第60話「女神を模した少女」
暗く湿った空気が王宮内を覆い尽くしていた。
ランプの灯りさえない暗闇の中、ヴェルデは法衣を血で濡らし玉座に座り込んでいる。その瞳は、死人のように生気が一切感じられない無機質な光が宿っていた。
雷雨が宮殿を打つ雨音が響く中、コツンとブーツが王宮の床を踏みしめる音が鼓膜を震わす。ねっとりとした濃密な殺気と共に漂うのは死の気配だった。
雷鳴により照らされたそれは、燃え上がる二つの真紅の瞳。ヴェルデは、「彼女」に視線を移すことなく微笑んだ。
「……来ると思っていた。シオン・デスサイズ」
神は最初に男を作った。
だが男は孤独を嫌った。故に神は女を作って与えた。
神は言った。
楽園で自由に生きるがよい。ただ知識の木の実は食してはならない。
男は神の言葉を守った。しかし女は守らなかった。女にとって男はけがらわしい存在だった。
女は知識の木の実を食べ、神の力を得た。そして一振りの刃で神を殺し、全てを創造した。それゆえ女は「創生の女神」と言われた。
女は海のように青いサファイアの瞳に、光り輝く銀色の髪を携えていた。
「今のがこの世界に伝わる世界創造の神話じゃ」
木でできた小さな家。その中央に鎮座する椅子に腰かける老齢の男性が本を片手にそう言葉を紡いだ。
そんな彼に興味津々といった様子で一人の女の子が瞳を輝かせている。その子供はまるで神話から出てきたかのように、光り輝く銀色の髪とサファイアの瞳を携えていた。
「その女神様って私みたいな見た目だね」
「そうだなぁ。もしかしたらリリーナは創生の女神の生まれ変わりかもなぁ」
老齢の男性の名はケンウッドという。かつてはアフトクラトラスの王宮魔術師であったが、現在は隠居し小さな村で暮らしている。そんな彼の傍らで笑顔を見せる子供はリリーナ・シルフィリアである。
彼女は女神の遺産のとある場所に寝かされていた。各地を放浪していたケンウッドは、脳内に直接響く女の声音に導かれ、彼女の元へとたどり着いた。
そこで天からの啓示をうける。その赤子の名は「シルフィリア」だと。
彼は自らが考えた「リリーナ」と啓示による名「シルフィリア」を合わせて彼女を「リリーナ・シルフィリア」と名付けた。そしてエスペランス領の辺境にある小さな村に家を建て、彼女と共に暮らした。
リリーナには特異性が存在した。
それは「精霊の加護」と「精霊の従属」の二つである。赤子の状態から彼女は常に精霊の守護を受けていた。喉が渇けば水の精霊が雫を落とし、風雨が強い日には風の精霊が彼女を守り、魔物が出ようものなら火の精霊が牙を剥き、全てを焼き尽くした。
そしてケンウッドがもっとも驚いたのは彼女が「精霊の支配者」の階級に属していたことだ。
精霊は自らにより親和性が高い存在に従う。「精霊の支配者」とはその階級の頂点に位置する。それは精霊そのものを生み出した「神」と等しき存在。事実上、リリーナの前で精霊魔法を行使できるのは、同じ階級に属する者のみである。
そんなリリーナだが普段は読書を愛するおとなしい少女だった。
しかし敵対する者が現れた時、冷酷な女神へと変化した。村に魔物が入り込んだ際、撃退しようとケンウッドが飛び出した時、彼の目の前は切り刻まれた骸で血の海となっていた。
その中心で青白い魔力の迸りと炎のように煌めくサファイアの瞳を輝かせるリリーナは、返り血一つ浴びる事無く立っていたという。
笑顔を見せるその美しいサファイアの瞳の奥に潜む、尋常ならざる冷酷さにケンウッドは気が付いていた。かつて創生の女神は自らを生み出した神さえ斬殺した。その冷酷さはリリーナにも受け継がれている。
しかし彼はそれを覆い尽くすほどの愛情を彼女に注いだ。子供がいなかった彼にできた唯一の娘なのだから。そしてリリーナにとっても、彼との生活は幸せに満ちていた。
しかし、それは長くは続かない。
七賢者と国王が従える王国騎士団がこの小さな村を訪れたのは、リリーナが十一歳の時である。
彼らは決してこの村を守るために来たわけではない。目的はただ一つ。リリーナを殺すことだった。
七賢者は恐れていたに違いない。「精霊の支配者」の階級を持つ彼女は後の脅威となり得る。仮に懐柔できなければ魂吸収の儀式にさえ影響を及ぼしかねない。
ならばまだ力をつけない幼いうちに殺す。それが七賢者が出した結論である。
「ダメだ! 彼女は渡せない!」
ケンウッドは当然、彼女の引き渡しを拒否した。それに対し苛立ちを隠すことなく騎士団の一人が彼の白い頭髪を掴み、テーブルに叩きつけた。
「おい。じじぃ、わかってんのか? 七賢者に反発するその意味、知らねぇわけないだろ?」
隠居したとはいえかつての王宮魔術師という地位にいた人間に対してまったく臆することのない態度。それは七賢者という後ろ盾の強大さを物語っている。
だがケンウッドは頭から血を流しながらも首を縦には振らなかった。彼は知っていたのだ。七賢者率いる王国騎士団が反乱分子となり得る者を選出しては、襲撃し殺していることを。
リリーナをそんな奴らに渡すわけにはいかない。ケンウッドは暴力を受けながらも頑なに拒否し続けた。
騎士団が一度、村を出たその日の夜。ケンウッドはリリーナに持ちえる全ての金貨、銀貨と封がされている書状を渡した。
「リリーナは逃げなさい。村を出てこの書状をエスペランス家の人間に渡しなさい。きっとお前を助けてくれる。……絶対にこの村に戻ってはいけないよ? いいね?」
「やだ。話が通じないなら全員、倒しちゃえばいい」
「リリーナ。話を聞きなさい。個人の実力だけではどうしようもない事もある。いくらお前が強くてもこの場は逃げなさい。それに私は……お前が人を殺すところを見たくないんだ。わかってくれ」
その言葉にリリーナは一瞬、寂しげな表情を浮かべた後、荷物を纏め夜の森へと姿を消す。ケンウッドはその小さな女神の後ろ姿をいつまでも見つめていた。
しばらく森を進むその時、彼女は感じた。それは火の精霊の揺らぎ。村の方角で炎が大きくはじけ膨張している。
リリーナはその目で見ることもなく村の状況を理解した。襲撃され火が放たれていると。
一瞬、ケンウッドの言葉が脳裏によぎる。しかし彼女は走り出していた。
逃げろと言われていた。頭では走る足を止めないと駄目だと理解していた。しかし、その小柄な体は止まることを知らない。
何故ならその炎の中に……唯一の家族がいるのだから。
村に駆け込んだその時、彼女の瞳に映るのは騎士団に蹂躙される村人と燃え盛る家。そして一人の男の手にする直剣に体を貫かれ、絶命しているケンウッドの姿だった。
男は血のついた直剣を引き抜くとケンウッドの死体を足で踏みつける。
「さっさと渡せば死ななかったものを馬鹿なじじぃだ。しかも村人を逃がそうと一人で立ち向かうとか英雄気取りかよ。おい。小娘がどこかに隠れてないかしらみつぶしに探せ」
早口で周りの騎士に指示する男の視線がリリーナを捉える。その瞬間、彼は悪鬼のごとく口角を上げた。
「いるじゃねぇかよ」
男はケンウッドの動かない骸を蹴とばすと、リリーナににじり寄る。
その光景を見た彼女の中で何かがはじけ飛んだ。心の中に渦を巻く激しい怒りという黒炎。その揺らぎの中から女の声音が聞こえる。
所詮、不完全体は愚かで矮小な存在に過ぎない。そんなゴミが死んだところで何の憂いがある?
美しくも冷酷な声に導かれ、リリーナの魔力が迸る。彼女は当然、理解していない。沸き上がる激情が殺意だということに。
ただ制御ができない強大な力は彼女を殺戮へと誘う。
「ぎぁああああ!」
突然、断末魔の叫び声をあげたかと思うと近くにいた兵士の体が燃え上がる。肉が焦げる臭いが漂い、燃え尽きて黒焦げと化した死体が転がった。
「燃えろ」
リリーナは詠唱すらしていない。ただそう言葉を発しただけだった。
だがその呟きが響くたびに兵士達が燃え上がっていく。それはまるで人そのものが自然発火しているかのようだった。
その光景を見て驚愕し一瞬、目を見開いた男は、咄嗟に直剣の切っ先をリリーナに向ける。その瞳には先ほどの驚きの色はなく冷徹な光が宿っていた。
「てめぇ。人間じゃねぇな。何者だ!?」
ケンウッドの血がついた切っ先を見据えリリーナは動かない。
周辺の炎が彼女の右手に収束していく。凝縮した真紅の炎を浮かび上がらせ、リリーナの体から膨大な魔力が迸った。
それは次第に巨大な両翼の形を成していく。殺意に塗り固められ青白く燃えるサファイアの瞳と魔力が形となった巨大な翼は、見る者にとってまさに怒れる女神の降臨に他ならない。
ビリビリと体を刺し貫く殺意と魔力に恐れおののき、顔面を蒼白とさせた男は叫ぶ。
「何なんだよ。お前、いったい何者なんだ! 七賢者は俺達に……何を殺させようとしてたんだよ! こんな化け物なんて!」
「……死んでケンウッドに詫びろ」
可愛らしい声音とは真逆の、死を伴った冷酷な旋律が紡がれた。
「上位精霊魔法・炎の嵐」
地中から噴き出した複数の巨大な火柱が地面を疾走する。それは瞬く間に周辺の兵士ごと男の体を巻き込み焼き尽くした。
怒れる女神の前に生者はいない。斬殺された村人と焼け焦げた骸。そして動く事がないケンウッドの屍だけだ。
炎の嵐が過ぎ去った後の熱により歪む空間に、黒く変色した騎士団の鎧が転がっている。リリーナのサファイアの瞳がそれを捉えた瞬間、鎧は粉々に砕け散った。
騎士団の紋章など彼女にとって憎悪の対象でしかなかった。家族を殺した騎士団を鏖殺したところでそれが晴れることもない。
そして殺戮の対象は、七賢者へと移っていく。
七賢者とは何だ。自らの大切な者を生きる場所を奪った彼らとは何だ。そんなもの必要ない。
ケンウッドは彼女に殺戮の道など望んではいなかった。
しかしリリーナは彼の意思とは真逆の道を歩む。それは自らを作った神を殺した創生の女神のように冷酷さに満ちている。




