戻したローランド中尉は、意外にケロッとしていてそのあとに行ったレストランでも陽気に、まるで何もなかったようにモリモリと食事を食べていつも以上に面白い話をして私を笑わせてくれた。
食事が終わり車に戻ると、夜遅くまで突き合わせたと謝るローランド中尉は、そのままお互いの宿舎のあるラマーディーへ戻ろうとした。
「いいの?」
「なにが?」
「不安で胸が押しつぶされそうなんじゃないの?だから私を誘ったんでしょう?」
「まさか、俺はそんなに弱くはない」
「なら、いいけれど。私はマダ物足りないな」
「物足りないって?」
「若い男女がコンサートに行って、レストランに入って食事をしただけで帰る。それって私を馬鹿にしていない?」
「そ、それは……?」
「やーね、そこまでは言わないけれど、お酒くらい飲みに行こうよ」
イラクはイスラム教の国で、アルコール入り飲料はハラールによって禁止されている。
ハラールによって許されているのは、極少量の酔わないアルコール飲料だけ。
(※ハラール=国が許可を与えたイスラム教に抵触しないもの)
だけど外国人が多く泊まるホテルのバーなどでは、アルコール40%のウィスキーなども飲む事が出来るので私はローランド中尉を誘ってホテルのバーに入った。
私が注文したのはブラッディ・メアリー。
前々から自分の名前の付いたカクテルと言う事で興味はあったし、このブラッディ・メアリーのカクテル言葉は『私の心は燃えている/断固として勝つ』だから縁起も良い。
もちろん5歳から先、この年齢になるまで1回もお酒を飲んだことはないけれど、大人が普通に飲むのだから私に飲めないはずはないし、ローランド中尉は私が既に会社勤めをしていて主任研究員の肩書を持っていることを知っているので私の本当の年齢が16歳であることなど知る由もない。
ローランド中尉はウィスキーを注文して、お互いに乾杯をした。
初めて飲むお酒は、スッキリとしたトマトジュースの味。
なんてことはない。
ブラッディ・メアリーを飲み干した私は、次に生クリームとカカオの入ったアレキサンダーを頼んだ。
アレキサンダーのカクテル言葉は『完全無欠』! まさに私に相応しいお酒。
「大丈夫?」
ローランド中尉に聞かれて、大丈夫だと答える。
お酒と言っても、まるでジュース。
大人の飲み物だって言っていたけれども、意外に大したことないじゃない。




