#2 御先
陽の上がった往来の片隅では、掃除夫が黙々と石畳を洗っている。どす黒く汚れていた石畳も、今はほぼ綺麗になっていた。往来にもちらほらと人の姿が見えはじめたが、彼らは一様に掃除夫を無視した。
「おはよう、おじさん。少しは眠れたかしら」
鎧戸を開けながら女が訊ねた。
朝の光の中で女はやはり美しかった。幼さを残した面立ちだが、どこか尊い血を思わせる、りんとした品があった。一見黒髪と見えた長く素直に胸の辺りまで垂らした髪は、明るいところでは暗い灰青という、風変わりな色に光った。
大きな瞳も同じ色を持ち、長い睫がいっそうその印象を濃くしている。肌も透き通るようで、そんな女がひとりでこの恐ろしい街にいるのが不思議なくらいだったが、ただ一点、気の毒なのは両手の杖であり、どうやら杖なしではなかなか歩くことも叶わぬ様子だった。
「ええ、そりゃもう……けっこうな寝床をいただいて……」
もぞもぞと起き上がり、男が応えた。
開け放った窓からは朝の陽射しが差し込み、狭い室内の隅々まで光が満ちていた。年若い女の住まいにしてはいささかそっけなく、また質素であったが、それより男の目が見えていたら訝しく思ったに違いないのが、戸口から一番遠く、すなわち部屋の一番奥にしつらえられた、水を張った水盤のごとき丸い「舞台」だった。水の表は鏡のように静かで四辺に背の高い燭台を置き、閂がかかったままの木の扉を背にしていた。
杖の音を小さく響かせながら部屋を横切り、女は棚から服を取りだした。
「身に合わないかも知れないけれども、これに着替えて。もう少ししたら世話役のひとが来るから、おじさんの今着ている服は洗ってもらいましょう」
「え、いえ」
男は唐突な申し出に面食らいながら手を振った。
「見ず知らずのお方の部屋で、いつまでもお世話になるわけにもまいりません。わっしはもう出て行きますんで……」
女が男の言葉をさえぎった。
「ここを出てどこへ? 夜がまたくるわ」
「…………」
「これもきっと何かの縁……。次に橋を渡れる日まで、ここにおいてあげる。それに」
女は言葉を切ると、少しの逡巡の後に続けた。
「おじさんには不思議な力がある──私にはわかるの──満月の光の中で狂わずにいたんですもの……。だから……」
「おまえさま」
言いかけた言葉をのみ込み、女が応えた。
「美魚よ。ミオと呼んで」
「……澪さま……。良いお名前だ」
そう言いながらかすかに歪んだ男の表情に、しかしミオは気づかなかったらしい。
ミオは続けて言った。
「おじさんの名前は?」
「わっしには名前などありゃしません。生まれてこのかた、名前など呼ばれたこともない……」
ミオは表情を曇らせた。だが何も言わず、男がもそもそと脱いだぼろを受け取ると、
「おじさん、その目を覆った布も。ずいぶんと汚れているわ」
と言いながら、手を伸ばした。
「もしケガをしているのなら、診てあげる──」
「いけません」
はっきりとした声がそれを拒み、男の手が、布に触れようとしたミオの手を押しとどめた。
「見てはいけない。おまえさまのお目が穢れる」
ミオはかすかに息を呑んだ。しかし何も言わず、その手を戻した。
パンに果物とスープを添えた朝食を済ませ、促されるままに男が着替えてほどなくすると、ミオが言った通り扉を叩く者があった。立ち上がろうとするミオを制し、男が言った。
「わっしが」
用心深い足どりながら、目明きのごとき正確さで戸口まで歩いていくと、男はゆっくりと扉を開けた。
「わっ」
頓狂な声があがった。扉の前に立っていた、若い男が発したのだ。
「なんだおまえ……!」
「そのひとは私の客人です」
続けてあがった、咎めるような声を制してミオが言った。
「旅の芸人でございます」
と、男もしれっと名乗った。
「芸人……? おまえめくらだろう、何の芸ができるってんだ。物乞いか?」
「そのひとは音曲師よ。私の舞の囃子をお願いしたの」
男は内心の驚きを毛ほども見せなかったが、やってきた若い男の方はうろたえて
「あっ……、そうなんで……それは、どうも」
などと口ごもった。
「それで申し訳ないのだけど、身の回りの世話も、このひとの分もお願いね。なにぶんこの通り、目の見えないひとだから」
若い男はいやな顔をしたが、文句は言わず自分の仕事に取りかかった。
一通りのやるべきことをやり終えて、若い男は帰っていった。
「さっきのは……」
「御先の屋敷の若い衆よ。ああした若い衆が、私の面倒を見てくれているの」
男が煎じていった茶を飲みながら、ミオは続けて、オサキというのがこの街の有力者であり実際の支配者であることを教えてくれた。
「その『街の親分』が、なんでおまえさまのお世話を……? 不躾ながら、その」
しかし男は、さすがに口をつぐんだ。代わりにミオと同じ茶をすすった。それには不思議な苦さと甘みがあり、この部屋に蓄えられているのだろう薬湯であることが知れた。
「それよりも、さっきはごめんなさいね。荷物に三弦らしきものが見えたから……とっさに音曲師だなどと」
「いえ」
三弦というのは、文字通りの三弦からなる擦弦楽器である。長い棹の突端に弦軸をとりつけ、もう一方の突端には音を共鳴させるための胴がついている。この胴を股にはさんで固定し、弓で弦を擦って奏でるのである。
そして音曲師とは、往来で、また慶事などに招かれて館や宴席で、音曲を披露する芸人のことであった。芸能に秀でていながら身分は低く、賤民として扱われる人々である。
ミオの目配りに内心驚きながら男は続けた。
「仰る通り、わっしは三弦を弾いて口に糊しております。先の話……」
と、男はいったん言葉を切った。
「おじさん」
「わっしでよかったら、ぜひ勤めさせていただきとうございます」
その時。扉を叩く者があった。
男が立って扉を開ける。そこには先刻の若い男が立っていた。
若い男は男の肩越しから室内を覗き込むようにすると、
「巫女さま、旦那が祈祷を頼みたいと。昼過ぎに伺いますんで、よろしくお願いします」
と言葉を投げ、内には入らずそのまま帰っていった。
「おまえさま……、巫女さまだったんですか……」
男の問いに、ミオは笑って
「ただの祈祷師よ」
と答えた。
だがそれで男にも得心がいった。この薬草と不思議な潮の匂いがこもる小さな部屋は、ミオの庵とでも呼ぶべき空間なのだろう。
「オサキは昼過ぎに来ると言っていた……少し支度を手伝ってね」