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#15 再び、満月の夜

この項には残酷な描写があります。


 東の(かた)、城壁の向こうに赤い月が上った。

 ようやく帰り着いたミオの庵の前で、ヨウは息を吞んだ。

 扉が蹴破られている。辺りには引き裂かれたあやかしの死体がころがり、にも拘わらずそれを踏み越えてあやかしがなお集まろうとしていた。

 それらを蹴散らし踏み込んだ室内でヨウが見たのは、酸鼻な光景だった。祭壇は壊され、いつもは閉まっているその後ろの扉が大きく開け放たれていた。今しも上った月の光が禍々しく室内を照らしている。そこにも累々と死体が重なり、血と肉の匂いが薬草のそれと混じりあい、ひどい匂いとなって辺りに漂っていた。その奥の暗がりから──、


 青い魚の尾が、床に長く伸びていた。


 月の光を受け、鱗が銀色に輝いていた。剥がれ落ちた鱗だろうか、黒い血に汚れた床のそこここも同様に、まるで水晶のかけらをまき散らしたかのように光っている。

 ヨウの闇を見透かす眼が見たもの、それは部屋の隅の暗がりで人魚を貪り食う一匹のあやかしの姿だった。

 もはやどこにも人の(おもかげ)はなかったが、ヨウにはそれがオサキであることがわかった。ヨウの三倍はあろうかという巨躯を折り曲げ、びちゃびちゃと音をたてながら人魚を食っている。全身を覆った金毛は黒く汚れ、鉤爪が哀れな獲物に食い込んでいた。腹を食いちぎられ、白い肌と引き裂かれた薄衣のごときひれを血に染めた人魚のうつろな瞳がヨウに語りかける。

 汝も我の肉を欲するか──、と。

 心臓が一瞬止まり、次には早鐘のように激しく打ち始めた。沸騰した血が全身を逆流し、髪が逆立つ。

 木犀剣がヨウの手を離れ床に落ち、乾いた音を立てた。だがヨウは、それを拾おうともしなかった。びしびしと音を立てて爪が伸び、牙が生え、全身の筋肉が盛り上がった。

 いまや自身も一匹のあやかしと化したヨウは、木の杖へと変わった木犀剣を踏み越えるとオサキに掴みかかった。が、オサキはその図体に似合わぬ敏捷さで身をかわした。

「人魚ワァ、オデェノォ……、モノォ……」

 オサキが吠えた。

「ゴロゥス……!、オマエ……!」

 言うが早いか、オサキは逆にヨウに迫った。鋭い鉤爪がヨウの頬を切り裂く。痛みがいっそう怒りをかきたて、ヨウの視界を赤く染めた。

 扉は開け放たれているにも拘わらず、新たな血の臭いが室内に充満した。狭い室内では動きもままならず、扉から海岸へ出ようとしたオサキをヨウは引きずり倒した。馬乗りになりその喉笛に食らいつこうとしたヨウをオサキが殴り飛ばす。壁に叩きつけられたはずみに、作りつけの棚に残っていた葛籠(つづら)が落ち、中に入っていたミオの衣装、そして鈴輪が、涼やかな音とともに転がり出た。ヨウは我知らずそれを掴み拾った。

 オサキと組み合い、かわす度に、手の中の小さな腕輪がりんりんと鳴る。その音が煮えたぎり荒れ狂っていたヨウの血を鎮めた。木犀剣が再び輝きだす。化生を解き爪も牙も失ったヨウの姿を見、オサキは牙を剥き出して笑ったが、ヨウは剣を拾うとオサキに対峙した。

「おまえはあの時に殺しておくべきだった……」

 オサキを見据え、呻くようにヨウが言った。

「俺が引導を渡してやる……!」

 言葉とは裏腹に、ヨウはすでに血まみれである。勝ち誇ったようにオサキが咆吼し、突進してきた。裂帛の気合とともに木犀剣は白銀の焔を吹き上げ、影が交差する。オサキの首が往来へと転がり出た。首を失ってもなおびくびくと痙攣しながら歩き回ろうとするオサキの心臓に、ヨウは剣を突き立てた。

 ついにオサキが倒れ、ヨウも膝をついた。しかしそれもつかの間、ヨウは泥のように重い身体を再び起こすと、蹴破られた扉を立て、何者も入ってこぬよう木犀剣で()()いした。

 それからヨウは人魚に近づき、傍らに跪いた。腕を伸ばし、血に汚れた髪を撫でる。人魚の唇がかすかに動いた。


 ──おじさん

 ──私を、海へ──


 人魚を抱き上げ、開け放たれた扉から海へと下りる。かつてこの海辺でミオと過ごしたひととき、清浄な空気を吸い込みながらたわいない会話をミオと交わしたあの時の不思議に満たされた気持ちが、しかし今はいっそう深い悲しみとなってヨウの胸に蘇った。

 あれほど禍々しく室内を照らしていた月の光もここでは皓々と清らかに照り映え、磯は不思議な明るさに満ちていた。ヨウは水に入り、人魚の細い手首に鈴輪を嵌めると抱きしめ、それから丸く平らかな岩の上に横たえた。多分そこは常には海の水に覆われているはずだったが、満月の今夜は浅瀬となって、水盤に薄く水を張ったようになっていた。そう、ミオの庵の祭壇のように。誰に教わらずとも、ヨウにももうここが特別な場所であることがわかっていた。

 それからひとり岸辺に戻ったが立ち去りがたく、岩場に座りいつまでも横たわる人魚を見ていた。どれだけそうしていただろうか、気づくと月は中天にあり、その影が丸く人魚の上に落ちている。鏡のように静かな水面に映った月はあたかも舞台を照らす明かりのようであり、人魚の濡れた髪、今は海水に洗われて綺麗になった白い肌や青い鱗も、月の光に煌めいていた。

 やがて満ち始めた潮が、少しずつ人魚を海へと引き戻した。ヨウは人魚の姿が波間に消えても動かずにいたが、ようやくのろのろと立ち上がった。

 後ろ髪を引かれる思いを振り切って踵を返したとき、ぱしゃん、という、波とは違う音がした。思わず振り返ったヨウの眼が捉えたもの、それはかなたの水面に撥ねた小さな影だった──。


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