第73話「決闘者」
王都を一望できるバルコニーで、ある男が眼下を眺めていた。
猛禽類を思わせる獰猛な眼光。まるで獲物を狙い定める鷹のごとく鋭利な視線を携えるのは、現国王ヴェルデ・シュトルツだ。
おそらく数日でプロエリウムが攻め込んでくることだろう。
侵攻開始場所がエスペランス領なのは確定している。確実に民の犠牲が続出し、さらに向かう騎士団とも激しい戦いが繰り広げられるだろう。そして戦火に巻き込まれた魂は全て国王と七賢者の糧となる。
彼は再び、血に濡れた玉座に座ることになるのだ。永遠に。
その瞬間、ヴェルデは激痛に苛まれるかのように頭に手を添えた。
声がするのだ。あの死神の声が。あの日、シオン・デスサイズと一騎打ちしたその時、交わされた言葉が。
――それを傲慢というのだ! 剣王!
彼は心の奥底で悩んでいたのかもしれない。
全てはこの国のためだった。カスティゴが生み出す悪政に支配されていたこの国を救う必要があった。
だが人の命には限界がある。例え心身を鍛えようとも、聖剣を手にして聖騎士となろうとも己の死には抗うことはできない。
死ねば全てを失う。偉業も国も自らの理想郷も。
「俺が死ねば誰がこの国を救うのか!」
誰もいない虚空に向けてヴェルデが吠えた。
だからこそ魂吸収などという外道に身を落としたのだ。だが彼は意識の深淵で理解しているのだろう。
その思想こそが死神の言う「傲慢」なのだと。
コツンと床を打つ音がヴェルデの耳に響く。
何者かが王宮の白い床を踏み彼に歩み寄る音色。ヴェルデの隣で穏やかな風に揺れるのは、光り輝く銀糸を思わせる美しい白銀の髪。
リリーナ・シルフィリアは、無言で足を止めた。ヴェルデは彼女に視線を移すことなくおもむろに言葉を紡ぐ。
「……王宮魔術師よ。眼下に望む光景はそなたにはどう映る?」
「生ける人、生ける都市。私が守るべき場所です」
「守るために手段は問わぬか?」
「はい。守らねばならぬなら如何なる手段さえ躊躇いもなく使います。しかしそれは守るべきものを犠牲にすることではありません。陛下」
サファイアの瞳とヴェルデの瞳が交差する。
齢十四にして王宮魔術師まで登りつめ、聡明さにおいて他の者の追随を許さない少女。その花を思わせる可憐さを持ちながら冷徹に事を成す冷酷者。彼女の持つ宝石のような瞳は全てを見透かしている。
ヴェルデは理解していたのかもしれない。ケンウッドの下で育った女神を模した少女がこうして隣に立つ意味を。その瞳の奥に渦巻く憎悪を。
彼女は……ヴェルデを殺すためにここにいると。
「そなたの言うことは正しい。守るべきものは守護の対象であり、糧となるものではない。守るべきものを守るといいながらその命を吸うのは偽善にすぎない。……俺は間違っていたのかもしれない。だがこの身、最早後戻りはかなわぬ」
彼はあるいは止めてほしかったのかもしれない。
国を守るために永遠に生きる。その為に民を犠牲にする……その負の連鎖を断ち切ってもらいたかったのかもしれない。
――この男は迷っている。
リリーナはそう思った。
心の片隅にこびりついた小さな良心か、あるいは本来あるべきはずの人の心を取り戻したのか定かではない。
だが……。
――そんなものなどこの男には不要だ。
今、人の心を得たところで何になる。
懺悔し玉座を捨て、あるいは斬首台に首を置くことによって何が変わるというのか。吸われた命は戻らない。リリーナを愛した唯一の家族であるケンウッドは決して戻りはしない。
七賢者が生きている限り魂吸収は繰り返されるだけだ。傀儡の王を乗り換えて。
この男自身が言っている。最早、後戻りはできないのだ。
リリーナが黙り込んでいるのに気が付いたヴェルデは、ハッとした面持ちで彼女へ視線を移す。
「……すまない。変なことを聞いたな」
「いえ。それでは私は戻ります」
苦笑するヴェルデに口元をほころばすとリリーナは背を向けた。その小柄な背中に彼の鋭い視線を浴びながら、彼女のサファイアの瞳に炎が宿る。
――剣王も七賢者も……全て滅する。
それがリリーナのここにいる理由の全てなのだから。
――エスペランス領内双剣聖の間。
そこはエスペランスの家系に属するものしか立ち入りが許されない禁断の地。
場所は王都アフトクラトラスを囲む城壁のはるか外側、エスペランス領内に佇む遺跡だ。周辺を森林に囲まれその存在を知るものは歴代当主以外ほぼいない。
誰一人としていない空間。陽の光が入らない薄暗い通路を一人の女性が歩く。
闇に浮かぶは鋭さを秘めたエメラルドの輝き。漆黒の戦闘服に身を包み腰元まで流れる金色の髪が優雅に揺れた。その手には竜の牙のごとく沿った双剣が握られている。
エスペランス家当主フラン・エスペランスである。彼女は無言で通路の先にぽっかりと口を開けた広場にたどり着いた。
まるで闘技場を思わせる閉鎖された空間。その中央の床には魔法陣が刻まれている。
フランはその場に膝を折ると、一つの石を魔法陣に置く。それは青白く発光し、魔法陣に刻まれた魔法構成が呼応するかのように輝きを放った。
彼女が行っているのは双剣聖の儀式だ。
石は「双剣聖の記憶」を取り込んだ魔法石であり、魔法陣の上に設置することで「先代の双剣聖」を記憶から抽出し具現化させる。
そして行われるのは双剣聖同士の決闘だ。「先代の双剣聖を殺す」ことで正式に双剣聖の名を継ぐのである。
フランが双剣「精霊の竜牙」を構える先で一人の女性の姿が浮かび上がる。
それはフラン同様に黒い戦闘服を身に着け、両手には双剣が握られている。鍛えられたしなやかな肢体に漆黒のアーメットを被った「先代の双剣聖」だ。
彼女はフランを認識すると音もなくゆっくりと双剣の刃を構えた。奇しくもそれはフランと同じ構え。
そこに言葉などなかった。歴史を動かすとまで言われるほどの実力を持つ双剣聖同士の決闘に言葉など無粋。あるのは剣戟だけだ。
だが沈黙を破りフランの口が言葉を紡ぐ。
「本人が言ってたらしいな。双剣聖たるもの、言葉ではなく刃で語れ……だっけか」
エメラルドの瞳が輝く。それと同時に床を蹴るのはフランの右足。
「残虐の女王!」
鋭い吐息と共に繰り出されるは高速の斬撃。
瞬きすら許されない速度で迫るフランの剣閃に、レジーナの体が揺らぐ。素早く腰を落とし重心を下へ。それと同時に左手の双剣の背でフランの斬撃を受け流す。
流麗たるは水のごとし。金属がこすれる音と共に刃を流されたフランへ白刃が軌跡を生んだ。それは僅かに身を捻った彼女の首元を駆け抜けていく。
ランプのみに照らされた薄暗い空間に鮮血が散った。
頸動脈のわずか数センチずれた皮膚を刃が抉ったのだ。首元から血を滴らせフランはレジーナから距離を取る。
ほんのわずかな攻防。しかしそれでフランは目の前の「怪物」の実力を見抜いていた。
彼女の父も母も祖父も祖母も双剣聖にはなれなかった。だがそれは彼らが弱かったわけではない。先代が強すぎたのだ。
まさにそれは相手を切り殺すために全てを捨てた女。「残虐の女王」の名を体現している。
――だがそれでも!
フランは引かなかった。引くわけにはいかなかった。
彼女の刃には全てが込められていた。自分の未来も領民の命もこの国の行く末も……リリーナの笑顔も。
果敢に斬撃の殺傷範囲に体を滑り込ませる。
待ち受けるは踏み込みに合わせた絶妙な迎撃。銀色の弧を描く白刃を左の双剣で受け流し、懐に踏み込む。それと同時に繰り出されるは炎の斬撃。
火の精霊を纏った右手の竜牙が剣閃を生む。それは精確にレジーナの首筋を断つ……はずだった。
目の前で巻き起こるは竜巻を思わせる風。そう錯覚させたのはレジーナの足を軸とした回転運動だ。
打ち込んだ際の体の捻りを利用し、フランの斬撃を躱しつつ左手の双剣を逆手に持ち変え白刃を煌めかせた。
フランは斬撃体勢で回避する余地はない。そこへ遠心力を上乗せしたレジーナの刃が高速で迫る。
極限まで磨かれた感覚が生み出すスローモーションの世界で、フランの瞳がレジーナを見据える。
表情の見えない漆黒の兜が何かを語っていた。「何故、力を求める?」と問うていた。
エメラルドの瞳が輝く。その答え。とうにフランはたどり着いていた。
「友を守るため、大切な者を守るために決まってんだろ! 残虐の女王! だからこそ私は力が欲しい! ただそれだけだ!」
フランは咄嗟に左腕を剣閃へと挟み込む。彼女は左腕を犠牲にしたのだ。
ろくな防御姿勢も取らずに叩きつけるように差し込んだ左腕の手甲が砕け鮮血が飛び散る。構うことなく縦方向へ白刃を振り抜くフラン。
血をまき散らしながら放つそれはまさに「肉を切らせて骨を断つ」斬撃だ。捨て身の刃はレジーナに軌跡を走らせ、漆黒のアーメットを切り裂いた。
痺れで感覚が無くなる左腕に構うことなく、フランの足が大地を蹴る。それと同時に生み出されるは渾身の斬撃。
白刃の軌跡が流れる中でフランの瞳にレジーナの顔が浮かび上がる。砕かれたアーメットの下にあるものは、エメラルドの瞳に金髪を携えた美しい顔。
まさに自分と見紛うばかりに同じ人物がそこにはいた。彼女は微笑むその口をわずかに動かす。
「合格だ。我が子よ」
一閃。
フランの決意がこもった斬撃はレジーナの首を駆け抜け切り落とした。
首が転がり、胴体がゆっくりと倒れると同時に、レジーナの体はまるで幻であったかのように霧散し空間に溶けていく。フランはだらりと下がった左腕を支えながら、地面に転がる魔法石を見据えた。
「……強すぎるんだよ。あんたは」




