王家の醜聞2
さて、王太子妃の美貌が紛い物であった話は瞬く間に王国中に知れ渡った。噂は嘗ての婚約破棄騒動も相まって更なる醜聞となったのである。噂は王国だけでなく諸外国にも広まったのだから当然である。
王族を騙した罪として、王太子妃は斬首され、実家の男爵家はお取り潰し、一族もまた罪人として処刑されるに至った。
これで騒動が終わり、新たに王太子妃を迎えればよいと王太子及び王家は考えていたようだが、そうはならなかった。
どれほど打診しても貴族も他国の王族も王太子に娘を嫁がすことは無かった。
それも致し方ない事であった。
幼い頃からの婚約者に冤罪を被せてまで下位貴族の令嬢を選んだ王太子。
その選んだ令嬢の美しさが作られたものであると知ったら本人共々一族を血祭りにあげた冷血漢である。
そんな国の王家に娘を嫁がせたい親はいない。
いわれのない罪を着せられて破滅させられる可能性が高い男の元に嫁ぎたい姫君もまたいなかった。
王太子は即位後も王妃を娶ることが出来ず、歴代で唯一妃がいない国王であった。そのため、国王の子供は処刑された王太子妃が産んだ王子のみ。正式な結婚であったため、たとえ妃が罪人として処刑されても王子は嫡出のままであった。
生まれたばかりの王子は罰されなかった。と言うよりも出来なかった。民衆は王子に同情的であったし、諸外国も視野の狭い独裁的な王家に嫌悪を見せたためである。
王妃もいない、側妃もいない国王は仕方なくたった一人の王子に跡を譲る事となった。
処刑された王太子妃を母に持つ国王は、その出生故に王家で孤立し、父である国王から疎まれていたが、それに押しつぶされる事なく己を磨き上げた。
この曰く付きの国王は、政治手腕に長け、善政を敷いた良き王であった。晩婚にはなるが小国から王妃を娶り、子供にも恵まれた。
問題がなくなったかに見えた王家であるが、新たな問題が起こった。
醜くも名君であった王の子供達。
彼らは皆、父親に似通ってしまったのだ。
王家の人間はそれ以降、良くて平均並みの顔立ちの子供しか生まれなくなってしまった。
そのせいか国民に人気がなく、酷い時は名前さえ忘れられている場合もあった。
国民だけではない。
王家と婚姻を望む国内の貴族も減ったのだ。
野心家な者か、頭に花でも咲いている者を除いて、王家との縁組は鬼門であった。
現王妃も遠方の国から嫁いできている。
王家としては、次代は国内の貴族から王妃を出したいと望んでいるのだ。
それは、国の統率と結束を図ると共に、貴族と国民の王家離れを何としても食い止めたい一心でもあった。