第51話「神が住まう場所」
アフトクラトラス最大の国内紛争は終焉を迎えた。
王国騎士団を支援していた五大貴族の一つ「アイディール」と「コンフィアンス」は、ヴェルデが当主を務めるシュトルツに和解を提示。ヴェルデはそれを承諾した。
王都解放軍が王都アフトクラトラスへたどり着いたその時、何の抵抗もなく城門は開かれた。
国王なき今、王国騎士団に抵抗の意思はなかった。もとより彼らは国王に対する忠誠心など持ち合わせていなかったのかもしれない。
現国王カスティゴはヴェットシュピール戦の後、斬殺死体となって発見された。ヴェルデはその哀れな姿を前にして無言で一礼すると、「丁重に扱え」とだけ短く口にしたという。
彼には先日、姿を消したマリアの経緯から彼女が殺害したであろうと容易に予測できたに違いない。しかしこの件についてヴェルデはこれ以上、口にはしなかった。
マリアが殺そうと戦火に巻き込まれようと、どのみちこの男には死しかなかったのだから。
王宮魔術師ゼーレ・ヴァンデルングの消息は不明である。
彼が研究を進めていた王都の地下室は白日の下にさらされた。大量の魔法筒とそれに収められていたホムンクルス達は、転生者という存在は、所詮、幻想にすぎなかったことを人々に知らしめた。
唯一、生存したホムンクルス……鏡 鳴落の行方は掴めていない。
戦争は終結した。マリア率いる「紫の薔薇騎士団」にもようやく平穏の時が訪れた。
しかし、ただ一人だけ慌ただしく駆け回り、声を張り上げる人間がいた。
美しい黒髪を揺らし、魅力的な肢体を動かしながらある人物を探し続ける麗しき副官、シオン・イティネルである。
「隊長! マリア隊長! いったいどこーーーーー!?」
どこまでも広がる蒼穹の下、風が吹き抜ける。巨大な黒き翼が大空を羽ばたいていた。
艶のある黒い毛に覆われた体は、目元のみ白い毛が混ざっている。つぶらな瞳にオレンジ色の嘴を携え空を駆る黒鳥だ。
その背には二人の人物が腰を下ろしていた。
紫色のセミロングの髪を風になびかせた少女と、空色の髪を揺らす少女……のような男である。マリア・デスサイズと鏡 鳴落だった。
カスティゴを殺害した後、マリアの目の前に鏡は姿を現した。
そして彼はこう口にしたのだ。……神に会ってみたいと。
「……まさか巨大なムクドリに乗って神に会いに行くとは思いませんでした」
「あんたの世界にもこんな鳥がいるの?」
「います。ここまで大きくはないですが。……名前はあるんですか?」
「王よ。でも名前以外、私もよく知らないわ。いつの間にか女神の遺産に住み着いていたのよ」
マリアの声に返事をするかのように黒鳥の嘴が動く。「よろしくだう」と短く声を出す鳥の柔らかな羽毛を撫で、鏡は微笑んだ。
その瞬間、彼を襲うのは全身を駆け巡る重く響く痛み。体の奥底から何かが飛び出す感覚を感じ、鏡は口元へ手を添えた。
広がるのは血の味。添えた手が鮮血に濡れるのを見て、鏡は悟った。
もう自分に残されている時間は少ないのだと。
見渡す限り広がるのは銀色の大地。
空に浮かぶはずの太陽の存在は消え、しかし大地は光に溢れている。銀色に発光しているわけではなく空が、いや空間そのものが光を帯びているかのようだった。
そして突如、光が消失し闇が訪れる。なんの前触れもなく暗闇に閉ざされ、そしてまた唐突に光が溢れる。
闇と光が交互に繰り返される異質な空間。温かさと冷たさの極端な二面性を持つ世界。
神が住まう場所。「女神の遺産」である。
その空間に浮かぶ空中庭園にマリアと鏡は舞い降りた。
周辺は花に囲まれ、小鳥が彼らを歓迎するかのようにさえずり奏でる。柔らかな草の絨毯が広がる中、マリアと鏡はゆっくりと奥に鎮座する白い遺跡へと入っていった。
巨大な木の根元にあるそれは、大理石のように磨かれた美しい外壁を有している。鏡はぽっかりと空いた入り口へ視線を移した。
広がるのは闇。生き物の気配もない無機質な空間だ。足を踏み入れるかどうか一瞬、戸惑ったかのように立ち止まる鏡を一瞥し、マリアは構う事無く闇へと突き進んでいく。
かろうじて彼女の後姿を確認できる視界の中、マリア達がたどり着いた場所は光に溢れた広い空間だった。
空はまるでそこに太陽があるかのように輝き、周囲を照らしている。鏡には遺跡の奥にこれほど広い場所があることも驚きであったことだろう。
だが大きく見開いたアメジストの瞳は、別の存在を見つめていた。彼が見たこともないほど巨大なモノ。視線を釘づけにしてやまないそれは白銀の鱗に覆われた巨躯を持つ竜だった。
頭から左右に別れた四本の角。上半身は人間の女性のようにふくよかな乳房を携え、下半身からは竜の体型を思わせる太い脚が大地に根付いている。
長い首からは小さな二枚の翼。人型の上半身からは一際大きな翼が生え、しなった長い尻尾が地に寝そべっていた。
竜の頭で輝く金色の瞳がマリア達へ向けられる。
「ひさしぶりね。監視者」
神の遺産と呼ばれる竜の完成体。世界の監視者である。
ゆっくりと歩み寄るマリアを見据え、監視者は身動き一つしない。しかし、響くような女に似た声音が周辺の空気と共鳴するように、マリアと鏡を揺さぶる。
それは、監視者が発する声ではない。彼女の言葉が直接、二人の頭脳に響いているものだった。
『……何の真似だ? そのような下等な人形をこの地へ連れてくるなど!』
「こいつが神を見たいっていうのよ。だから連れてきた」
『理由などどうでもいい。何故、この神聖な地を人形の汚らしい脚で汚したのかと聞いている! 即刻、立ち去れ! さもなくばその死にぞこないの人形を肉片に変えてやる!』
竜の怒りの咆哮が凄まじい圧力を伴って鏡達を揺さぶった。
鏡にとってそれはまさに神の怒りに触れたに等しい。目の前に鎮座する巨躯にしてみれば鏡など矮小な存在に過ぎない。抵抗も命乞いも無意味だ。
震えあがるほどの恐怖が全身を駆け巡るであろう鏡を一瞥し、マリアは構うことなく紅玉で監視者を見据える。
まるでそれは、竜の咆哮をそよ風か何かと感じているかのように。彼女の表情に微塵の恐怖も感じられない。
「うるさいわね。あんた忘れてない? この場所は本来、ゴミなんぞ足を踏み入れることすらできない。それじゃどうしてこの人形がここにいるのかしら?」
腹底に響く波動が鳴りを潜めた。
『……まさか。あの方が許されたというのか』
「そうでしょ? くそったれ女神?」
その瞬間だった。
マリアの声に呼応するかのように、奥から何者かが来る足音が床を打つ。それと同時にすべての音がピタリと止まった。
訪れる静寂。そして「彼女」の存在を認識した途端、監視者は頭を垂れた。
マリアと鏡の視界に映るもの。それは……一人の少女だった。