#8 変調
数日間は何事もなく過ぎた。先日の一件についてミオは誰にも何も語らず、オサキも護衛につけた手下が戻らなかったことは不審に思っただろうが、ミオに問いただすことはしなかった。この街では、人が突然いなくなるなどありふれたことだったのである。
だがミオの表情は日に日に暗く、気遣わしげになっていった。そんなミオを、ヨウの三弦が夜ごとに慰めた。
その日、祈祷の礼を述べて帰る客と入れ違いに、オサキがひとりでやってきた。ヨウはミオの遣いでたまさか留守にしていたが、客人、それも日頃世話になっている上得意を無碍にあつかう理由もなく、ミオはオサキを庵に招き入れた。
「おや、あの乞食の姿が見えんようですが」
ミオはほんの少し不快の滲んだ声で言った。
「あのひとは乞食ではありません」
「ああ、音曲師でしたな。しかしどっちも似たようなもんでしょう」
オサキは気にかける風もなく応えた。
「ちょうどいい。ミオさん、あんたには前から言おうと思っていたんだ」
思わず身構えたミオに、オサキは下卑た笑顔に猫なで声で言った。
「こんな庵は引き払ってうちにおいでなさい。わしならあんたのために立派な社を作ってやれるし、身の回りの世話だって、なんぼでも下人をつけてやれますぞ」
実のところ、オサキがミオに対し「自分の許へ来い」というのは、これが初めてのことではなかった。だがこれまでは、断れば大人しく引き下がったのである。
今回は違った。オサキはミオにその脂ぎった顔を近づけ、舌舐めずりせんばかりに続けた。
「なんなら祈祷や祭祀なんぞも、もうやらんでもええんですぞ。わしの屋敷で、きれいに着飾って美味いものを食っておればええ」
「そうした暮らしを、私は望んでおりません」
オサキの様子に肝の冷える思いをしながら、ミオはそれのみを答えた。オサキの目には獣じみた情動がぎらぎらと輝き、とても正視できない。
「あんな乞食と一緒では、あんたに瑕がつく」
ついにオサキがミオの手を掴み、ミオは小さく悲鳴を上げた。杖が音を立てて床に転がり、オサキは倒れそうになったミオを抱えるとそのまま寝台へと抑えつけた。
「あんたは本当にいい女だ。前からあんたが欲しかったんだア」
言いながらオサキはミオの服に手をかけ、それをはぎ取ろうとした。ミオは抗ったが、オサキの力の前には無力だった。
上衣がむしり取られ、肌が露わになる。オサキのゆるんだ顎からよだれが滴った。
「あんたアわア、わしのものオ──」
その時。
襟首を掴まれ引きずり倒されて、オサキは無様に床に転がった。続けて打ちかかる杖を、オサキはすんでのところで避けた。
「何しやがる!」
振り返ったその目に先ほどまでの獣じみた光は失せ、ただ怒りが渦巻いている。だがもとより視えぬヨウは全く頓着しなかった。ヨウは杖をふるい、オサキを戸口へと追い立てた。
「てめえ、わしを誰だと──」
オサキの手が腰に差した長物に伸びる。その手を杖がしたたかに打った。
ミオの声が響いた。
「おじさん、やめて!」
ヨウの手が止まる。ミオは続けて叫んだ。
「帰ってください、頭を冷やして……!」
ヨウに文字通り叩き出され、おぼえてやがれ、の捨て台詞を残してオサキは去った。
「巫女さま、怪我は──」
「大丈夫……」
ミオは破れた上衣をかき合わせながら気丈に答えた。だが声は震え、差し伸べたヨウの腕に縋ったその手も震えている。
「……ごめんなさい……、しばらく、こうしていて……」
ミオはヨウの袖を握りしめると、その胸に顔を埋めるようにした。ヨウはためらったが、華奢なその背中におずおずと腕を回した。
「なにやら胸騒ぎがして……、すみません、もう少し早く戻っていれば……」
「……いいの。おじさんが悪いんじゃない……」
「────」
くぐもったその声は涙声だった。
すみません……、と、ヨウは小さくまた繰り返した。ヨウは気づかなかったのだ。ミオの涙の本当の訳に──。
つましい夕餉が終わってもふたりは無言だった。ミオの髪が濡れているのは、オサキに触れられた身体を浄めるため、日が暮れる前に秘密の海辺で沐浴してきたせいだ。
ミオを背負子で負い、ヨウが階段を下りた。その時も庵に戻るときも、ふたりは言葉を交わさなかった。
「どうぞ……」
と、ヨウが茶を差し出した。ありがとう、と受け取ると、ややあってミオが訊ねた。
「……おじさんも、感じてる……?」
ヨウは答えない。だがミオは湯飲みに目を落としたまま続けた。
「オサキは、前から強引なところはあったけど、……でも、あんな風ではなかったの。あんな……、無理やり手籠めにするような──」
かたかたと湯飲みが鳴った。
「巫女さま──」
「街が──」
気遣わしげに身を乗り出したヨウに、ミオは顔を覆うと言った。
「街がざわめきはじめている……。こんなことになるなんて──」
「この街は、いったい……」
「この街は夜の街。月の光を浴びて、この街が本当の姿を現す──」
ヨウの問いに、ミオは低く語り始めた──。