【妹について(About my sister)】
イラクの教育制度で義務化されているのは小学校の6年間だけ。
義務教育期間中は、留年は殆どない。
出席日数が少なくても、習得すべき学業を習得できていなくても次の学年に進級し、卒業してしまう。
つまり義務教育とは学校側の都合による“義務”なのだ。
そのことを知ってから、あまり学校に行かなくなった。
もっと早く知っていれば虐めもスルー出来たわけだから、私を殴ったあの先生も死ぬこともなく、虐めのリーダーだったあの子の転校も無かったのだ。
もともと既に知っている幼稚な学習内容と、子供たちの“けたたましい”騒音にウンザリしていた私は、学校の代わりに図書館に通うようになった。
図書館には色々な本があり、好きな書物をいつでも読むことが出来る。
文学作品からビジネス書籍、百科事典。
先ず習得すべき書物は百科事典だと決めていた。
それは両親が居なくなったから。
子供の私が経験できる世界は、あまりにも小さ過ぎる。
小さ過ぎるからこそ、あのような事件に繋がった。
だから私はもっと世界を知る必要がある。
百科事典は違う国のものを2つ読んだ。
最初に読んだのはイギリスの出版社が発行したもので、もうひとつはイラクの出版社が発行したもの。
これはアラビア語の勉強も兼ねて、片手に辞書を持って分からない単語を調べながら読んだが、先に英語で書かれた物を読んでいるので意外に内容は分り易かった。
本を読むばかりが勉強ではないことは分かっていた。
学校に体育の授業があるように、たまには図書館を出て街を歩いた。
只の散歩ではない。
行方不明となっている妹、ナトーを探すため。
まだ幼児だから、お留守番は出来ない。
と、なると母親の買い物に付いて外に出される機会は多くなるはず。
ナトーが、普通の赤ん坊なら探そうとは思わなかっただろう。
だって、そりゃあ私に似て可愛いのは確かだろうけれど、赤ん坊と言うものは殆ど可愛いに決まっているのだもの。
でもナトーなら直ぐに分かる。
何故なら彼女はオッドアイと言う特徴的な目の色を持っている。
オッドアイの生まれる確率は白人が最も高いが、それでも全体の0.6%に過ぎない。
しかもここは中東だからハッキリと分かる白人は少なく、地元の人が拾ったとしたら、ホテルのあった空港の傍の住民に違いない。
幸い私の住むバヤア地区から事件のあったホテルまでは直線で5kmほどだから、小学生の私でも行けない距離でもない。
私は妹のナトーは生きていると思う。
根拠は死体が見つかっていない事。
ママの死体が見つかっているのなら、必ずその傍に居るはず。
それが見つかっていないと言う事は、誰かが持ち去ったと言う事。
死体を持ち去る人は居ないだろうから、妹は生きていると言う事になる。
妹を探しているのは、ナトーが好きでたまらない訳ではなく、むしろその逆。
私は行方不明になっている妹のナトーを怨んでいた。
あの子が生まれてから、私にはロクなことがない。
それまでパパとママの寵愛を一身に受けていたと言うのに、妹が生まれてからは四六時中受けていた100%の愛情がほころび始めた。
私は子供心に必死になって、元の愛情を取り戻そうとして勉強も妹の世話も一所懸命にした。
遊園地に行きメリーゴーランドに乗った時にママは妹のナトーを抱いてカボチャの馬車に乗り、私はまるで従者の様にその前にあった白い馬に乗せられ、私はこのまま妹がカボチャの馬車に魔法をかけてママを連れて空に飛び立ってしまうのではないかと心配で何度も後ろを振り返っていた。
妹のために新しいスプーンを買ったあとに、私のスプーンが選ばれたときはショックを受けた。
今までなら、何か新しい物を買うときには、まず私からだったのに。
妹が生まれてから何かが変わった。
別段“ぞんざい”な扱いを受けている訳でもなく、パパもママも今までと何ら変わりない愛情を注いでくれているのは充分に分かっていた。
けれども妹は何も話す事が出来ないくせに、泣いたり笑ったりするだけで、パパやママの視線や笑顔を私から奪った。
そう。
妹がパパとママを奪った。
今回の事件も、きっと妹のせい。
不条理なのは自分でも分かっていたが、いつしか吐き出せない怒りを全て妹のせいにして怨むことでストレスを発散させるようになっていた。
それでも妹を探すのは、ママの言葉。
「ねえサラ。もしも、もしもパパとママが突然居なくなり、姉妹が離れ離れになるようなことが起きたときは、サラ、アナタがナトーを探してあげて。ナトーはまだ赤ちゃんだから、アナタを探すことは無理でしょうし、アナタの存在さえも知らない事でしょう。だからお願い」
「いいよ。ナトーが迷子になったら、私が責任を持って探し出してみせるわ。でも、どうしてそんな事を言うの?パパとママは居なくなることは無いでしょう?」
「もちろんパパもママもずっとアナタたちの傍に居るけれど、街のあちこちで小さな戦争が起きているから、怖いの」
「ママは相変わらず臆病だな、いま暴れているイラク人ゲリラなんて戦車や飛行機を持っているアメリカ軍に掛かれば直ぐに居なくなるに決まっているのに」
「私も、そう思うわ。でも人の恨みは底知れないパワーを生み出す物よ。だから侮っては駄目。そして信じるの」
「信じるって、何を?」
「家族が生きていると言う事を」
「家族が生きていると言う事?」
「そうよ。ナトーはまだ話もできないけれど、きっとアナタと心は通じるはずよ」
「もし20年後に再会したとしても?」
「必ず分かり合えるわ」
「うそ」
「嘘ではないわ、だって、それが血の繋がった家族なのですもの。だからナトちゃんのこと、頼んだわよ」
「うん」
これは、事件のあった前の晩にママから言われた事。
ひょっとしたら、ママはこうなる事を知っていたのかも知れない。