第72話「武国に浮かぶは女神の冷笑」
アフトクラトラスに隣国するは武人の大国「プロエリウム」である。
領土面積はアフトクラトラスと並ぶほど広大な巨大国家だ。魔法文明が発達したアフトクラトラスとは違い、プロエリウムは物量と接近戦における技量を重視する、言わば「マリア達が活躍していた」時代の戦闘形態である。
侵略に次ぐ侵略で領土を拡大し、徴兵令を採用している故に反対派による内乱も多い国内外で常に戦争をしている国だ。リリーナがよく「野蛮人の巣」と形容するほどである。
現プロエリウム国王「アトレータ」は、宴の酔いを覚ますため玉座に腰を下ろした。
ドワーフのようにずんぐりとした体型。だが筋骨隆々であふれんばかりの筋肉が法衣から垣間見えている。見事な白い顎ひげを撫で、誰もいない薄暗い空間を見つめた。
先程まで行われていたのは、戦を開始する宴だ。
こともあろうに捕虜を皆殺しにしたアフトクラトラスに報復するためである。実はアトレータ国王はアフトクラトラスの領地に興味はなかった。正確に言えば「諦めていた」のだ。
以前、兵を送り戦争を起こしたことはあった。だがアフトクラトラスの保有する強力な魔法兵器はプロエリウム軍を蹂躙した。
余りに分が悪い戦い。それゆえ撤退した国王は対象を変えることにした。狙える領地など何もアフトクラトラス以外にもあるのだから。捕虜を解放するのならば素直に受け入れ、停戦協定を結ぶことも辞さない考えだった。
だが今回は話が別だ。
奴らはその捕虜を皆殺しにした。アトレータの逆鱗に触れたのだ。野蛮人と形容されるように気性が荒いプロエリウムの民が、そして王が黙っているわけがなかった。
陽が落ちかけた中、王宮を吹き抜ける風がアトラータの体を駆け抜ける。
その時、風に乗って流れるは冷たい気配。彼の瞳に野獣のごとく鋭さが宿る。
薄暗い通路を一人の少女が歩いていた。白いローブに青白く光るサファイアの瞳。見た目は華奢で可憐な少女だ。だが僅かにほとばしる青白い魔力は、彼女が只者ではないことをアトラータに告げていた。
その美しい顔がアトラータの瞳に映ったその時、彼は驚いたのか目を見開いた。
国が違えど信仰する唯一神は同じである。目の前に立つ少女は銀色の髪に海のように青いサファイアの瞳を携えていた。それはまさに創生の女神の現身に他ならない。
彼女……リリーナ・シルフィリアは、アトラータを前にしてひざまずき頭を垂れた。
「何者だ?」
「アフトクラトラスより参りました王宮魔術師リリーナ・シルフィリアと申します」
「アフトクラトラスとな。さすがの余も少し驚いたわ。その容姿もさることながらこうも堂々と余を暗殺にくるとはな」
「陛下のお言葉には相違がございます。私は陛下の命を狙うためここにはせ参じたわけではございません」
「ほぉ? では何をしにここにきたのだ? 女神の現身よ」
アトラータは玉座に立てかけてある直剣に手をかけながらリリーナを睨みつけた。
全身を突き刺す殺気を浴びながらも、彼女には微塵も動揺する気配はない。リリーナは頭を下げたまま言葉を続ける。
「私めが進言いたしますは、アフトクラトラスとプロエリウムの停戦にございます」
空を切る音が響く。
鞘から解き放たれた刀身が空間を裂き、リリーナへその切っ先を向けた。だが彼女は微動だにしない。
「ならぬ。元より捕虜を殺害し我らに火をつけたのはお前達だ」
「陛下。どうかお含みおきください。捕虜の殺害は本来、我々が意図することではございません。これは我が国のある者が戦争を故意に起こすために仕組んだことでございます」
「お主の言葉が真実ならば、我が国との戦争は本来、あるはずではなかったということか?」
「左様でございます」
「だが女神の現身よ。捕虜が殺害されたのは事実だ。仮にお主の言う通り故意によるものだとしても、それに対する落とし前はどうつけてくれるのだ? 我が兵の士気は高い。一度掲げた矛を下げることはできぬぞ?」
「進言致します。陛下よ。プロエリウムの民は戦神の子。一度、掲げた矛を下げるなど誇りに傷がつきましょう。ですが此度の戦。プロエリウム軍は敗退致します」
リリーナの言葉が響いた途端、アトラータの体が動く。
手にした直剣を振りかぶり叩きつけるようにリリーナへ繰り出した。
「そこで私めより提案がございます」
鈍い光を放つ刃が彼女の頭上でピタリと止まる。
「陛下の下には陛下の意にそぐわない者も多いと聞きます。そこで此度の戦にて反乱分子の一掃に私めをご利用くださいませ」
「……お主。戦にて我が軍が負けるのを利用しろというのか」
「左様でございます」
リリーナは音もなく立ち上がる。そこにあるのは青白く炎のように輝くサファイアの瞳。
「陛下への反乱者共々全て、私と協力者で一掃してご覧にいれます」
その言葉に呼応し王宮内に響くのは、アトラータのぐぐもった笑い声だ。
こんな年端もいかぬ少女が数千の兵を相手にして全滅させるなど絵空事にすぎない。
「余興としては楽しめる話だ。だが余が小娘の言葉に惑わされると思うのか? はじめから交渉の余地などない。お主はここで死ぬがよい」
アトラータの声を皮切りに数十人の兵士が一斉にリリーナを取り囲む。
彼女は素早く周辺を見渡すとため息をついた。「……所詮は野蛮人か」と短く言葉を紡ぐと兵士には目もくれずアトラータを見据える。
そこに輝くは剣先のごとき鋭さを湛えたサファイアの瞳と、青白い魔力の奔流。
刹那。耳に響くのは鎧がひしゃげ骨が潰れる音。アトラータの目の前で地獄が広がっていた。
リリーナを取り囲んだ兵士が一瞬で肉塊と化した。まるで不可視の鉄槌で叩き潰されたかのように折り畳まれたのだ。
血だまりと人間だった何かに囲まれながらリリーナは微笑んで見せる。
「陛下。お戯れを」
大量の鮮血の中、返り血一滴すら浴びない彼女にアトラータは体を硬直させた。
彼は戦闘民族の王だ。決して相手に弱さは見せない。だが彼の額から滴る汗や眉根を寄せた表情からは、目の前にいる女神を模した少女の強大さと冷酷さに動揺を隠し切れないのが垣間見えている。
「陛下が承諾なされないのであれば、私といたしましても真に遺憾ながら実力行使に出るしかありません」
「ここで余を討つか? 余とて一国の王。ただでは死なぬ。お主も生きてこの国は出られぬと思え!」
「最初に申し上げました通り、私は陛下の命を狙ってはおりません。それに陛下は死を恐れぬお方です。脅しなどには決して屈しないことでしょう。……ですが陛下のご親族は、別ではありませんか?」
驚愕したのか目を見開いたアトラータの視線の先に浮かび上がるは投影魔法陣。それはリリーナの手の上でとある映像を映し出す。
そこにいたのは一人の少女だ。眠らされているのか目を閉じ身動き一つしない。
彼女を見た瞬間、アトラータの体が大きく震えた。怒り心頭といった様子でリリーナを睨みつけ、奥歯を噛みしめる音が響く。何故ならばその少女は……彼の一人娘だからだ。
張り裂けんばかりに彼の怒号が王宮に響いた。
「貴様! 我が娘を人質にするつもりか!」
「陛下が私の提案にご承諾いただければ、ご息女には一切、手出しを致しません。首を縦に振るだけでございます。それだけで陛下は反乱分子を一掃し、ご息女も傷一つつけられることなく陛下の下へと戻ることができます」
リリーナは頭を垂れた。だがアトレータには見えないその美しい顔が冷笑に溢れているように見えていることだろう。
「……陛下。お答えを賜りたく存じます」
アトラータは思案するかのように黙り込むと突如、直剣を放り投げ玉座に腰かけた。
気持ちを落ち着かせるためか大きく息を吸うと、リリーナの銀色の髪を見据える。
「いいだろう。お主の提案を呑もう」
「有り難き幸せ」
「二日後、我が軍がアフトクラトラスに侵攻を開始する。余に盾突く者を主に編成しよう。侵攻場所は竜の髭だ。だが一つ条件がある。……誰一人、生かして返すな! 全員、皆殺しにせよ」
「御意」
「ここでのお主との会話も何もない。余は誰とも会っていない。そこにいる潰れた奴らは勝手に死んだのだ。余は何も見ていない。それでよいな?」
「はい。陛下の仰る通りでございます」
リリーナが顔を上げた。そこにあるのは百合のごとく可憐な容姿と宝石のように輝く青き瞳。だがアトラータの目には少女などではない、神を斬殺したという冷酷な女神にしか見えてないことだろう。
白いローブをひるがえし、リリーナが玉座に背を向ける。その小柄な後ろ姿を見据えていたアトラータが重むろに口を開いた。
「女神の現身よ。お主がここまできたのは何のためだ? 国のためか?」
リリーナが立ち止まる。しばらくの静寂の時を経て、振り返ることなく彼女は言葉を紡いだ。
「友のためです。陛下」




