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殺しは映画館の思い出と共に

作者: 降瀬さとる

俺の座っているのはJ−5の座席だった。

手元にはコーラもポップコーンもない。当たり前だ仕事中なのだから。


ここが、ほとんど毎日通っているうちに割り出した最適な位置取りだった。

ここからなら、定位置なのか、毎回必ずE−10に座るターゲットの後頭部がはっきりと見えたし、全体も見渡せる。そして何より、俺を誘いにやってくる連中に、声をかけられることもない。むしろそれが一番だった。


見ると、今日もまたどこかの男が、ある席に座る女に話しかけ、体よくお持ち帰りしているのが見えた。

それだけではない。至る所で男が女に、男が男に、または女が男に話しかけ、交渉が上手くいくと皆、仲睦まじそうに腕を組みこの場を去って行く。


そう。誰も映画なんて観ていないのだ。


この映画館はそういう特殊な、所謂「発展場」だった。

ここには暗黙のルールがあり、それが座席の番号。女を求めている男はここ。男を求めている男はここ。と、多くの座席にそういった様々な意味が込められていた。だから俺は、それを理解するまでに連日、様々な男女の誘いを根気よく断らなければならなかったが、そうして覚えていき、ようやく手に入れた安息の地がここ、J−5だった。まったく……


〈ねぇ、なんで話してくれないの? 私には話せないことなの?〉


スクリーンの女優が言った。

俺は観るともなしにそれを観ている。

昔は銀幕のスターだったが、今ではどこで何をやっているのかわからない、そういった類の女優だ。

そう思うと映画の世界も華々しいのか、何なのかよくわからなくなってくる。俺はどうしてもそうやって映画の中の世界と現実とをごっちゃにして観てしまうから、余計にそう思われてならなかった。そして、それはきっと正しい映画の観方ではないはずだ。


〈ごめん、仕方がないんだ。君が悪いんじゃない〉

「ごめん、仕方がないんだ。君が悪いんじゃない」


俺はもう覚えてしまった台詞を小声で重ねた。大した筋はないが、やけに持って回った悲しみのある内容だった。しかし、それも何回も見ればじきに悲しみなんて湧かなくなる。それはよく理解できた。


「仕方がない。俺が悪いんじゃない」


俺は前の座席に足を掛け、ポケットからタバコを取り出すと火をつけた。むろん、ここは禁煙だ。なにせ仮にもここは映画館なのだ。喫煙可の映画館なんてない。でも、ここにはそんな野暮なことを言う奴はいなかった。なぜならこの映画館で真剣に映画を観ている人間はたぶん俺と、そしてターゲットの男くらいのものだったろうから。

だから、いつもこの映画館は、薄紫色の煙で霞がかかったようだった。もちろん、これだって誰も文句も言わない。


「ふーっ」


俺はこの場の流儀に従い、タバコの煙を吐き出す。そして、そんな場末のシケた映画館でもう何回観たかわからない古い映画をぼーっと眺めている。思うことはただひとつ、


「いったい、どこが良いんだかな……この映画の……」


ということだけだった。


 ○


俺がその女性から仕事の依頼を受けたのは先々週の金曜日だった。


その日、俺は通常営業である大手ゼネコン本社ビルの窓清掃を終え、クタクタになって事務所に帰って来たところだった。事務所といってもカッコいいものではない。従業員も俺一人である。

都会の海際の汚い街の、その中でも特に汚い6階建て雑居ビルの6階。窓から少しだけ海が見えるところと、家賃がバカみたいに安いことだけが取り柄で、俺はそこが気に入ってここに決めたのだ。


ステンレス製のちゃちいドアの表には、プラスチックの表札が貼り付けてあり、そこには

「掃除屋・猫の手」

と書かれている。

それが俺の屋号だ。ちなみに調べれば職業別電話帳にもちゃんとここの名前と電話番号も載っていて、時々そちらを介して電話がかかってくることもある。そういった場合は大体個人依頼が多くて、いついつに掃除に来て欲しいだとか、夏になる前にエアコンの清掃をして欲しいんだけどとか、息子の部屋がゴミ屋敷状態だからなんとかして欲しいとか、まぁ色々な依頼がある。

もちろん、どんな依頼でも電話を貰えば、俺はスケジュールを調整して伺う。実際にルート営業だけでは毎月カツカツなのだ。だから、正直そういった電話依頼はありがたい。時々、どうしてもスケジュールが合わない時などあると、本当に悔しくて地団駄を踏むほどだ。


だから、俺は事務所に帰ったらまず、何はともあれ留守番電話をチェックする。

一人でやっているので、事務所を空けていることが多いから、留守電は必須なのだ。


まぁ、でも、留守電が入っていて仕事に繋がることなど月に一回あるかないかだった。よっぽど評判の業者でもない限り、すぐに電話に出ないとなれば、待たずに他の業者を探してしまうのは、依頼者側からすると当然の感情だからだ。とくに日本人はせっかちであるから余計だ。


というわけで、その日も俺はあまり期待せずに留守電の再生ボタンを押し、着替えを始めた。作業着は向こうで脱いできたが、ここに帰ってくるまででシャツがベタベタになってしまったのだ。きっと湿った潮風のせいだ。そして、そのシャツを脱ぎ、事務所のタンスからTシャツを取り出そうとしていると留守電が


「メッセージは3件です」


と言った。

その声に俺は「ん?」となる。


俺は疑いの目で電話機を見た。


それは喜んでいい兆しではなかったのだ。なぜなら今まで、そんなにメッセージが残されていることなんて一度もなかったからだ。俺はシャツをかぶり、聞き耳を立てる。



「1件目、今日、午前11時53分。………」



「2件目、今日、午後14時11分。………」



「3件目、今日、午後15時25分。………掃除の時間です。……こう言えば、お分かりでしょうか?人づてに聞いたのでわかりません。でも、もう一度言います。掃除の時間です。掃除の時間です。……すいません、またかけ直します」


再生が終わった。


その録音された声からして、その声の主は高齢の女性だと思われた。

そして、メッセージはそれだけ。


しかし、俺にはそれだけで十分だった。


仕事だ。


それも久しぶりの本業の。いや、今となっては副業か?


俺は下もジーパンに履き替えると、冷蔵庫から缶ビールを取り出し、プルを開けてゴクゴクと飲んだ。そして、ひと心地つきボロボロのソファに体を預ける。テーブルの上にはまだ手もつけていない今朝の新聞が転がっていた。俺はそれを取り、広げる。そして、同じくテーブルの上に散乱している落花生をいくつか取り、殻を剥き食べた。ビールはもう半分以上減っていた。新聞には今日も、日本の景気が上向いていると、嘘か本当かもわからないような記事がデカデカと載っている。でも、俺はそんな新聞が嫌いではなかった。少なくとも、ネガティブなことばかり書かれるよりはずっといい。問題はそれを真面目に捉えるか、冗談として見るかだ。むろん俺は真面目に捉えている。


三十分ばかり俺は新聞と戯れた。


「とにかく、新聞は読め。今後もこの仕事をしていくのなら」


そう俺に教えてくれたのは、先輩だった。でも、その先輩はそれ以外、何一つ俺に教えてはくれないまま、10年前に死んだ。


なかなか呆気ないものだった。

俺が殺したのだ。


そのせいなのか、俺は今でもきちんと教えを守って毎日、新聞を読んでいる。そして、新聞を読む度に先輩のことを思い出す。

そういえば、もうそろそろ自分もあの頃の先輩と同じくらいの年齢になるのではないだろうか?

俺はふと思った。

しかし、それは俺にはとても信じられないことのように思えた。なぜなら、あの頃の先輩は近寄りがたく、神秘的で、実際よりも大きく見えて、何よりももっと大人だった。とても今の自分と同い年には思えない。


たぶん、俺は一生、あんな深みのある人間にはなれないだろうな。


俺はビールを飲み干しながらそう思う。


俺が次にウイスキーでも飲もうと、棚を開けたところで電話が鳴った。

タイミングといい、鳴り方の雰囲気といい、間違いなくあの留守番電話の女性からだろう。

俺はウイスキーを飲むのを一旦止め、すぐに電話機に向かうと、受話器を取った。すると向こうから


「あっ、……あの、もしもし。猫の手さん、ですか?猫の手の、アサミネヤツヒコさん」


と言った。やはり高齢の女性だ。どこか怯えたような感じもするが、基本的には上品な声だった。

「はい、そうです。掃除屋・猫の手の浅峰八彦ですが」

俺がそう言うと、女性は

「ああ、そうですかぁ。よかったぁ。やっと繋がって。私は……」

と言いかけたので俺は

「ちょっと待ってください」

と、その言葉を止めた。

「え?」

すると、女性は戸惑った様子で言う。だから、俺は

「誰から聞いたかわかりませんが、軽率な電話は困りますね。もし、留守番電話の件でしたら、これ以上のことは、直接会ってお話ししたい」

とこちらの事情を言った。

すると、あちらもこちらの事情を察してくれたようだった。


「あ、ああ。そうね……すいません、気づかないで……」

「いいえ、お気になさらずに。では、こちらの場所はお分かりになりますか?」

「はい。地図もいただいておりますので」

「そうですか。では、いつ頃お見えになりますか?」

「今日、これからではダメかしら?」

「いいえ、大丈夫です。問題ありません」

「ありがとうございます。急ですいませんが、では、一時間後に伺いますので」

「はい、お待ちしております。あと、一応見た目の特徴などお教えいただけませんか?…………」


一通りのやり取りを終えて、俺は電話を切った。本当に珍しい電話依頼だった。なぜなら、俺にこの手の仕事を依頼してくるのは、今となっては昔のツテを伝ってのことがほとんどになっていたからだ。


「ふーっ、一時間後ね……」


俺は受話器を置くと、気を取り直しウイスキーを取り出しに戻った。そして、グラスに注ぐと氷もなしに、ぐいっと一気に飲み干す。喉と頭がカーッと熱くなった。


「この感覚は誰が教えてくれたんだったっけな……」


俺は今まで殺してきた人々の中から、その人物を探したが、それは先輩の時のようには、うまくいかなかった。

なにせ、俺は多く人を殺し過ぎた。


それも、自分のために。


俺はグラスを棚に置きざりにし、ソファに戻った。そして、あと一時間夕寝をしようと、アイマスクをして寝そべる。こうやって夕方に寝るのはいつでも気持ちのいいものだったが、それだって誰かから貰った感情だった。掃除好きなのもそうだ。掃除をすると気持ちがいいとはいつ知った感情だったか。誰を殺した時に貰った感情だった?


「……わからないな」


それもやはり誰から貰ったかは思い出せなかった……


  ○


俺の一番の才能は人を殺しても何とも思わないことだと、最初に発見したのは、同級生の舘花御影タチバナミカゲだった。


舘花は俺の高校の頃のクラスメイトだ。俺にも一応、普通に暮らしていた時期はあったのだ。しかし、それも、その舘花という悪友に出会ったことで終わりを迎えた。ある日、舘花は俺に言ったのだ。


「なぁ、シロちゃん。その才能を使って商売をしないか?きっと、俺とお前ならバカみたいに稼げるぞ」


と。


やってみると、実際その通りになった。


なにせ、舘花は頭が良かった。それもそのはず、俺達が通っていた学校は都内でも有数の東大進学率を誇る私立高校だったのだ。


俺も頭だけは良かった。というより「勉強だけはできた」と言った方がより正確かもしれない。というのも、俺はずっと幼い頃から精神的な疾患があると診断を受けていたのである。それは具体的にいうと、


「俺には通常は持っているであろうと思われる感情がほとんどなく、多くの感情が欠如している」

と診断されたのである。


だからなのか、俺は本当に小さい頃から終始ぼーっとしていた。

当たり前だが、そんなことでは友達などできない。時にはいじめられるようなこともあったが、俺が何の反応も示さないので、張り合いがないのか、それもすぐになくなった。


読み書きはなぜかできた。会話もできた。記憶だって定着した。感情と記憶というものは、今考えてみれば密接に関係しているように思えるのだが、不思議なものだ。その理由は医者にもよくわからなかったらしいが、ともかくも日常生活には何の支障も出なかった。


小学生になるくらいまでは、俺の両親はかなり俺のことを心配していたみたいだが、実際に入学してみれば、勉強ができて、話もできて、無事普通に学校に通えたのだ。

だから、両親はいつしか俺のことを心配しなくなった。ぼーっとしている、それは俺の個性だと思って諦めたらしい。

病気が個性。そういう側面はある。しかし、なかなか楽観的な親だ。


そして、それとは対照的に、そんな俺の個性の「一番強烈な部分」をずばり見抜いたのが舘花だった。


高校生の頃の俺の武器はナイフだった。

さすがの舘花でも、銃までは用意できなかったようだ(舘花が一番最初に銃を用意してきたのは、大学一年の時だった)。


しかし、武器などなんでもよかったのだ。

俺はそのナイフで指示通り、舘花が取ってきた依頼を淡々とこなした。

その頃の舘花が持ってくる依頼は全てヤクザ関係のもので、それは


「手っ取り早く金になるからな。それに、もし殺しが公になっても、身代わりに捕まってくれる奴がいる。つまり、裏切りさえしなければ、俺もシロちゃんも安全ってわけだ」


ということらしかったが、当時はそのメリットもデメリットも、よく理解していなかった。それは、主に勧誘や報復という形で俺の家族にまで、その弊害は長きにわたって及んだ。俺はそれを振り切る為に、実に多くのものを捨て去らなければならなかった。


それはともかく。

当時の俺はごく大人しい普通の高校生のフリをして様々なヤクザの幹部に近づき、躊躇なく刺し殺した。やってみると大したことはなかった。依頼主のヤクザのお膳立てもある。ターゲットだけを都合よく殺すのは困難だったが、仕事は極めて順調だった。金もたった半年でうなるほどできた。舘花は俺に分け前として報酬の半分もくれたのだ。それは、舘花が元々金持ちのお坊ちゃまだということにも関係していたかもしれないが、なぜ俺にそんなに金をくれたのか、それは今だにわからない。

それに、今となってはもう確かめようもない。


俺は後々まで、その頃の金に助けられることになる。


  ○


コンコンコン


俺がソファでうたた寝をしていると、ドアがノックされた。

出てみると、やはり電話の女性だった。小柄で、歳のほどは70歳くらいだろうか。それは手の甲を見れば大体わかったが、しかし、若く見えた。綺麗な白髪に、控えめで上品な微笑。皺も少ない。服もこざっぱりした高級品を嫌味なく身にまとっている。きっと、金持ちなのだろう。最近の年寄りは皆総じて、若者より金持ちだ。しかし、


こんな女性が、ここに殺しの依頼をね……


いらぬ好奇心が湧いてしまう。そんなものは不要なのに。


「こんにちは、浅峰です。あなたが電話の……」

「ええ、そうです。私は…」

「いえ、まだ名前は結構です。どうぞ、こちらへ」


俺は初めてのケースに途惑ったが、まぁ、人は案外見かけによらないものだ。とにかく女性にソファをすすめ、自分はその真正面に座った。


俺はソファに座り、物珍しげに辺りを見回す女性に向かい

「すいませんね、男一人の仕事なもので。事務所の掃除はあまり気にしないんですよ。掃除屋なのにおかしいことですが」

と切り出した。

すると女性は笑って

「ふふふ、いえ、こちらこそ、すいませんね。私も昔、こういう事務所に勤めていたことがありましてね。なんだか懐かしくなっちゃって」

と言った。

「へぇ、そうなんですか」

それも意外な感じだ。まぁ、しかし人生は色々だ。俺は女性の細かい身の上話までは聞くまい。それに、この事務所の雑然とした雰囲気のおかげか、女性から電話の時のような緊張感が見られなくなっている。

物騒な依頼に来たというのにな。

ならば、早く本題に入った方がいいだろう。俺はそう思った。


「…では、お茶も出さずにすいませんが、早速依頼の話をしましょう。と、その前にまず、確認ですが、ここのことは誰から?」

俺はソファに座り直し聞いた。すると、女性は表情を少し引き締め、

「それは……言えないことになっているんです。ごめんなさいね…」

と言う。

「そうですか」

予想通りだったので、俺はそれ以上は何も言わない。

「お気にさわりましたかしら?」

「いいえ。問題ありません。よくあることです」


それに、ここを教えた奴は自然と何人かに絞られる。俺はそいつらと顔見知りだし、俺を紹介することによって、そいつらがいくらかの仲介料をもらっているだろうことにも目くじらを立てるつもりはない。


「そう、ありがとうね…」

問題ないという俺のその言葉に、女性はほっとしたように言った。そのつかの間、


「で、俺は誰を消せばいいんですか?」


と、俺は本題を切り出す。

その瞬間、女性は体をまた強張らせ動きを止めた。


しかし、そこをぐっと堪え、ハンドバックに手を入れると、中から三枚の写真と、パソコンでタイプさせたメモ書きを取り出し、俺の目の前にすっと滑らせた。俺はその様子をじっと観察してから、おもむろに写真を手に取る。

三枚の写真に共通して写っている男、それは高齢の身なりのあまりよくない男性だった。

薄くなった髪に、少し曲がった腰。そして、三枚とも同じよれよれのジャケットを着ていた。もし、この写真がそれぞれ別々の日に撮られたものだとすれば、この男はいつも同じ服を着ているということになる。


次に俺はメモ書きを手に取り、眺める。

「坂崎甚六、昭和22年2月19日千葉生まれ、無職、現住所東京都中央区………」


そこには男の極簡潔なプロフィールが記載されているのみだった。しかし、まぁ、これだけあれば十分だ。あとは自分でなんとかする。


「この男ですね?」

「え、ええ……」

「わかりました。では、報酬は500万でどうでしょうか? まずは前金に50。そして成功報酬として450」


俺が写真とメモ書きをテーブルに置きながら、そう言うと、女性は俺のそのあっさりとした態度が気がかりなのか、


「あ、あの…本当によろしいのですか?」

と聞いてきた。


「ん? 何か不都合でも?」

「い、いいえ。そういうわけではないのよ…?でも、いいのかしら…その…理由などお聞きにならなくても……」

「ああ…はい。大丈夫ですよ。いつも理由は聞かないことにしていますので」


依頼人のほとんどはそうなのだ。

皆、動機を話したがる。

しかし、俺はカウンセラーをやっているのではない。怨恨だろうと復讐だろうと、嫉妬や女絡みだろうと、俺は金さえ積んでくれればやる。それに、もしそのターゲットのことが気になったら、いつも自分の足で調べることにしていた。その方が結果的にうまく殺せるケースが多いからだ。


「……では、よろしいでしょうか? よろしければ、この用紙にあなたの名前と住所、電話番号を書いてください。そして、気が変わらなければ数日中にまたこの事務所に現金50万円を持って来てください。もし、5日過ぎてもあなたが現れなかった場合は契約はキャンセルということで、この用紙も、この写真とメモ書きも全て処分させていただきますのでご安心を。もちろん、ここで聞いたことも決して他言いたしません」


そう言うと俺はいつも通り、用紙とペンを女性の前に置いた。

すると、女性は俺の顔と用紙を見比べ、少々面を食らったような顔をしていたが、やがてまた落ち着きを取り戻すと、案外思い切りよく用紙に必要事項を記入し、俺に渡した。


「どうも、ありがとうございます」


俺はそう言って用紙を受け取ると、その内容を見ないまま紙を小さく折りたたむ。

そして、それをポケットに無造作に突っ込んだ。


「では依頼の件が終わるまで、この情報は保険として使わせていただきます。つまり、あなたが成功報酬をごまかそうとしたり、ちゃんと支払わなかった時の保険として。ですので、あなたがちゃんと約束通りにしていただければ、私はあなたがどこの誰だか知ることはないということです。しかし、逆にあなたが逃亡を図ったりした場合は、この情報をある筋にリークします。また、仮にここに書かれた情報が嘘だったとしても、私は必ずあなたを探し出します。それは肝に銘じておいてください。そして、この紙は成功報酬を受け取った場合、その場で燃やします。そういうこちらの保険です。それと……これをお持ちください」


俺は今度はポケットからコインロッカーの鍵を取り出し、それを女性に渡した。俺はそれをコピーした合鍵をもう片方のポケットに持っている。


「これは東京駅構内にある、とあるコインロッカーの鍵です。そして、これがその場所の地図。かなり面倒ではありますが、以後連絡はこのロッカーを使い行います。ですので、もうここには訪ねて来ないでいただきたい。電話もダメです。連絡と言っても、主に依頼の進捗状況と、成功報告のみをこちらから一方的に行う予定ですが、もし何かありましたらそこに手紙を入れてください」


俺のその言葉に女性は、よくわからないまま頷く。


「何か質問はありますか?」

「……あっ、あ、いいえ。あの…特にないわ」

そう言うと女性はコインロッカーの鍵をバックに仕舞う。たぶん、いきなりの説明に、女性はよくわかってはいなかったが、本当に依頼するつもりはあるらしい。なぜなら、女性はさらにそのバックから分厚い封筒を取り出し、


「でも、もうここにお金は用意してあるのよ。300万円しかないのですけど、これを前金にしてくださっても結構ですのよ?」

と、女性は言ったからだ。

これもなかなかに意外だった。普通は俺にあんなふうに言われたら、大体の依頼人は少し迷うものなのだが。この女性はこの場で前金を払うと言う。

「もうご用意があったのですね。しかし、私は自分で決めたルールでやっていますから、受け取るのは50万までです。あとは成功報酬にとっておいてください。しかし……」

俺はそこで言葉を切る。そして、続けて


「そちらこそ、本当にいいのですね?この前金を支払ったら、そこで契約成立となりますが」


と女性に向かい言った。


俺のその問いかけに女性は柔らかく頷き、


「ええ。結構です。よろしくお願いします」


と言って、俺に前金をあっさりと支払い、頭を下げたのだった。


こうやって久しぶりの仕事の契約は成立した。


   ○


俺は次の日から早速、清掃の仕事の合間を縫って、坂崎甚六についてのリサーチを始めた。

と言っても、住所は割れていたし、事務所の近所だったので、発見するのは簡単だった。そして、坂崎は今日も同じジャケットを着ていたから、それはなおさら俺の目についた。


だから、俺が調べるのは坂崎の行動パターンのみである。

そして、どこがやつを殺しやすいか考えるのだ。行為自体は変態ストーカーとほとんど変わらない。


「……しかし、よぼよぼだな」


俺は初見からそう思った。

あれなら別に俺に頼まなくても、自分で簡単に刺し殺せるだろう。まぁ、普通の人間はそう思っても、そんなことはしないし、したくもないのだろうが、俺としてはそう思う。


「下調べなどせずに、サクッと片付けるか?」


俺は坂崎の入ったパチンコ屋の向かいの喫茶店で、コーヒーを飲みながらそう考えた。本当に、そうすればすぐにでも依頼は終わらせられるだろう。このごちゃごちゃと薄汚い、都会の海際の街には人目につかなく、防犯カメラもない場所など腐るほどあった。だから俺は、坂崎がそこを通りかかったときに、後ろから、いやあんな爺さんなら前からでも大丈夫だ。ぶすっと刺せばいい。それだけの話だ。


俺はコーヒーを飲み、パチンコ屋を見る。

「まぁ、いい。もう少し調べてからでも遅くはない」


坂崎の行動パターンは大体決まっていた。

彼は元々、汚水処理場で働いていて、半分公務員のようなものだった。今は退職し、年金暮らしだが、だから結構よい額を貰っている。結婚歴はなかった。ずっと独り身だ。学歴は大学中退で、退学後はしばらく定職に就かずフラフラしていたらしい。これらのことは簡単なリサーチでわかった。おかげで前金もあまり減らさずに済んだ。


坂崎は朝早く起きた。

それは俺の仕事が休みの日に、確かめた。

坂崎は朝早く起きると、飯を自宅で食べる。そして、テレビを見たあと外出。コンビニでスポーツ新聞や競馬新聞を買い、時々は発泡酒も買い、帰宅。午前中は近所で過ごす。昼飯は新聞を持って定食屋へ。俺もそこで食べたが、なかなかうまくて安い定食屋だった。午後は大体パチンコか、場外馬券売り場に行く。パチンコの腕も、馬券の買い方もベテランのようだったが、うまいわけではなさそうだった。大きく勝ちも大きく負けもしない。まぁ、ギャンブルをやる姿勢としてはなかなか健全な方だろう。俺も試しに馬券を買ったり、パチンコを遊び半分に回してみたが、何が面白いのかは、さっぱりわからなかった。


そういえば、今まで殺した奴の中に競馬狂いやパチンコ依存症の奴は意外にもいなかったかもしれない。ということは、俺は坂崎を殺したらパチンコや競馬をするようになったり、その楽しみを知ることになるのだろうか?


坂崎の一日は大体そんな感じだった。そして、夕食も外の屋台やガード下の居酒屋でとる。

が、そこで俺は坂崎の意外な習慣を知る。

それは、映画館である。

坂崎は夕食後の夜の時間、必ず自宅から徒歩15分くらいの所にある、錆びれた(というより、ボロボロの)映画館に立ち寄り、古い映画を観るのだ。それも毎日同じものを。


最初はただの気まぐれかと思った。しかし、坂崎はほぼ連日ここに通った。坂崎はここの回数券を腐るほど持っていたのだ。そして、映画は必ず同じ映画を観る。わけがわからなかった。

次に、映画館の中の現状を察したとき、俺は

「なるほど、坂崎はここに女を買いに来ているのか」

と思った。しかし、そうでもないようだった。俺は毎日うんざりすりほど、男や女から「今晩あなたのを咥え込みたいわ」などと、話しかけられるのに、坂崎は一向に話しかけられる気配がなかったのである。それが、座席のせいだと気がついたのは、少し経ってからで、それを知った時俺は坂崎が少なくとも女を買いにここに来ているのではないと悟った。


映画は一時間半ほどで終わる。本当はこの手の映画館は一度金を払えば、いくらでもいていいのだが、坂崎はその映画が終わるとさっさと帰った。風俗などにはいかないようだ。

そして、コンビニに寄り、自宅へ。あとは夜10時頃まで起きていて、自宅からは出ることなく寝るのである。


俺はそれを見届けると、報告書の下書きを書くために事務所へと戻る。そして、坂崎の一日の行動をしたためるのだが、やはりあの映画のことが気になった。



俺が初めて手にした感情は「酒ってうまいんだな」ということだと記憶している。高校生だった頃のある日、舘花が持ってきたウイスキーを少し貰い、飲んだ時に思ったのだ。そして、俺が少しハニカミ、

「うまい……」

と言うと、舘花はグラスを取り落とさんばかりに、きょとんとして

「シロちゃん、お前、今なんて言った……?」

と驚いたものだ。


最近、うすうすおかしいとは感じていたのだ。前まではうまいともなんとも思わなかった飯が、その頃はだんだんとうまいと思うようになってきていた。俺は小さい頃から食べるという行為に全く積極的ではなかった。放っておいたら、いつまでも何も食べないのである。

だから両親は俺に徹底的に教え込んだ「飯は食べなければいけないのだ」と。

その教えに従い、俺は飯を食べるという「習慣」を得た。

あくまでも習慣だ。だから俺は義務的にパクパクとものを食べた。それはうまいまずいではない。食べろと親が言ったから食べたのである。それが、俺にとっては普通のことだったと、そう思う。


それが、殺しを始めてから三ヶ月程経ち、4人くらい仕留めた頃、急に心の中で飯の味に感想を持つようになってきたのだ。俺は最初それがどういうことなのか、全く見当もつかなかった。

しかし、酒は強烈なきっかけになった。

そして、舘花だ。舘花は俺に、

「そうか、酒がうまいか……シロちゃん…」

と言い黙り込んだ。そして、また俺にウイスキーを注いでくれる。俺はそれを飲んだ。うまかった。でも、全然酔いはしなかった。それは元来の俺の体質なのかどうかはわからない。しかし、今になって思えば、俺は酔いというものについても理解していなかったのかもしれない。なぜなら、今の俺はちゃんと人並みに酒に酔うからだ。


  ○


その後もほとんどが小さなことばかりだが、似たようなことが多く続いた。それは俺が殺しを重ねるごとに多くなり、劇的になっていった。

だから、そのことが気がかりな舘花は今までの殺しのターゲットのプロフィールを洗い直し、色々と調べ始めた。

そして後に舘花はこう仮説を立てた。


「シロちゃんは人を殺すことによって、感情というものを取得しているのかもしれない。それも、殺した相手の「一番強烈な」感情を……」


と。


  ○


俺は坂崎を殺すのを少し待ち、映画と坂崎を結びつけるものを探した。

興味本位の行動だ。

だが、それは雲をつかむようなものだった。なぜなら、それは単に坂崎があの映画がものすごく好きだという、たったそれだけのことなのかもしれないのだから。だとしたら、それは坂崎に直接聞いた方がてっとり早い。でも、俺はなるべくターゲットに直接接触はしたくなかった。それも俺のやり方だった。


が、ある日俺はガード下の大衆居酒屋のカウンターで、坂崎に話しかけられてしまった。

決して油断していたわけではない。ないのだが、それはもうどうしようもないことだった。不可抗力だ。俺はどうも酒を飲むと笑顔になってしまう。


「お、うまそうに飲むね、あんちゃん」


いくら距離があるとはいえ、カウンターには数人しか客がいなく、ちょうど俺と坂崎の間にいたカップルも帰ってしまった後だった。

まぁ、いいだろう。まさか、坂崎も俺が自分を殺すために雇われた殺し屋だとは夢にも思うまい。坂崎に仮にあの依頼主の女性に恨まれるような過去があったのだとしても、坂崎がビクビクして暮らしていない所を見ると、それほどのことではないのだろう。ここは無駄に警戒されないように話を合わせよう。


「酒が好きなんですよ」


俺がそう言うと坂崎はへへっと笑い


「そりゃいい。最近の若い奴は全然飲まなくなったと聞くからな。やっぱり労働の後は、酒を呑まなきゃなぁ」


と言う。

「ですね。お仕事は何を?」

「いや、俺ぁもう引退してんだ。年金暮らしさ」

「年金暮らし。いいですね」

「いいもんでもねぇさ。この歳になるとやることもないしな」

「それでもいいですよ。俺は年金なんて貰えるとは思っていないので、払ってませんから」

俺がビールを傾けながら言うと、坂崎は

「なんだ、あんちゃん。払ってないのか? 給料から天引きじゃあねぇのか?」

と、同じくビールを飲みながら言う。

「自営業なんですよ」

「お、なんだなんだ? あんちゃん、まさか社長さんか?」

「まぁ、そんなところです」


坂崎は自分のことはあまり話したがらず、俺に色々なことを聞いてきた。最近の若い奴は車も欲しいと思わないらしいけど、俺もその方が健全だと思うとか、ゆとり世代とかいうが、俺はゆとりはあるならあった方がいいと思うから、ちっとも悪いことだとは思わないだとか。まぁ、時々とんちんかんなことを言ったが、なかなか話を聞いていると面白かった。そして、坂崎はなぜだか俺のことをいたく気に入ってくれたらしい。


「あんちゃんは、いい男だなぁ。最近の若い奴にしては、ちゃんとしてらぁ」

坂崎は上機嫌でそう言い、日本酒をぐいぐい呑んだ。俺はそれにただ相槌を打った。


やがて、時刻があの映画の上映時間に差し掛かろうとすると、坂崎は突然席を立ち、

「悪い、ちょっと用事があるからよぉ」

と言って勘定を払った。俺の分もまとめて払ってくれた。

「なんだか、すいません」

「いいってことよ。それよりもよ、またここで会ったら話をしようぜ。な、あんちゃん」

そう言うと坂崎は急いで店を出ようとしたのだが、ふと立ち止まって

「そう言えば、あんちゃん。まだ名前も聞いてなかったな?」

と言った。だから俺は

「浅峰です。浅峰八彦」

と答えた。

「浅峰さんかい。俺ぁ、坂崎甚六ってんだ。じゃ、またな浅峰さんよ」

「はい……ありがとうございました。ところで、この後はどこへ?」

俺は何気なく聞いた。すると坂崎は

「なぁに、ちょっとした野暮用よ」

と言いながら暖簾をくぐって出ていってしまった。


結局、映画のことは聞けずじまいだった。


  ○


その翌日、俺がコインロッカーに昨日の出来事の報告書を入れに行くと、中に一通の手紙が入っていた。


俺はそれを、東京駅構内のパン屋のイートインコーナーで開ける。もちろん依頼主の女性からだった。しかし、その内容は意外なもので、自分もその映画館に行き、例の映画を見たいというものだった。


確かに、映画のことは報告書に詳しく記載した。が、まさか女性が一緒に現場に行きたいと言い出すとは思わなかった。 そして、それはかなり危険な行為だ。

たぶん坂崎と女性は知り合いだろう。万が一見つかってしまったら、仕事のことがバレるとも限らない。いつもなら即座に却下の手紙を書いて入れるところだが、今日の俺は迷った。


俺はあの映画と坂崎と、そして女性がどのような関係のもとで結ばれているのか。それをこの目で確かめたくなっていたのだ。


それで俺はオーケーの返事を出してしまった。では明後日、一緒に行きましょう。と。


  ○


その日も、確か雨が降っていた。そして俺は18歳になろうとしていた。

俺の額からは雨の雫がポタポタ落ち、手からはぬらぬらとした血が落ちた。

「よお、シロちゃん。今日もやったな、これで今月の目標は達成か?」

「……ああ、一応な」

舘花の言葉に、俺は気のない返事をする。

その頃になると、俺は月の目標を決めて、自分から積極的に仕事を受けるようになっていた。あの時の酒のうまさが忘れられなくて、俺はもっと色々なことが知りたくなっていたのだ。「好奇心」というやつだと舘花は教えてくれた。

「へへっ。こいつが、どんな感情をくれたか…楽しみだなシロちゃん」

舘花がターゲットを見下ろして言う。

俺はそれを聞きながら、そういえば舘花も俺と同じように、血を見てもなんとも思わないのだろうかと思った。だから聞いてみると

「俺の場合は慣れさ。感覚が麻痺しちまったんだ」

とのことだった。

「そうか……」

俺は呟いた。俺にはそれすらもどういうことかわからない。


「なぁ、次はどんなやつがいい? また良い仕事があったら紹介してもらうからさ」

舘花は明るく言う。その頃くらいからだろうか? 俺達はヤクザ関係の仕事から一歩距離を置き、個人の復讐や怨恨の線の仕事も受けるようになっていったのは。その仕事の判断基準も、全ては舘花が決めていた。


「どんな感情が欲しい?」

アジトに戻っても、なおも舘花はウイスキーを片手に上機嫌で聞いてくる。だから俺は自分でもよくわからないまま

「罪悪感」

と言ってみた。

すると、舘花は急に真顔になり、黙り込んでしまった。そして、しばらく後にぽつりと

「…そんなの、知らないほうがいい」

と言った。


俺はその時の舘花の顔を今でもよく覚えている。

そのせいか、俺はその仕事の件も、その日が強い雨だったこともよく覚えていた。


そして、その三年後、舘花は死んだ。



「お待たせしました」

「いいえ、私も今来たばかりですよ」

俺はどうしても映画を見たいという、女性を映画館の最寄り駅まで迎えに行った。

雨のしとしと降る日だった。

「傘はお持ちですか?」

「ええ、大丈夫。持ってるわ」

そう言うと女性はバックから上品なレース模様の入った折りたたみ傘を取り出し、開く。俺も、駅から外に踏み出ると透明なビニール傘をバッと開いた。


「ごめんなさいね、無理を聞いてもらちゃって……」

「いいえ、問題ありません。しかし、少々危険が伴います。ですので、これが最後だと思ってください」


俺達は場末のゴミだらけの街を並んで歩いた。上品な高齢の女性と、三十代の男性だ。きっと親子か、祖母と孫くらいに見えていることだろう。しかし、そんな見た目はこの殺伐とした町並みには到底似合わなかった。女性もそれを感じているのか、なんとなく落ち着かない。


「こういう街は初めてですか?」

「いいえ、そういうわけじゃないのよ? 前に事務所の方にも伺いましたし……」


そういうと女性は複雑な顔をした。そうか。そこで俺は合点した。この女性はやはり、坂崎に会うかもしれないことに、なんとなく落ち着かないのだと。相変わらず、俺は鈍感だなと思う。


「大丈夫ですよ。万が一の場合は仕方ありません。私がその場でなんとかしますから」


俺は女性に向かいそう言った。しかし、それでも女性は複雑そうな表情を浮かべるのみだった。



映画館に着くと、いつも坂崎が来る時間より若干早かった。

俺は顔を知られているし、女性だってそうだろう。ここで見つかってもやっかいなので、俺達はさっさと中に入った。店員は俺達を見ても無関心そうな目をするだけだった。


そして、いつもの席へ座る。女性は俺の隣の席へ。そうすれば女性も余計な勧誘を受けなくて済むことは、俺ももう理解していた。

俺達が席についた時には、一本前の映画が上映されていた。これまた古い映画だ。女性曰く、とても懐かしく、大変流行った映画だということだったが、俺にとってはただの古臭い映画に過ぎなかった。


30分程後、坂崎は時間通りに映画館に現れた。

俺がそれを教えるまでもなく、女性はその方向へ視線を送っていた。この暗がりなら、向こうからはこちらのことはわからないだろう。隣に座っている俺にさえ、女性の表情はよく読み取れないのだから。坂崎もいつもの席E−10に座った。そして、映画が始まる。いつもの映画だ。俺達はそれを黙って観た。


今日、この映画館には、映画を真剣に観ている客が三人いる。

それ以外の客は皆、他のことが目当てだ。俺はそうやって席を立って移動したり、部屋を出たり入ったりする男女につい目がいってしまうのだが、女性はそんなものには見向きもせずに、じっと映画を見つめている。それを見て俺は、そう言えば、映画を観ている時の坂崎が、いったいどういう顔をしているのか見たことがないなということに思い至った。そして、それはすごく大事なことのようにも思えた。


だから、突然女性が席を立ち、坂崎の席の方へ向かった時、俺は最初それを黙って見送ってしまった。

そして、ゆっくりと考え、ようやくその間違いに気がつくと、俺は慌てて女性を止めるべく追いかける。だが、間に合わなかった。女性は坂崎の隣の席に座ってしまったのだ。


そして、そこで俺は初めて坂崎の様子がおかしいことに気がついた。


坂崎は震えていたのだ。


女性に気がついたからではない。坂崎はただ熱心に映画を見つめ、そして震えていた。目にはいっぱいの涙をため、スクリーンに映し出された女優を瞳に映している。


たぶん女性はその様子に気がついたから、隣までやってきたのだ。しかし、坂崎はそれに気がつく様子もなければ、女性が坂崎に話し掛ける様子もない。俺は所在なく、その隣へ腰掛けるしかなかった。


俺はスクリーンを見上げる。そこには大写しになった主演女優がいて、恋人の男性と一緒に川沿いの道を腕を組んで歩いている姿があった。そして、俺はその女優の顔を見て、なんとなく見たことがある顔だなと思った。それもつい最近見たことのある顔だと……


なんてこった、俺はとんでもないバカだ。


俺はそう思い、頭を抱えるのをなんとか堪え、隣を見る。が、時既に遅かった。


坂崎は女性の顔をじっと見つめていたのである。


こちらからでは女性がどんな顔をしているのかはわからない。


しかし、坂崎の顔はスクリーンの光に照らされて、よく見えた。


紛れもない、驚きの顔だ。

目の涙は引っ込み、体の震えも一時的にだが止まっている。


俺とも目が合った。そして、それをわけがわからないといった感じの顔をする。それはそうだろう。俺だって、事態がまだうまく飲み込めないのだから。

しかし、これだけは言える。


仕事はもう失敗だ。


俺も女性も顔を見られてしまった。もうこの場所を殺しの場にもできない。相手は警戒するだろう。

が、もうひとつの可能性も俺は考えていた。

それは、女性がやっぱりこの依頼をキャンセルするかもしれないと。

いつもなら、違約金を取れるケースだが、今回の場合はどちらかと言うと、俺の判断ミスだ。だから、キャンセルも受けるつもりだ。と、いうよりそれしかない。こうなってしまったのも、俺の好奇心のせいなのだから。俺は謝罪する準備さえできていた。


俺は坂崎の驚きの表情を見つめながら、そう考えていた。


ふと、視線に気が付き隣を見る。女性は俺の方へと向き直っていた。

「やっぱりそうか……」

そう思う。

女性は涙を流していた。

しかし、その表情はあくまで明るい。そして、俺にそっと手招きをした。

俺は促されるまま、女性に顔を近づける。そして、女性は俺の耳元で囁くようにこう言ったのである。


「殺してちょうだい」


と。


俺は驚いた。そんなのってないと。


どういうことかはさっぱりわからなかった。が、俺の長年の経験で染み付いた体の感覚は、すぐに言うことを聞いた。俺はポケットの中からナイフを取り出し、なにげなく坂崎の隣に座ると、躊躇うことなく坂崎の腹部をひと刺しにした。


坂崎と目が合う。その表情はやはり驚きに満ちていたが、やがて死の間際には笑顔に変わった。そして、俺に向かい何かを言おうとしたのだが、それは映画のセリフに紛れてしまいうまく聞こえなかった。


<ねぇ、なんで話してくれないの? 私には話せないことなの?>


俺はしばらくその死を確認すべく坂崎を見ていた。そうして、坂崎の死を確認すると、一息つき


「終わりましたよ」


と女性の方を見る。が、女性は俯いたままで、返事もなかった。きっとまだ泣いているのかもしれない。ここは、そっとして置くべきだろう。俺はそう思い、しばらく黙って、その様子を見ていた。が、やがてまるで動かない女性の様子に違和感を覚えた。


「……まさかっ」


俺は女性の顔を覗き込む。


女性は死んでいた。


口からは独特の薬品の臭いがする。自殺だ。彼女は最初からそのつもりで、薬を隠し持っていたのだ。気がつけなかった。


「……ちっ」


俺は妙に腹立たしくなって、舌打ちをした。それは、女性の顔がとても安らかに見えたからだ。


俺はたまらなくなって映画館を出た。

こんな気持ちをなんと言えばいいのか? わからない。だが、この気持ちは坂崎を殺したことよりも、むざむざ女性を自殺させてしまったことの方に働いていることはなんとなくわかっていた。


<ごめん、仕方がないんだ。君が悪いんじゃない>

「ごめん、仕方ないんだ。君のせいじゃない」


俺は扉が閉まるのを感じながら、うろ覚えになってしまったセリフをひとり吐き捨てた。


  ○


その足で俺は坂崎の自宅に侵入した。

すぐに捜査が入るであろうから、かなり危険な行為だ。


しかし、そんな危険な行為に見合うだけの成果は上げられなかった。目ぼしいものといえば、ノートの間に挟まっていた、古い新聞記事の切り抜きだったが、それは印刷が薄れ、文字もかすみ、読めなくなってしまっていた。俺はそれだけをポケットに突っ込むと、部屋を後にした。


コインロッカーの中には紙袋に入った成功報酬と、一枚のメモ書きがあった。そこにはロッカーの鍵は処分したから、申し訳ないが新しくコピーを作って欲しいという旨と、その理由により成功報酬に色をつけておいたということが書かれていた。

なるほど、やはり最初から死ぬつもりだったらしい。俺はそんなこともわからなかったのだ。


俺は紙袋を持ち、メモ書きをぐしゃぐしゃと丸めてポケットに入れると、鍵を閉め、その場を離れた。


  ○


事務所に帰って思い出したことがある。


それは、昔、舘花がよく口にしていたことで、金の使い道なんていくらでもあるということだった。それはやっぱりそのようだった。あんな女性が、殺しに使うのだから間違いない。


  ○


その一週間後。


俺はなぜだか、またその映画館にいた。


その日以来、俺は時々その映画館に足を運びたくてしょうがなくなってしまったのだ。


犯人は現場に戻るというから、これまた危険な行動だといえばそうだが、俺は変なヘマはしない。


考えてみれば不思議なものだ。

よく今まで捕まらなかったなと。

まぁ、これからもそうとは限らないが、俺はきっと捕まらない限り、この仕事を続けるだろうと思う。そして、それは俺が死ぬまで続くのではないか。つまり、俺は捕まることよりも誰かに殺されるという方が、まだリアリティが持てるのだ。


俺はEー10の席に座って考える。

いつまで生きていられるか。

誰に殺されるのか。

しかし、当然答えなどなかった。


女性の葬儀にも顔を出した。それはとても趣味の悪いことだと自覚してはいたが、そうせずにはいられなかったのだ。あんな気持ちは初めてだった。


とても豪華な葬儀だった。死因は病死ということだ。多くの人が泣いていた。俺はその中の一人から、あなたはどんなご関係で? と聞かれ、咄嗟に、教え子です。と、答えた。彼女が生前、教師をやっていたと聞きかじり、そう答えたのだ。それ以上は彼女ことは聞かずにその場を去った。


「あっ……」


気がつくと、俺はスクリーンを眺めながら頬を濡らしていた。


それは女性のことを思い出して泣いていたのか、それとも映画に感動していたのかはわからない。しかし、俺は涙を流していたのだ。


「ちっ、勘弁してくれ」


俺はそう呟き、タバコを取り出した。

そして、火をつけ、吸う。

全然気分は晴れなかったが、いくらか落ち着くことができた。しかし、俺の意識とはまるで無関係かのように、涙は次々と溢れ、落ちた。


俺は映画館を出た。


外は雨になっていた。


傘は持っていない。でも、走る気にもなれず、ただ歩いた。今日も場末の街を抜け、あのちっぽけな海の見える事務所へと。


そして、帰ったら留守電の再生スイッチを押すのだ。


「仕事……来てるかなぁ」


俺はなんとなく寂しくなってそう呟く。

そうやって雨の中に涙を紛れ込ませた。


自分の本当の涙ではないかもしれないのに……


今日は妙に目が痛い。



イメージソング

『新世紀のラブソング』

/アジアン・カンフー・ジェネレーション


最後まで読んでいただき、ありがとうございました!

他のチーム殺し屋の作品も、是非よろしくお願いします。


ではでは。


降瀬さとる

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[良い点] 私はすごく好きです。こういうお話。主人公の男の性格が渋いですね。全部嘘っぽくて虚無主義な………しかし隙がない印象を受けました。 [気になる点] 見当たらなかったです [一言] 『新世紀のラ…
[一言] 他の人の感想が目に入ってしまうのでこの程度の感想しか書けないのが恐縮ですが……。 殺し屋を題材にした小説なのですね。お題小説で新たなキャラクターが浮かぶ、それもまた自作小説の面白さ。 …
[良い点] 続きが気になって最後まで一気に読み切ってしまいました。その場所に流れている空気を感じさせられるような作品ですね。 [気になる点] 特にありません。 [一言] とても面白かったです。また別の…
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