第74話「炎の開戦」
王都アフトクラトラスが震撼した。
突如、もたらされた「プロエリウム」による宣戦布告。それは王宮を駆け抜けヴェルデの耳へと入ると、彼は玉座から腰を上げ声を荒げた。
「今すぐ軍を向かわせる! プロエリウム軍の侵攻場所を割り出せ!」
「……お待ちください。陛下」
王宮内が騒然とする中、一人の少女が氷のような冷たさを纏いヴェルデに歩み寄る。彼女……リリーナ・シルフィリアは彼の目の前で頭を垂れ跪いた。
「王宮魔術師よ。何か?」
「進言致します。陛下。此度の戦、私にお任せください」
「任せろ……と? そなたが指揮をするというのか?」
「相違がございます。陛下。出陣するのは私のみでございます」
リリーナの冷静な声音が響いたその瞬間、ヴェルデの表情が豹変した。
激情に燃え盛るかのように両目を見開き、声を張り上げる。
「そなた一人で何ができるというのか! 自惚れに過ぎぬぞ! 今すぐ撤回を……」
そこで言葉は途切れた。
圧倒的なほどの魔力。それは王宮内を駆け巡り周辺の人間を、そしてヴェルデを黙らせた。まるで猛獣が牙を剥くがごとく暴威を振るう魔力の奔流を浴び、ヴェルデはその場に立ちすくむ。
有無を言わさぬ激流の中心に鎮座するリリーナは、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「自惚れではございません。此度の戦においてもっとも適任であると自負しております。また侵攻場所においてはすでに把握しております」
「……なんだと……!?」
「今から兵を向かわせてもエスペランス領は蹂躙されることでしょう。ですが私でしたらプロエリウム軍が侵攻を開始する前に到達できます。私なら兵を民を犠牲にすることなく対処が可能でございます」
「しかし……」
口ごもりながらも言葉を紡ぐヴェルデを鋭い眼光が貫いた。そこにあるのはまるで青白い炎のごとく輝くサファイアの瞳。
「陛下。あなたの剣は何のためにありますか?」
「剣……だと?」
答えなど決まっている。
ヴェルデ自身の為などではない。民のため国のため剣を研ぎすましていた……はずだった。
本来、即答できるはずの答えを口から出すことができないヴェルデがそこにはいた。
「民を守るため国を守るためであったはずです。そんな陛下が、民に、兵に犠牲が出ることを良しとなさるはずがありません。そうではありませんか?」
ヴェルデはまるで頭痛に苛まれているかのように頭に手をかけると、玉座に腰を下ろす。
いつからだろうか。
自らの掲げた剣を下ろしたのは。
いつからだろうか。
傀儡と言われようと永遠に統治することで理想郷が生まれると錯覚していたのは。
血の匂いがした。ヴェルデが視線を下ろすと目に映るのは、大量の血液をまとわりつかせた玉座。
そして目の前に広がるのは、白い壁に覆われた華やかな王宮などではない。今にも崩れそうなほど朽ち果てた墓場に佇む玄室だ。
これがこの男の結末。そして彼を終末へと叩き落すのは……目の前にいる女神なのだ。
「……いいだろう。そなたに任せよう。だがここで聞いておく。もしそれを成し得た時、そなたはこの国を救った紛れもない英雄だ。王宮魔術師などの枠に収まらない聖騎士さえも超える存在となろう。そなたはそれに対して何を望む?」
リリーナは頭を垂れた。その時、凛として可憐な声音と共に最後の審判を下す。
「賢者の地位を賜りたく存じます」
彼女の声音が響いた瞬間、ヴェルデは目を閉じた。
彼は理解したに違いない。自分の喉元に終焉という名の牙が食い込み始めているということを。
ヴェルデはゆっくりと目を開けた。そして終焉の女神へ言葉を紡ぐ。
「……よかろう。王宮魔術師リリーナよ。この国を救え」
「御意」
彼のその言葉には、負の連鎖を断ち切り、真の意味でこの国を救い導けという意味が込められていたに違いない。
――エスペランス領辺境の地。
周りを渓谷に囲まれた地形にぽっかりと広がった草原地帯。そこの盛り上がった丘の上に二人の人影があった。
一人は緩やかに吹き抜ける風に銀糸を揺らすリリーナ・シルフィリア。そしてもう一人は黒曜石のごとく艶やかな黒髪を揺らすシオン・デスサイズである。
シオンはかつてのマリアのごとく戦を前にしてトマトを頬張りながら、前を見据えるリリーナへ語り掛けた。
「よくこの場所、わかったわね」
「蛮族の王が言ってたからな。『竜の髭』と」
「それ地名じゃないわよ?」
「そう。竜の髭はエスペランスの特産品だ。その正体は竜の体毛。それが採取できる場所はアフトクラトラス内でここしかない」
リリーナは眼下を見下ろす。
彼女のサファイアの瞳に映りこむのは、数千に及ぶ兵士の戦陣だった。茶色の肌を持つのはプロエリウムの騎士。先陣を行進するは多種多様な種族で構成された奴隷兵達である。
「竜の渓谷だ」
「しかしあなたもよく野蛮人の王を説得したものね。どうやったの?」
「暴力をちらつかせた後、娘を人質にして脅した。捕まえた捕虜の話から一人娘を溺愛していたのは知っていたからな」
「なるほど。一個人に対しては最良に近い手だわ。事前に暴力を見せつけるのも効果あるわね」
「索敵の目で近くに兵士が潜んでいるのはお見通しだからな。利用させてもらった」
「よく一人娘なんか捕まえる時間あったわね」
「あーあれか。本人じゃない。作り物だ」
ブッっと思わずトマトを噴き出しそうになるシオン。リリーナは悪戯好きな微笑みを浮かべる。
「投影魔法陣に本人そっくりの人間を描いただけだ。捕虜の記憶から対象の容姿を抽出することは容易だからな」
「大した胆力ね。それで? 私をここに呼んだってことはあなた。二人で数千人はいるだろうこの野蛮人達と戦うつもり?」
「勿論。なんだ? 怖気づいたのか? 死神」
「まさか。むしろ心躍る光景よ。昔を思い出すわ」
これから起こる虐殺の饗宴を想像したのか、シオンは妖しく舌なめずりをした。
リリーナは丘から一歩を踏み出す。その姿は先陣の兵士の視界にも映りこんだ。
「結構なことだ」
兵士の一人がリリーナの姿を視認し怪訝な表情を浮かべたその時だった。
周辺を覆う絶壁を沿うかのように軍勢を炎が取り囲む。それは人を呑み込み焼き尽くすほどの猛火だ。
身動きできずに騒然となる兵士達を、冷酷に輝くサファイアの瞳が見下ろした。小柄な体から噴き出す魔力が暴威をもって荒れ狂う。
「鏖殺せよ。一匹残さずだ」