八月三日之事_____稚日女尊出奔之条
「稚日女尊様、手がお留守になって居られますぞ‼︎」
また、怒られてしまいました。
このお札、朝から何枚書いたのか…書いても書いても無くなりません。
わたくしの通力を込める必要があるそうで誰も代われないそうなのですが せめてもう少し休憩などを挟んで頂けると嬉しいなと…あ、また間違えてしまいました。
わたくしは機織りが本業なのですから本当はそれだけにして欲しいのです。
「あのぅ世話役様、何故にわたくしは機織りをさせて頂けないのでしょう?」
と、幾度もお聞きしましたが「その前にやらねば成らぬ事がー。」と取り付く島も有りません。
わたくしがこちらに分祀されてから随分経つと思うのですよ?
それから一度足りとも梭を触った覚えが無いのです。
今、機織りをしたとしても満足に天の羽衣を織れるのでしょうかね…。
それ以前に、一体何時になれば梭に触れる事を許されるのでしょうか…。
◉
「すずしろ様には、何時も愚痴ばかり聞かせてしまい申し訳有りません。」
たった一柱、わたくしと共に切り株に腰掛け お話とも言えぬ様な愚痴を黙って聞いて下さる摂社の神使様。
わたくしが落ち込んでいると、何時も慰めて下さいます。
大きな笹の葉に包んだ おいなりさまを下さいました。
「……………………………食べて。」ズイ
「まぁ、すずしろ様、本当に、本当に、何時もありがとうございます。 わたくしからも何かお返し出来れば良いのですが…その…自由になるものが…あの…。」
何時も頂くばかりで何も返せない。神格ばかり高く、それでいて何も無い。 空っぽでとても惨めです。
わたくしはこんな気持ちを味わう為だけに分祀されたのでしょうか……。
「……………………いい、要らない。」
そう言ってそっと抱きしめて下さいました。
わたくしの凍りかけ固くなった心が溶ける様です。
「………………………早く。」
抱擁を解き早く食べる様に促される。急がないと世話役様が来てしまう。
「ありがとうございます。 」 はむっ、モグモグ……「美味しいです。」
『ーーーーーーーーーー稚日女尊様ーー ‼︎ 』
身震いするほど恐ろしげな声が遠くから聞こえる。急がねば…。
丁度食べ終わりに世話役様が来られました。
奉納舞のお稽古と森のケモノの陳情の処理と御守りのお祓い清め……。気が重いです。
「稚日女尊様、こちらにおわしましたか。午のお勤めのお時間です‼︎ お急ぎを! 」
「あっ!」
手を曳かれた勢いでよろけてしまい倒れそうになった所を すずしろ様が支えて下さったのですが、その時のすずしろ様の表情は今まで見たこともないほど冷たい、骨の髄まで凍てつきそうな、それでいて煮えた黒鉄の様な空恐ろしいものでした。
そして泥の沼の底の様な瞳で世話役様を凝視されていたのです。
それは一瞬の事の様でも有り、一刻以上もそのままであった様でも有り…。
しかしながら、世話役様はその視線をなんとも涼しげな表情で受け止めておられたのです。
何と言いましょうか、遥か遠い所にある清く美しい泉の水面に落ちる一雫の露を見る様なそういった晴れやかさを湛えた清涼感です。
気がついた時にはすずしろ様は何時もの美しい瞳で優しげのわたくしを見つめ
「………………………………大丈夫。」
と、一言だけ残してなずな様のお社に戻って行かれました。
世話役様はと言いますと、何時もとは違った和らげな表情で 何をか言いたげな風では有りましたが 何も仰られぬままに社の方に戻って往かれました。
………怖かった。
◉
本日より三日間…夏祭です。
本来ならば綿津見様のお祭りなのですが海から遥か遠いこの地には綿津見様の摂社がありません。
世話役様は幾柱ものお供と連れだって活田の森のお社に応援に行かれました。
尤もあちらも鎮守の森は既に無く 海は遥か南になってしまい、お勤め自体はこちらとそう変わらないとの事ですが…。
何故か、活田の宮に行く時の世話役様の背中はとても愉しげに見えます。
天を支え地を均し海を凪ぐ神楽舞を奉納したら 次はお祓いの相伴です。
最近、赴任されて来られた孝蔵様はお祓いが大層お上手なのだとか。しかし、この神域では余り関係無いかも。
「おや? 稚日女尊様、夜見世は周りはらへんのですか?」
あ、孝蔵さんがいらっしゃいました。
「そうですね。もう少し落ち着きましたらすずしろ様と共に参ろうかと…。」
「そうでっかー。よろしいなあ。 ワシも孫女を呼ぼうかと思うてたんですが振られました。」わははは〜。
「あら、残念ですね。ぽこ様には一度お会いしたかったのですが…。」
孝蔵様のお孫さんのお話は何時もとても楽しげで、お会いできたらわたくしも 同じ様な楽しい思いが出来るのでは、と ……図々しい話ですね。
あちらから緋袴の映える真っ白な御姿のすずしろ様が こちらに掛けていらっしゃ……あ、転げた。大丈夫でしょうか?心配です。
「………………………………………痛い。」
いけません。傷を清めなければ…傷口から鬼が入ってしまいます。
手水舎で洗いましょう。
さて、何時も頂くばかりですが本日はお小遣いが有るので気持ちばかりですがお礼が出来ます。
「………………………別に良い。」
と、仰られても聞けません。
「先ずは、すずしろ様の好物、ねずみの天ぷらの屋台です。」
「……………………………………ゴクリ。」
「そうだ、お揃いのお面を買いましょう。 すずしろ様の様な真っ白なおきつね様が良いです。」
「…………………うん。」
「おや? 店主殿、この紅いモノは何です?」
『ーーーーーーーー』
「すずしろ様、新しき人の食べ物で 林檎飴と言うそうです、食べてみませんか?
「…………………食べる。」
「すずしろ様、楽しいですね。」うふふふ
◉
「ここは…………。」
屋台の並ぶ境内からは随分と離れてしまったような。一応はまだ境内地ではあるけれど…。
「すずしろ様、どちらへ行かれるのですか?
「…………………………。」
「あの……。」
「久しいのう、稚日女尊殿?」ふふふふ…
稲荷摂社の主神、なずな様…………すずしろ様のお社様が何故こんな場所に?
暗闇から突然声を掛けられ驚いてしまい声が出ない……。
「ん? どうされたかや? 知らぬ顔でもあるまいにのう。」
摂社とはいえ大きなお社の主神がこんな所で油を売って居て良い訳がない。
「これは なずな様こんばんは、お久しゅうございます。……なずな様こそ こんな所で如何なさったのですか?」
「ふむ…………。 実はすずしろから相談を の。 で 相手の格がそれなりなのでわらわ自ら出向いたのじゃが。」
「すずしろ様が?」
すずしろ様は涙を溜めた様な上目遣いでこちらを見ている。
「…………………。」
「それはわたくしに関係あるのでしょうか?」
「………ふむ。 無いとは言えんの。 だが無くす事も出来る、その様な事じゃ。」
「お聞きしても?」
「構わぬが、他言無用じゃ。更にはこの場にての決断を迫る事になる。」
「もし破れば?」
「すずの立場は悪くなるのう。最悪、神籍剥奪で放逐といった所か。 わらわは使いの者も御せぬと嘲りを受ける。面目は丸つぶれじゃな。」あっはっはっはー。
とても優しげな…母の慈愛を思わせる微笑みを湛えた面差しで語り掛ける。
「稚日女尊様。貴女様は神としての尊厳を一欠片也とも取り戻したくは在ませぬかや?」
「わたくしは………………。」
斯くして 天照大神の幼姿を模った女神は旅立つ