第25話「少女マリア」
アフトクラトラスは気候が温暖で雪が降らない国だ。
太陽が頂点に達する昼間ともなれば、日によっては蒸し暑い空気に包まれる。この日も例外はなくマリアとシオンは、水路の脇に腰を下ろし水の中に素足を入れて涼んでいた。
清らかな水にマリアとシオンの美しい顔が浮かび上がる。それを見つめながらマリアはトマトをかじりながら唐突に自らの過去を語り始めた。
シオンは驚くこともなく静かに聞いていた。彼女はその行動の裏には、自分が必要な存在なのだというマリアからのメッセージが込められているのだと理解していたのかもしれない。
シュトルツ領に存在する農村「トリステス」に「マリア」という名を持つ少女が住んでいた。
彼女は美しい容姿に加え、アフトクラトラスでは珍しい紫色の髪を携えていた。マリアの両親は決して裕福ではなかったが病弱な娘を愛し、可憐なドレスと髪飾りを与え慈しんだ。
国王カスティゴが政権を握ってからというもの平民からの税は年々、増加の一途を辿っていた。
重税に次ぐ重税に国民は悲鳴を上げ、それはマリアの家庭も同様だった。彼女の着るドレスも両親が少ない貯蓄から捻出したものだ。マリアに笑顔を見せるものの、その裏では満足に食事もとれず苦しい生活が続いていた。
マリアが十四歳になったある日。彼女は奇妙な女と出会う。
赤紫の長い髪に全身を動きやすい皮鎧で包む若い女だ。黒いフードとマントを羽織り、その顔には血のように赤い瞳が輝いていた。
トリステスはシュトルツの端にある言わば田舎だ。宿泊施設は一つしかなく、その女はそこで寝泊まりするわけでもなく、村の隅にある馬小屋で馬と共に寝ていた。
「ねぇ。旅人さん。どうして宿をとらないの? お金がないの?」
子供ゆえの好奇心か。マリアは彼女に近づき声をかけた。女は邪険に扱うこともせず、藁の上に寝ころびながらマリアを一瞥した。
「金がないわけじゃないわ。必要ないからよ。せいぜい雨風が凌げればそれで充分。ここもたまたま立ち寄っただけよ。すぐにいなくなるわ」
「ねぇ。旅人さん。名前はなんていうの?」
「マリアンヌ」
「わぁ。私の名前と似てるね。私はマリアよ」
「いい名じゃない」
「そうでしょ? 自慢の名前なの。……あっと。そろそろ戻らなきゃ」
馬小屋の窓からは赤い光が差し込んでいる。
マリアは立ち上がると馬小屋の扉へと歩いていった。そして、何を思ったか急にマリアンヌの方へ振り向く。
「ねぇ旅人さん。ここにいる間、遊びに来てもいいかな?」
「物好きね。まぁ暇だから別にいいわ」
彼女の言葉に可憐な笑顔を見せると、マリアは馬小屋から姿を消した。
訪れる静寂。だがそれを切り裂いたのは直接、「脳裏に響く女の声」だった。
『プリメーラ。相変わらず目的も持たず旅を続けているのか』
「今はマリアンヌよ。世界の監視者。何用かしら?」
『何故、そこまで人の世界を見て回る?』
「別に。女神の遺産よりは居心地いいし。あんなくそったれ女神の顔なんて拝みたくはないわ」
マリアンヌはそこまで口にすると目を開けた。
宝石のような赤い瞳は、まるで見えない何かを凝視するかのように一点を見つめ、鋭い眼光を放つ。
「しかしあんたも大変ね。世界を監視する。それは間違いではないけど、真に監視するべき相手は私なんでしょう? あの女神が人間世界なんざ監視するわけないものね」
『ただの憶測にすぎないな。それに私が世界を監視するのは私の意思でもある。ただお前を監視しているのは間違いではない。何故ならお前は……神をも殺せる刃を持っているからだ』
「それを渡したのは、その神たる女神なんだけど?」
『私にはわからない。なぜあの方はお前に神殺しの刃を与えたのか』
「私には何となくわかるわ。たぶん女神シルフィリアは……私に自分を殺して欲しいのよ」
『馬鹿な! 戯言にも程があるぞ! プリメーラ!』
常に冷静を装っている監視者にしては珍しく怒気を含んだ声音が響く。それ以降、彼女の言葉は何も聞こえなくなった。
豹変した監視者がさも愉快だったのか、マリアンヌは口元を歪ませた。
「やっとゆっくり眠れるわ」
翌日からマリアは度々、マリアンヌの元を訪れた。
マリアはこの村とその周辺以外に外出したことはほとんどなかった。それゆえ彼女は自らが知らぬ世界へ興味を抱いた。
そんな彼女にとってマリアンヌが語る「外の世界」の話は、英雄譚のごとく耳に響いたことだろう。マリアンヌも自分のくだらない話を目を輝かせながら聞く彼女に、悪い思いは抱いていなかったようだ。
すぐにいなくなる。そう言いながらもマリアンヌは馬小屋から動くことはなかった。それはマリアに会うためだったのか。それともこれから起こる惨劇を予想していたのかも知れない。
ある日。トリステスにある男が足を踏み入れた。
よろよろとふらつく体で村を彷徨い、ついには力尽きたように倒れた男は全身、傷だらけだった。原因は定かではないが不憫に思った村人達は彼の傷の手当をし、唯一ある宿にて休ませた。
マリアはその男の話をマリアンヌに聞かせた。すると彼女は、常に貼りつかせていた微笑みを消し去り起き上がる。
「……血の臭い。死の臭い。あの男。……何かを憑けてきたな」
「旅人さん。それってなぁに?」
「……絶望よ。そしてそれはこの村中に行きわたる」
数日後、マリアンヌのこの言葉は現実となった。
程なくしてトリステスの村は襲撃される。王国騎士団にだ。逃げ込んだ男は元騎士団の人間で、カスティゴの玉座を覆すべく革命を画策していたのだ。
村人の一人が離れた場所にある大きな街で、たまたまこの男のことを張り紙で知っていた。彼は金をもらうことを条件に情報を流したのだ。
その代価はまさに村人全員の命を金で売ったようなものだった。カスティゴの旗の元、騎士団は暴虐の限りを尽くした。かばう村人を斬殺し、あぶり出すために村へ火を放った。マリアの両親は焼け焦げ死んだ。
馬小屋を飛び出したマリアは、血に濡れた村人達と慣れ親しんだ風景が業火に燃える光景に愕然とする。
彼女の目の前で両親は物言わぬ焼け焦げた焼死体と化し、仲の良かった隣に住む女の子は胴体を真っ二つに切断されて転がっていた。
よろよろと彷徨うマリアの足が何かにつまづく。転んで見上げたその瞳に映るものは、傷を負っていたあの男の首だった。
声にならない悲鳴をあげ立ち上がった瞬間、彼女の体に剣閃が走る。近づいた騎士がマリアの腹部を切り裂いたのだ。
痛みなどなかった。
ただ体が冷たくなることだけを感じながら、マリアの目には絶望が映っていた。それを嘲笑うかのように血に濡れたカスティゴの旗が風になびいていた。
旗を見据えるマリアの脳裏に去来するもの。それは絶望を押しのける悲しみと……得体の知れない闇だった。
「……その瞳の奥にあるものは憎悪か?」
マリアを真紅の瞳が見下ろしていた。
彼女は地面をはいずりながら、大きく見開いた目で口から血を吐き出し呪詛のような言葉を紡ぐ。
「みんな死んじゃった。お父さんもお母さんもあの人も。私は許さない。あの騎士もこの国の王様も!」
「そう。ならば全てを委ねなさい。そうすれば……あなたの憎悪、叶えてあげてもいいわ」
マリアンヌの言葉にマリアは頷くと手を伸ばし、彼女の足を掴んだ。
「すべて……なくして」
その後、火に包まれた農村に元は人間だった何かが転がっていた。
首だけのもの。胴体を真っ二つにされたもの。それら全ては人の原型を留めていなかった。
巨大な刀身による一刀両断。それにより村を襲撃した全ての騎士が切り裂かれ絶命したなれの果てだった。
周囲が火により赤く煌めく中、大鎌を持つ紫のドレスで着飾った少女が立っている。
その瞳は血のように赤く輝いていた。