第77話「銀の賢者」
太陽が赤く輝き地平線へと落ちていく。穏やかに流れる風になびくは光り輝く銀糸。
白いローブを揺らし、リリーナ・シルフィリアは木々が立ち並ぶ街道を歩くその時、人影が立っているのに気が付いた。夕陽に照らされるは長く美しい金色の髪。そして強い意思を宿したエメラルドの瞳。
黒い戦闘服に身を包んだフラン・エスペランスが笑顔を湛えていた。
「……おかえり。その様子じゃ終わったようだね」
「ただいま。フラン。終わったよ。魂吸収は阻止した。今頃、王宮にいるじじぃ共がどんな顔しているか見物だな」
蒼玉の輝きと翠玉の輝きが混じり合う。
リリーナが可憐な笑顔を見せたその時、街道に沿う木々が騒めいた。木陰に身を潜めた一人の男が彼女に照準を合わせる。
それは暗殺用に弦を引くことなく即座に矢を放てるボウガンだ。音もなく撃ちだされた矢は、精密にリリーナの頭部をめがけ空間を裂く。
だが、固く尖った矢じりがリリーナの頭部を貫くことはなかった。
寸前で停止した矢柄を掴むのは一本の腕。素早く精密に動いたフラン・エスペランスの右腕だった。
ゆっくりと振り向いた彼女の表情からは笑みが消えていた。輝くは残虐の女王のごとく冷酷な瞳。
「誰だ? 親友との再会に水を差す奴は?」
金色の髪が躍動的に流れた。
瞬く間に距離を詰めたフランが腰に差す双剣の柄を握る。踏み込みと同時に繰り出されるは鋭利な白刃。
殺意のこもった斬撃が男の首を撥ね飛ばす。飛び散った鮮血が木の幹を赤黒く染めた。
刹那。フランが上体を逸らす。彼女の頭があった位置を駆け抜けるのは一本の矢。
切り殺された男がいた反対側。対となる木々に潜んでいた男によるボウガンの一矢だ。すかさず替えの矢を仕込もうとする時、眼前までフランが迫る。
白刃により生み出された剣閃は、声を出させる暇すら与えず男の首元を抉っていった。
両手に握る「精霊の竜牙」の刀身から鮮血を滴らせ、フランは絶命する男を見下ろす。
彼が着こんでいる外套の隙間から覗くのはアフトクラトラスの国旗。それは王国騎士団の鎧に刻まれているものだ。
差し向けたのは国王ヴェルデか、あるいは七賢者か。
どちらにせよ暗殺という「裏稼業」に「正規の鎧」を着るというのは愚行に他ならない。目撃された場合、即座に身元が判明するからである。
つまりこの男達は、鎧を脱ぐ暇すら与えられずこのエスペランスの辺境まで馬を走らせたということだろう。それはすなわち「相手が焦っている」ことを示している。
フランは男の外套で刃の血糊を落とすとリリーナへ視線を移した。
「……こいつらは王国騎士団だ。たぶんあんたを殺すためにここまで来たんだろうよ。それも鎧を脱ぐ暇すら与えられずにね」
「ヴェルデか七賢者の差し金か。どちらにせよ奴らは相当、焦っているみたいだな」
「まぁ私としては予想通りだけど。だからこそこうしてリリーナ。あんたが帰ってくるのを待ってたってわけ」
フランの表情から鋭さが抜ける。とってかわり浮かび上がるのは友へ向けた親愛の笑顔。
「プロエリウム軍と戦ってきたんだ。あんただって疲れてるんだろ? 私が道中、護衛するよ。なぁに心配はいらない。なんせあんたを護衛するのは名だたる双剣聖なんだからね」
その言葉を耳にしてリリーナは、安堵の表情を見せた。そして咲き誇るのは可憐な微笑み。
「それじゃお言葉に甘えて。護衛をお願いしようかな。双剣聖殿」
◇ ◇ ◇
その夜は王都の空を雷鳴が鳴り響いていた。
アフトクラトラスの中心に鎮座する王宮内では、豪華な式典が開催されていた。それは十五歳という若さで「賢者」へと登りつめたリリーナ・シルフィリアを祝う宴だ。
かつてヴェルデ・シュトルツが国王になった戴冠式のように五大貴族が立ち並ぶ。彼らは未だ王宮へと姿を現さないリリーナを待っていた。
そこにエスペランス家当主フラン・エスペランスの姿はない。もっとも、リリーナに協力し寝食を共にしていた彼女の不在を疑問に思ったのか、貴族達は怪訝な表情を浮かべる時もあった。
だがミゼリコルド家当主エレオス・ミゼリコルドだけは、平静をもってただ静かに彼女達の到来を待ち続けていた。
おそらく彼は気が付いていたに違いない。隠す様子もない騎士団の慌ただしさと、リリーナから送られたフランへの一通の手紙。それを目にしたフランが左腕の傷の完治を待つことなく王都を飛び出した事実。
今日、この国は変わる。
ここに彼女達がたどり着いたその時、国王ヴェルデと七賢者の終焉なのだと。
その時、扉が開く音が鳴り響く。
式典が開かれる王室に足を踏み入れるのは二人の少女。それは白いローブに華やかに揺れる銀の髪。海のように澄んだサファイアの瞳を輝かせるリリーナの姿。そして汚れ一つない彼女とは対照的に黒い戦闘服を鮮血で染めたフラン・エスペランスだった。
両手に竜の牙を模した双剣を握り血まみれのフランに、貴族達は驚愕と恐怖を感じたのか後ずさりする。しかし彼女にそっと近づく人影があった。
笑顔を見せたエレオスである。彼の手には一枚の布が収まっていた。
「……麗しい女性がそのような血まみれでは華がありません。やはり美しい女性はドレスでないといけませんね」
フランはそんなエレオスに笑顔を見せた。
彼女はここまでずっとリリーナを守り続けてきたのだ。戦闘服に付着している血液は古く乾いたものではない。おそらくこの扉の向こう、王宮内ですらフランは剣戟を振るってきたのだ。
エレオスはそう悟っていたのだろう。
「さすがにこの格好では式典に相応しくありませんね。着替えてきますわ」
「いや。フラン。そのままでいいよ。君の姿がこの国を象徴している。血に濡れた玉座がそこにある事実をね」
リリーナはそう言葉を紡ぐと鋭さを秘めた瞳を玉座へ向けた。
彼女の視界に映るのは、無言で見据える国王ヴェルデの姿。猛禽類を思わせる力強い瞳は影も形もなく、濁った色を宿している。かつてあった覇気はなく血色の悪いその顔は、まるで国王を象った動く死体が玉座に座っているかのようだった。
ゆっくりとリリーナは玉座に歩み寄る。
その緊張感に包まれたただならぬ気配に貴族は圧倒され、ただ黙って見つめるだけだ。式典を進める立場にいる大臣でさえ動揺を隠せない。
彼女は玉座の前にたどり着くと跪き頭を垂れる。
「リリーナ・シルフィリア。ただいま帰還しました。陛下もご存知の通りプロエリウム軍は全滅です。そして今、この場にて私が頭を垂れるのは最後でございます」
まさにそれは国王へ向けられた死刑宣告に等しい。
大臣が言葉の意味を理解できずおろおろしている横で、ヴェルデはゆっくりと言葉を紡ぐ。それは生気のこもっていない無機質な声音だった。
「大義であった。約束通りそなたに賢者の称号を与える」
ただそれだけを口にしヴェルデは玉座から腰を上げると、奥の扉へと姿を消した。
式典とは程遠い殺伐とした空気に大臣はただ動揺するばかりだ。何と声をかけたものかと思案しているであろう彼にフランが近づく。
「大臣殿? 式典の続きを」
「いや……しかし国王はこの場を離れさらにあなたはそのような血まみれで……一体、どうしたものかと……」
「それでは僭越ながら私が続けますわ」
フランが笑顔でそう語った時、王室の隅から一人の侍女が彼女に近づき何かを手渡す。
それは一着のローブだった。綺麗に折りたたまれた生地は純白に染められ、所々青い刺繍がされてある。そして胸元に刻まれているのはエスペランス家とミゼリコルド家の家紋だ。
フランは両手で大事そうに受け取るとリリーナの元へと歩み寄る。そして満面の笑みを浮かべた。
それは血濡れてなお美しく咲く薔薇のように。
「賢者を記念して竜の髭を材料に編んだ賢者のローブですわ。ぜひお受け取りください。銀の賢者リリーナ様」
「……ありがとう。フラン」
うっすらと蒼玉の瞳に涙を浮かべ、リリーナは可憐な笑顔を見せるとローブを両手で抱きしめた。
◇ ◇ ◇
薄暗い闇。
ヴェルデの目の前には誰もいない王室が広がっている。式典の後、彼は一人玉座に座っていた。絶えず血の匂いを漂わせたそれに。
うなだれる彼に死が近づく気配が漂う。まるで自らの喉元に大鎌の刃が突き付けられているような感覚。ゆっくりと切っ先が咽喉へ突き刺さり皮膚をやぶっていく。
だが血も痛みもない。もはや彼の体はとうに死んでいるのだから。
その時、ブーツが王室の床を打つ音が耳に響いた。
生気のない瞳で前を見据えるヴェルデ。彼の視界に映るのは刃のごとく鋭利な瞳を携えたフラン・エスペランスの姿だ。
黒い戦闘服に身を包み両手に双剣を握りしめた彼女は、ゆっくりと玉座へ歩み寄る。
「お前が王として静かに横たわることを私は許さない。私の愛する者を奪ったお前を斬るその日までずっと牙を研いできた。今こそそれを成すべき時だ」
肌を刺すほどの闘気の奔流をその身に浴び、ヴェルデはゆっくりと玉座から腰を上げる。
彼のその手に握られるのは光り輝く白刃。聖剣<ホープアヴェリオン>だ。雷鳴が部屋を照らす中、フランのエメラルドの瞳が殺意をもって輝く。
「双剣聖フラン・エスペランス。貴様のその首、貰いうける」




