第81話「蒼穹の夜明け」
暗闇に包まれた王宮の片隅で硬質な響きが奏でられていた。
緊迫した空気の中、闇夜を切り裂くのは竜牙と漆黒の大鎌。銀色の弧を描き、シオンが繰り出した斬撃がフランへ迫る。
まさに命を狩り取るであろう刃の殺傷範囲にフランは飛び込んだ。
斬撃に対し逆手に握った竜牙を走らせる。幅広い大鎌の刀身を双剣の背で受け流すと同時に、対となる白刃がシオンの首元へ正確に狙いを定めた。
渾身の一閃。しかしフランの手に返ってくる感触は肉を切り裂くものではなく、微動だにしない強大な圧力。
斬撃のタイミングに合わせてシオンの左手が白刃を掴んでいた。「精霊の竜牙」の双剣の一つである「炎牙」により手は焼け、肉の焦げる臭いと共にシオンの左手からは煙が上がっている。
だがそれを意に介することなく、死神はさも愉快そうに口角を上げた。
「これが残虐の女王の剣か。なるほど。面白い。対となる双剣で斬撃を抑え込むと同時に攻めへ転じる。人の身でここまで練り上げるとは大した女だな」
「……てめぇ。なんでその名を知ってんだよ!?」
「古い付き合いなんだ。ちょうどいい。あの女とは一度、斬り合ってみたかった。もう死んだだろうがお前にその代わりを務めてもらおうか」
突如、フランの表情に苦悶の色が浮かぶ。
徐々に炎の竜牙を握る腕が押し曲げられていく。ミシミシと右腕の骨が悲鳴をあげた。
エスペランス黒色騎士団に伝わる「全能力強化」の魔法付与が施された戦闘服をもってしても、それを軽々と上回る膂力でフランの腕が逆向きに捻じ曲がっていく。
フランは駆け抜ける激痛に耐え、咄嗟に頭部でシオンの顔面を頭突き。衝撃により一瞬、シオンの力が抜けたその時、即座に後方へ飛ぶ。
刹那。フランの体があった場所を漆黒の斬撃が駆け抜けていった。そのあらゆる物を切り裂く剣閃と凄まじい風圧に、フランは戦慄が走ったのか顔を強張らせ息を呑んだ。
だが彼女は引かない。何故ならフランにはここでやらなければならないことがある。
生き残るために。未来を掴むために。
恐怖を呑み込み、フランの体が前に出る。
「さて、殺し合おうか」
愉悦に顔を歪ませシオンが体を躍らせる。
お互いの刃の殺傷範囲に入ったその時、空間を斬撃が裂いた。鋭い踏み込みと同時に繰り出されるは大鎌の刃。
フランは左手に握る炎と対の剣「氷牙」で迎え撃つ。流麗な動きをもって横一文字の剣閃を双剣の背で受け流そうとする。
異変はその時、起きた。
衝撃がフランの体を襲った瞬間、彼女の表情が苦悶に歪む。突如、手甲の隙間から吹き出る鮮血。
残虐の女王戦で負傷した完治していない傷口が開いたのだ。ヴェルデとの一騎打ちにさらにシオンとの戦闘。もはや左腕は限界を迎えていた。
激痛に耐えるかのように奥歯を噛みしめ、それでも彼女は双剣を手放さなかった。硬質な響きを奏で刃の背と大鎌の刀身が擦れあい火花を散らす。
「お前。左腕に傷を負ってるな。……ふん。もう終わりか。まぁそこそこは楽しめた」
シオンは柄に力を込める。その瞬間、耐えきれずフランの左手から双剣がはじけ飛んだ。
勢いをそのままに斬撃を振るおうとするシオン。スローモーションで流れる世界の中、紅玉がこれから胴体を真っ二つにされるだろう女の翠玉を見据える。
そこにあるのは、決して生を諦めた汚泥の瞳ではなかった。強く輝くエメラルドの瞳。
そしてシオンの体を駆け抜けるのは……青白い魔法風。
ゆっくりと体を傾けていくフランの奥で魔力が迸る。
青き暴威を纏ったリリーナ・シルフィリアのサファイアの瞳が輝きを放った。彼女の足元に浮かび上がるは、幾重にも折り重なった魔力増幅魔法陣。
それらの状況が導き出す答えは最上位魔法の行使だ。
シオンは咄嗟に斬撃を止め、フランを突きとばした。
赤き眼光を空間に帯として引き、シオンの体が躍動する。未だリリーナは詠唱を完全に終わらせてはいない。ここで神殺しの刃を繰り出せば、彼女は即死する。一刀確殺の刃を阻むことはできない。
リリーナの最上位魔法より早くシオンの右足が大地を穿つ。
その右手に生み出されるは深淵なる闇。大量の霊子を収束させ具現化するは金剛石の刃。
「神殺しの征服者、召喚」
全てを切り裂く白刃がリリーナへ剣閃を生み出した。
その瞬間、シオンの目が驚愕で見開く。
ない。あるはずの右腕がそこにはない。
金剛石の大鎌を掴んだ右腕はシオンから分断され宙を舞っていた。
吹き出す血煙の中、紅玉に映りこむのは弾き飛ばしたはずの「精霊の竜牙」だ。だがそれは弧を描く太刀筋をもってシオンの右腕を切り離していた。
双剣の柄に鎖が繋がっている。それはフランの左腕から伸びていた。
「先代の双剣聖がな。『何があっても刃は手放すな』って教えを残してんだよ。こいつは私流の先代の教えに対する答えってやつだ」
「……お前……!」
「ぶちかませ! リリーナ!」
シオンの言葉を切り裂くフランの張り裂けんばかりの声音。
その瞬間、シオンの体を中心に光が渦を巻き天まで駆け上がった。まばゆい光に包まれた白い世界の先で、サファイアの瞳に魔法構成を刻んだリリーナの姿が映りこむ。
彼女の鋭く冷酷な声音が響いた。
「女神の抱擁をもって、霊子の塵となれ! シオン!」
シオンを包み込む光の頂上、そこより一人の女が顔を覗き込む。
美しき女神の姿。それは海のように青い瞳と銀色の髪を携えていた。シオンは口元を歪ませ、天より舞い降りる女神を見据える。
「……よりによってトドメをさすのがあんたかよ」
切り離された右腕が地面に転がると同時に神殺しの刃がガラスの破片のごとく砕け散っていった。
金剛石に彩られた粒子が周辺を舞う中、リリーナの唇が旋律を奏でる。
それは、シルフィリアの名を持つ者のみに与えられた女神の力の顕現。
「最上位神聖魔法・創造神の抱擁!」
女神がシオンの下へと到達する。
刹那。膨大な光の柱が天を衝いた。それと同時にシオンの体は四肢から徐々に消滅していく。
光が収まったその時、そこには何もない虚無が広がっていた。
死神が消失したことで力が抜けたのか、フランはその場に座り込んだ。
ただその表情だけは驚愕に満ち溢れている。リリーナの行使した最上位魔法の威力に彼女は驚きを隠せないようだ。
「……あの死神が一発で消えるとか、何したんだ?」
「霊子に分解した。あの魔法の直撃を喰らえば、たとえ強力な再生能力を持つ死神でもひとたまりもないよ。……終わったんだ。全部」
死神は消滅した。もはやリリーナの命を脅かす存在はない。
七賢者と剣王ヴェルデは命の蓄積を刈り取られ、その命を失った。これからこの国は変わっていくことだろう。
民の命を吸い王を存続させる血に濡れた王国ではなく、民を守り国を守る真の王が座するアフトクラトラスに。
「……これから大変だよ。王がいなくなったから五大貴族で玉座の取り合いさ。必死になって刃を振って道を切り開いた先は、貴族同士の汚い覇権争いが待ってるってわけだ」
そこまで言葉を紡ぐとフランは大の字になって地面に寝そべった。
疲労し傷を構うことなく酷使した体とは対照的に、彼女の表情は二人の天を覆う澄んだ夜明けのように爽やかな笑顔だった。それは達成感に満ち溢れている。
「だけど今は、ゆっくり寝たいわ」
「そうだね。今は……今だけは静かに……寝ていたいよ」
目を閉じるフランの笑顔を見つめ、リリーナ・シルフィリアは百合のように可憐な微笑みを浮かべた。
ゆっくりとサファイアの瞳が閉じ、彼女の体が地面へと崩れ落ちる。
まるでフランに添い寝をするように笑顔を浮かべて。
「……なぁにが今は寝ていたい……よ。二人で百合展開でもしてればいいじゃない」
リリーナとフランがいた場所から離れた位置に、一人の女が紅玉を輝かせていた。
王宮を構築する石材の上に腰を下ろす彼女の手には、血のように真っ赤に熟れたトマトが握られている。
彼女……シオン・デスサイズの整った唇がトマトに噛り付いた。
『分裂体で神の子の力量を測るとはお前らしいが、どうだ? 彼女は?』
分裂体。
それは世界の調整者に与えられた能力の一つだ。自らの体の一部を使用し作成者の分身を生み出す。身体能力を含む全てが半減以下となるが、使用者と瓜二つの外見と本体同様の戦闘技術に死霊魔法も扱うことが可能だ。
「何あの魔法。私、知らないんだけど? 霊子分解とかとんでもない切り札を隠し持ってるのね」
『女神がお前に神殺しの刃をお与えになったように、神の子にも女神は武器をお与えになったのだ。それがあの魔法だ。行使できるのは女神の名を継ぐ彼女ただ一人』
「その割には実力が半分にも満たない分裂体相手に苦戦してたようだけど? まだまだ未熟ね」
脳内に響き渡る監視者の声に答えつつ、シオンは食べかけのトマトのヘタを無造作にちぎる。
『それよりプリメーラ! 力量を測るといいながら最後のアレはなんだ!? 神の子に対して神殺しの征服者を繰り出すなど、たとえ分裂体とはいえ切り裂けば神の子の命はないぞ!』
「分裂体ごときに殺されるようならそれまでの実力ってことでしょ。それならいっそのこと引導を渡してやるわ」
トマトを食べ終わると、鮮やかな緑色に染まったヘタを地面に投げ捨て、シオンは立ち上がる。
そのルビーのように輝く紅玉に、殺意を漲らせて。
「暇つぶしにはいい相手だわ。ますます殺したくなった」
光があれば闇もまたある。
太陽が昇り澄み切った蒼穹が広がる中、まるで闇夜の残滓のごとく漆黒を立ち昇らせ、死神シオン・デスサイズは姿を消した。
だがその時、彼女はリリーナを見据えるもう一つの闇に気が付いていなかった。
霊子で構成された深淵なる闇は、静かに憎悪を滾らせその時を待っている。




