第17話「アフトクラトラスでもっとも平和な日」
燦燦と照り付ける太陽からの日差しにより、大地が揺らぐ昼下がり。
シュトルツ領内に建築された王都解放軍の兵舎内に女の悲鳴が響き渡った。木目が彩られた板張りの部屋でシオンが床に倒れている。それを見下し木刀を肩で遊んでいるのはマリアだ。
彼女の後方ではいつでも座れるようにチェアーマンが四つん這いで控えている。もちろん上半身は例に漏れず裸だ。
マリアの木刀の一撃を浴び、床にのびているシオンに彼女は冷ややかな瞳を向ける。
「……ゲハイムニス戦で兵士を二人倒したという話は作り話だったのかしら?」
「おかしいですなぁ。我の見間違いであったか……」
紅玉とアーメットの視線が刺さる中、シオンはよろよろと立ち上がった。
「ほんとですってば! こうズバーッと!」
「嘘くせぇ」
「隊長ぉぉぉぉ!?」
緩慢な動きでゲハイムニスでの兵士との一戦を実演してみせるシオンに、マリアの容赦ない一言が突き刺さる。
険しい表情を浮かべ、「もう一戦、お願いします!」と木刀を握りなおすシオンに、マリアは微笑んだ。
その瞬間、彼女の姿が視界から消える。シオンの視覚では捉えられないその動きは、まさに雷鳴のごとく一瞬で距離を詰めた。
電光石火の一閃。シオンの目に軌跡が走ったと同時に彼女の握る木刀が真っ二つに分断された。切っ先が床に落ちた音と同時にマリアの木刀がシオンの脳天をコツンと打つ。
シオンは切っ先のない木刀を構えたまま動く事すらできなかった。
「雑魚が雑魚に勝っただけのこと。所詮、お前はこの程度よ。精進するのね」
マリアは肩で木刀を遊びながら部屋から姿を消した。
その瞬間、シオンは力が抜け床にへたり込む。そしてごろっと仰向けに寝そべった。
「……隊長の木刀。鉄でできてるんですか……」
「膂力。速さ。鋭さ。全てを極めた者の一撃である。我には到底、たどり着けない境地であるなぁ」
いつの間にか彼女の傍らに立っていたチェアーマンが短くつぶやいた。シオンはそんな彼に視線を向けることなく、天井を見つめたまま語り掛ける。
「ねぇチェアーマン。あなた隊長と戦ったことある?」
「あります。木刀ではありましたが本気で」
「結果は?」
上半身を起こし興味深そうにアーメットを見つめるシオンに、チェアーマンはくるりと背中を向けると扉へ歩き始めた。
「副官殿と同じです。動く事かなわず木刀を叩き切られました。その直前にあの方から全てが消えた。あの暴君の気配も笑みも何もかも。そこにあったのは無でした。ただ剣閃だけが煌めく世界です」
扉の取っ手を握ると同時に彼の動きが止まる。
「あの剣戟の前に人間など成す術がありません」
パタンと扉が閉まる音と共にシオンの視界からチェアーマンの姿が消え去った。一人取り残された彼女はため息をつくと、何気なく板張りの壁を見つめる。
そこには一枚の張り紙があった。
本日、アフトクラトラス王国誕生祭。
建国を祝う記念日。すべての戦闘行為を禁止する……と。
シオンはしばらく茫然と張り紙を眺めた後、おもむろに真っ二つに分断された木刀へ視線を落とした。
「……模擬戦って戦闘行為になるのかな?」
アフトクラトラスは温暖な気候に恵まれている。
特に建国記念日は、一年を通じてもっとも暑くなる時期である。この日もまるで刺さるかのように強烈な日差しが降り注いでいた。
シオンはそんな暑さを凌ぐため、涼を取る水場として人気の高い水の都「キュール」に足を運んだ。
煉瓦造りの街並みに隣接する山の麓からは、冷水が流れ込みキュールの水路を伝っている。水場はその水をため込み水浴びをする施設だ。
男性用と女性用に分かれている水場で、シオンは濡れてもいい薄着で水の中を漂っていた。外の暑さを洗い流すかのように、ひんやりと肌を覆う冷たさに体中の熱気が抜けていく。
水から上がり彼女はゆっくりと水場の周辺を歩き始めた。濡れた薄着からはシオンの魅力的な肢体が透けて見え、水滴を弾くかのようなきめ細やかな肌は同じ女性であっても目を引く。
彼女は濡れた髪に櫛を通すと水気をきり、常に携帯している大き目の髪留めで長い黒髪を纏めた。その時、シオンのトパーズの瞳がある二人組を捉えた。
赤毛のポニーテールを揺らす少女と青髪に眼鏡をつけた小柄な姿。転生者である情島 朱莉と望 結愛である。
三人の視線が交錯したと同時にお互いの体が石のように硬直する。「あっ」という短く発せられたシオンの言葉を皮切りに、最初に動いたのは朱莉だ。
水場には当然、武器など持ち込んでいない。彼女は殴りかからんと拳を握り目の前で構える。それに反応するかのように、シオンもまた咄嗟にファイティングポーズで迎え撃つ。
「なんでお前がここにいるんだよ!」
「それはこっちのセリフ! ってかや……やるってかっ!? マリア隊長直伝の格闘術を披露してやるわ!」
「おぉいいよ。こちとら喧嘩慣れてんだ! 誰かさんのせいでな!」
言葉通り徒手空拳における格闘には通じているのか、朱莉の体は固さがなく落ち着いている。一方、おそらく見様見真似と思われるシオンは、足元がおぼつかず小刻みに震えていた。その様子はマリアから格闘術を習っているという先の言葉の信憑性に欠ける姿だ。
すっと軸足が出たと同時に飛び出そうとする朱莉。その瞬間、シオンと朱莉の体に冷たい感触が襲いかかる。
それは冷水だ。木の桶に溜めていたそれを結愛が両手で投げつけた結果だった。
「今日は建国記念日です! 戦闘行為は禁止です!」
響き渡る結愛の大声にゆっくりと朱莉とシオンの視線が注がれる。文字通り熱した頭に冷水を浴びせられた朱莉は構えを解くと、「ふん」と鼻を鳴らし水場の隅へと歩いていった。
黄玉の瞳でそれを追うシオンは半ば茫然と立ち尽くしている。その時、結愛が近づき微笑みを浮かべた。
「すみません。少し話をしませんか?」
清らかな水が湛えた石作りの水場から少し離れた場所。そこに設置されている木でできた長椅子に、シオンと結愛は座っていた。
本来、二人は敵同士だ。戦場で会えば殺し合う運命である。だがそれが彼女達の本心とは決して限らない。本人たちの意思を巻き込みすり潰し強引に回転させ、死という演劇を繰り広げさせる巨大な歯車が戦争なのだから。建国記念日とはいえ敵の副官と話をしようとする結愛の友好的な態度がそれを現していた。
しばらく黙り込んでいた結愛は、おもむろに口を開く。
「戦争なんて本当はしたくない」
まごうことなき彼女の本心だった。シオンはその言葉に視線を移すことなく水面を見つめながらうなずく。
「結愛ちゃんとかいったかな? 私もそれは同じ。私も他の騎士もそして転生者達も誰も戦争なんて望んでいない。ただ戦争という巨大な歯車に引き寄せられているだけ」
ゆっくりとそう言葉を紡ぐシオンは顔を上げた。そこには決意がみなぎるがごとく黄玉が光り輝いている。
「だけど私はマリア隊長の副官。だからあの方がいく先ならどこへでもいく。例えそれが血で濡れた道でも。あの人はね。私の憧れなの。あの人の傍にいると私が生きているって実感がわく。誰からも必要とされなかった私を今、傍に置いてくれる唯一の人だから。私なんかはあの人の足元にも及ばないけど……だけど守りたいって思う」
まるでかつての自分を思い出すかのように、少し寂しげな表情を浮かべるシオン。そんな彼女に視線を移すことなく結愛は、「私は……」と小さな声で言葉を紡ぎ始めた。
「私には好きな人がいます。女みたいな見た目だけど優しくて可愛らしくて。私もあなたのようにその人を守りたい。だからこれからもあの人があなた達と戦うというのなら……私もあなた達と戦います」
その言葉を皮切りに静寂が二人を包んだ。張りつめる空気ではなく柔らかな時の流れだ。
しかし唐突に静けさを破り、「でも今日だけは……」とお互い同じ言葉を口にして少し驚き、シオンと結愛は見つめ合い同時に笑った。
お互い敵同士でありながら、同じ志を持つ者が建国記念日という平和な日のみ、戦争という殻から抜け出しわかり合う。それを見て取れる笑顔だ。
「それにね。実は私。あなた達のいた世界に……」
シオンの言葉を切り裂くようにその瞬間、男性用水場から「ぎゃああああ」という男とも女とも聞き取れる中性的な悲鳴が響く。
咄嗟に反応したのは結愛だ。何故ならそれは鏡 鳴落の叫び声だったからである。
「鏡先輩!?」