火の壁
かくしてジラウ軍4万は撤退を始めた。いや、撤退と言えるほど軍勢らしい行動ではなかった。連邦軍は壊乱が水面を伝わる波のように広まり自壊した。兵も将も死ぬことを恐れ武器を捨て、軍旗を捨て、鎧を捨て一歩でも早くジラウの地を踏むため懸命に逃走した。しかしもはや戦うことを放棄した軍人だった者たちの集団がハーバル率いる戦意ある軍団に丁寧に潰されていった。追撃となるとただでさえ剽悍なハーバル兵はより強く凶暴になった。武器を捨て命乞いをするジラウ兵を縛り首を刎ねたり、生き埋めに処したりした。グレゴリーに付いたが真っ先に逃げだした副将たちも次々と討死していった。中には武器を捨てず勇敢に立ち向かうジラウ兵もいたがもはやこうなっては多勢に無勢であり形勢逆転した現在ではいてもいなくてもなにも変わらないほどの存在で、囲まれあらゆる方向から槍が突きだされ、あっさり殺されてしまった。
敗軍の兵ほど惨めなものはない。グレゴリーは軍を統率することを諦め、馬を走らせ逃げることだけを考えた。ジラウ兵たちはグレゴリーを頼りとはしなかったが逃げ落ちてからは自らを率い帰る者を求めグレゴリーに付き従っていった。戦闘時には自身の命令を無視した癖に、逃げ帰るときだけ慕ってくるとは何事かと兵に罵声を飛ばしたいグレゴリーであったがもはやそんな気力さえ残っていなかった。
ハーバルは追撃を続けている。彼の大きな身体は大きな軍馬に跨り、敗軍兵の集団に突撃していく。振り返りハーバルの姿をその目に捉えたジラウ兵は化け物に追い立てられる気持ちになったであろう。兎を狩りにいく獅子のようなハーバルは次々とジラウ兵を殺していった。彼1人だけでも既に100人近く殺している。そんな将軍ハーバルの姿を見てハーバル軍の兵たちは狂ったように喜び、ますます好戦的になり喜々としてジラウ兵を狩っていった。
グレゴリーは既に背後にハーバルの軍勢が迫っていることを察知していた。しかし彼もかなり馬を走らせまだ距離には余裕があり、このまま事態が急変しなければジラウへ逃げ帰ることは十分可能であった。逃げ帰ったらどのような言い訳を議長にするかだけを考えていたが、得意の演技と媚で切り抜ける自信が彼にはあった。あったのだがその必要はなくなった。彼の眼は前方に巨大な、しかも広範囲の煙を見た。
ドラキア王国の国境沿いはマーシュという土地で森林地帯が広がっていると述べた。これが侵攻軍の行軍を遅らせる天然の城壁のようなものであったと触れた。グレゴリーの率いるジラウ軍4万はこの鬱蒼とした森林地帯を踏破してきたのだが逃げ帰る途中の現在では行きで見た緑がこの森林地帯にはなかった。この森林地帯が映し出す色は赤であった。ハーバルは2万の軍団を4つにわけたが彼は5千の騎馬部隊をグレゴリーに見つからぬよう迂回させ高速移動をもって森林地帯に向かわせ火を放たせた。更にこの日は天候が悪く嵐の予感を感じさせたが、吹き始めた風がこの森林への放火を助けた。火は短時間に広範囲に広がり広大な森林地帯を包み込んだ。
巨大な火の壁がグレゴリーの行く手を阻んだ。彼が採ることのできる選択肢はなかった。もはや背後にはハーバルが迫っていたし、迂回しようにも長々と続く森林地帯であった。死の時が迫っていた。また彼のほかに逃げてきたジラウ兵たちもこの火の壁を見て呆然とするばかりで打つ手がなかった。
逃げてきたはいいが火の壁の前に立ち止まるほかなかったジラウ兵の数は5千もいなかった。3万5千の兵はハーバルに叱咤され、鼓舞されたハーバル兵が狂ったように暴れまわり殺されてしまった。また5千の兵もいずれ皆そうなるという予想をしていた。すると5千の敗残兵の1人が進み出てグレゴリーを殺すべきだと言った。グレゴリーの無能さがこの事態を引き起こし仲間が死んでいき悲惨さを加速させた、将が無能だから俺たちは故郷に帰れない南下せず惨めにここで死ぬ羽目になった、といった言葉が兵士に口から洩れた。他の兵も釣られてグレゴリーを責めた。罵倒は波紋のように広がった。5千近くの人間に否定される気分はどのようなものだろうか。追い詰められた上、このような目にあったグレゴリーは気力を失いつつあった。
やがて最初に叫んだ兵がグレゴリーをここで捕縛しハーバルに引き渡すことで生き残ったジラウ兵の命を助けてもらうことを思いつき皆に同意を求めた。するとグレゴリーただ1人を除いて誰しもがその素晴らしい考えに賛同し喜んだ。グレゴリーは縄で縛られハーバルに引き渡された。
捕縛されたグレゴリーはハーバルの前に連れてこられた。両者とも初対面であった。グレゴリーはハーバルの見た目から溢れ出る勇猛さに怯えた。そしてハーバルに助命を頼んだがハーバルはこれを無視し、いくつかグレゴリーに質問したのち、自らの手でグレゴリーを斬った。グレゴリーの死を宣言し、ハーバル軍団の兵は歓喜した。そのあとハーバルはグレゴリーを差し出したジラウ軍敗残兵の処刑を配下に命じた。
まさかグレゴリーを差し出した自分たちが処刑されるとは思わなかったのかジラウ兵たちは抵抗を試みたが彼らは逃げるとき武器も鎧を捨てているため、その抵抗も細やかなものであった。かくしてジラウ軍4万は司令官である将軍グレゴリーと彼の副将から末端の兵士までがジラウに帰ることなくドラキアの地にて惨めな最期を向かえた。




