八月二十日之事_____十一話目
「はい、来月頭からですねー、はい……はい。わかりました、それじゃ。」
会社からの仕事への復帰命令の電話だ。
仕事内容などを カレンダーに予定として書き込む。
さあ、困った……非常に困った。
九月頭から現場が始まる………。
いや、仕事をするのが嫌だとか、働いたら負けだとか言ってる訳じゃ無いんだ。
元々が労災休暇 とその余波での休暇 の合わせ技での長期休暇だった。
そもそも全治一カ月なのだから その後の休暇は吐き出す一方。
そろそろ働かねば食っていけない。
給料は働いた分だけ。現場職の会社員の哀しい現実が此処にある。
しかし………情操教育じゃ なんじゃと言った口で、
『働きに行くからお留守番お願いねー。』とか、
『今日遅くなるから晩御飯勝手にたべてねー。」とか、
『朝早出だから先行くねー朝は各自勝手によろしくー。』とか。
簡単に言えるか? って話ですよ。
「こんな事誰にも言えない…………が、相談しない訳にもなー。」
ついぞ溜息の一つも溢れると言うものだ。
「お兄ちゃん、嘆息すると幸せが逃げると言いますよ? お茶でも淹れましょう。」
いつの間にか背後に笑顔の稚日が居た。
◆
「そんな訳で 働きに出る事になる。稚日達の面倒を今までみたいに見られなくなるんだ。」
「そんな事でしたか…。」
お茶を啜りながら 稚日が返す。
「お兄ちゃんが わたくし達を養って下さると言うのです。別段、今生の別れという事も無し。ぽこやすずも解ってくれます。」
稚日は数日前からぽこすずを呼び捨てにする様になった。
理由は聞いていないが 言動の端々に二人を庇護しようとする姿勢が見て取れるので 決して悪い事では無いと思う。
「賄い方もそれなりに熟せる様になりましたし、御家の事はお任せ下さいませ。」
稚日から心強い台詞が聞けてほっとした。外見小学生なのに 何とも頼もしいな。
お陰でお茶も美味い。
「ただいまー。」
丁度そこにぽことすずが帰ってきた。幾匹か笹の枝に鮒がぶら下がっている。
「ちちうえ〜。」「ぐっ‼︎」
すずのタックルを受けた後ろから
「あー!すずちゃんずっこい! とうちゃ〜ん!」
最近なにかとすずに張り合う様になったぽこが飛んでくる。
「ぐはあっ‼︎」
なかなか肋骨が治らない。 いや、骨は一度着いたので完治と言う扱いなのだ。
しかし
「まあ、今夜は鮒の飴煮にしましょう。」稚日はご機嫌だ。
「あ、お兄ちゃん。」「ん?」
いつもより一段上の素敵な笑顔で一切心当たりの無い処に釘を刺される。
「無いとは思いますが……他所の女性の元に通おうなどと言う事はゆめゆめ思われませぬ様に…。宜しいですね、お兄ちゃん?」
あなた 確か妹枠でしたよね? などとは口が裂けても言えない雰囲気である。
何故、こんな事言われるのか。心外ではあるが ここは「ハイっ!」と気持ち良く返事をしておく。
◆
夕刻……氷を浮かべたお薄を飲みつつ「あと、二週間弱でこの のんびりとした生活も終わりか」と感慨に耽っていると、開け放ったクレ縁の向こうで ぽことすずが虫網を振り回してトンボを追い回している。
「待て〜!」「…………。」
ぽこが網をブンブン振りながら走る。その後ろを脇構えに網持て付いて行くすず。
なんか普段のノリが まんま出ていてちょっと笑ってしまう。
その刹那、神速でぽこを追い越したすずがそのまま…一閃という言葉が相応しい動きで網を振るう。
ぽこも何が起こったか分かってないだろう。動きを止めて言葉も無く すずを見ている。
俺だって 偶々離れて見ていたから分かるのであって、すぐそばでいきなりアレを出されたら 何が起きたか分からなかっただろう。
すずはと言うと 地面に置かれた網から ぱさささ…とトンボの羽音がしているところに駆け寄り 網を弄っている。
トンボらしきものを網から取り出したので虫かごに入れるかと思いきや、そのまますずも固まってしまった。
余りに動かないので心配になり 縁側から降りて傍に寄る。
手に持つトンボの頭が無くなっている…網捌きが速過ぎたんだろう、ままある事だ。
「……………可哀想。」
頭を撫でてやる。
「せやなー。」
まあ、虫捕り網ぶん回して虫を捕まえてるのに可哀想も何も無いのだが こういう些細な事で生命を学ぶのは子供には必要な事だ。
何か思う所が有ったのだろう。その夜、すずの虫かごは空になっていた。
夕餉の食卓でぽこが衝撃発言。
「すずちゃん、セミ逃がしてしもうたん。セミ パリパリして美味しいのにー。」
平成日本ではセミは食材では無い、セミは食うな。と言い聞かせておく。




