#4 美魚
翌日、早いうちに目覚めた男は、室内の空気が動いているのに気がついた。潮の匂いがいつにもまして濃く、ミオの気配はなかった。飛び起きた男は傍らの杖を引き寄せ辺りをうかがったが、変事があった風でもなく、室内の気は穏やかだった。
立ち上がった男はそれでも用心深くミオを探していたが、水盤の後ろの、常には閉まっている扉が開いているのに気がつき、そこから外へと出た。
肌に感じる陽射しと波涛の砕ける音に、男はそこが壁の外──すなわち海──であることを知った。足元に小さく穿たれた階段があったので、男はそろそろと海辺へと降りた。
海辺は磯だまりになっていて、階上で聞くより波も穏やかだった。男はミオの気配を探した。
波とは違う水音がし、男は
「巫女さま」
と声をかけた。
水音の主は果たしてミオだった。海の水に身体を浸し、ゆったりとたゆたっていた。内から照り映えるような肌は水面の光を受けていっそうかがやき、濡れた髪もまた、艶やかに真珠のごとき肌を縁取っていた。
ミオは振り向き、いささか驚いた声で言った。
「おじさん……どうして、ここに」
「扉が開いてましたんで」
と言いながら、磯場を波打ち際まで来ようとするのを、ミオは
「待って! あぶないわ」
と押しとどめた。
ミオは薄物ひとつ身につけずにいたが、海から上がるとそのまま男の手を引き、収まりのいい場所に腰を下ろさせた。
「少し待ってて。服を羽織ってくるから」
気配が遠ざかる。男はふうっ、と大きく息を吸った。
心地よい潮風が男の頬をなでる。寄せては返す波の音は、何かの調べのようだった。城壁の中の街のどうにも澱んだ空気とはまるで違う、清浄な気が辺りを満たしていた。
傍らにミオの気配が戻って来た。男は気配の方向に顔を向けた。
「驚いたわ、こんなところに来るなんて……。降りてくるのは大変だったでしょう? おじさん、本当は目が見えるみたい」
男は少し笑った。
「どうも、すみません。潔斎の邪魔をしまして……」
「そんなたいそうなことじゃないの。ただ沐浴してただけ」
ミオも笑った。
「ここは私の秘密の場所なの。他の誰も知らないし、誰も来ない。──おじさん以外は」
そう言って海へと目をやる。ミオの視線の先には、磯の岩礁の中、そこだけが平らかな水面があった。
ミオの庵を訪れたことがある者がこの潮だまりを見たら、気づいたかもしれない。そこにある水盤の舞台が、何を模して作られたかに。だがそこにいるのは、盲いた男だった。
それでも男にも気づいたことがあったらしい。男は
「……もしかして、お部屋の祭壇の水はここから汲んでいるので……」
と、訊ねた。
男が「祭壇」と言ったのは部屋の水盤のことだ。まさしくあの水盤は、ミオがおのが神に祈祷と舞を捧げるための「祭壇」だった。
ミオは微笑み、答えた。
「そうよ。でもきっと、おじさんが考えているような方法じゃない」
怪訝そうな男に、ミオは続けた。
「部屋の床に、小さな井戸を穿ってあるの。そこから釣瓶で汲み上げるしかけ……」
「……ああ。そうなんで」
男も少し笑った。確かに男が考えていた方法ではなかった。男は、もしや、悪い足を引きずって、ミオが手桶で汲み上げているのではないか……、と考えたのだ。
「それは誰にもさせずに私の仕事だったけど、でもやっぱりちょっと大変なの。だからこれからはおじさんにお願いしてもいいかしら」
男は今度こそはっきりと笑顔を見せた。
「ぜひやらせていただきます」
「おじさんとのんびり話してたら身体が乾いてしまった……。少し待っていてね。そろそろ部屋に戻りましょう」
男はふと、この場を去りがたい思いがした。だが黙って頷いた。