第1話:ファーストキス
中学二年生のとき、はじめて彼氏ができた。
同じ学校の、サッカー部の男の子だった。
「あれ。君島?」
季節は夏。太陽の光が降り注ぎ、じりじりと体を焦がしていく。
──花火だとか祭りだとか、夏のイベントは好きだけど、どちらかというと昔から夏よりも冬のほうが好きだった。
だって汗をかくのが嫌いだから。
額を汗が伝っていく感覚が、なんとも不快だ。
この暑さには、たぶん一生慣れることはないんだと思う。
友達の渚と買い物にでかけたとき、誰かがそう言って渚を呼び止めた。
あたしも釣られて振り返ると、そこには少し驚いたように目をぱちくりさせている男の子がいた。
「うわあ、山本くん!偶然だね」
渚も驚いたようにそう言って『山本くん』に歩み寄る。
友達を待っているという山本くんと渚が話しているのを、部外者のあたしはぼんやりと眺めていた。
──どうせ話すなら、何処か涼しい場所に入って話せばいいのに。
暑さでイライラしていたあたしはそう思いながら、話に花を咲かせている二人を睨んだ。
「さっきのは山本くん。同じクラスなの」
山本くんの待ち人が来たので、あたしはようやく目的地であるビルに向かうことができた。
歩きながらもそう説明する渚に『へえ』と言って相づちを打つ。
──手をうちわ代わりに扇いで、ぱたぱたと風を送ってみるけど、あんまり効果は感じられない。
「かっこよかったでしょ?」
そう言われ、ぼんやりと山本くんの顔を思い出す。
暑くてあまり覚えていなかったけど、確かにかっこよかったかも知れない。
──いや、かっこいいというより、可愛らしい感じだったかも。
曖昧な記憶を辿りながらもなんとなく頷いたあたしに、渚は満面の笑みで言った。
「紹介してあげる」
あたしが山本くんとメールのやり取りを始めたのは、その日の夜からだった。
──なんでも渚は山本くんの友達に好意を寄せていて、彼には色々と相談に乗ってもらったり、何かと協力をしてもらったらしく。そういった経緯で仲良くなったらしい。
何事も面倒臭がるあたしは、あんまりメールが好きじゃなかったけど、不思議と山本くんとのメールは楽しくて、嫌じゃかった。
そのうち電話のやり取りもするようになって、少しずつ彼に惹かれている自分に気付いた。
携帯が鳴ればすぐに飛び付いたし、それが山本くんからのメールなら二分と経たずに返した。
電話をすれば話は盛り上がったし、夜中の三時ごろまで話していたこともある。
自惚れでなければ、彼も自分のことを好いていてくれているのではないかと感じる瞬間も、何度かあった。
『おはよう』のメールから始まって『おやすみ』のメールで終わる毎日。
──浮かれて舞い上がっていたあたしに追い打ちをかけるように、ある日放課後一緒に帰ろうと誘われた。
「あ、でも部活があるから…」
やっぱりやめようかと言う山本くんに、慌てて『待ってる!』と必死に答えるあたし。
携帯の向こうから山本くんの笑い声が聞こえてきて、なんだか恥ずかしい。
「じゃあ、教室で待っててくれる?
部活が終わったら迎えに行くから」
部活に入っていない、いわゆる帰宅部のあたしは、教室からグラウンドで走り回る彼を眺めていた。
インステップやインサイド、アウトサイドを軽々とこなしていき、コーンをジグザグに進むドリブルの練習では群を抜いて一番だった。
あたしにはその姿がまるで宝石のように、きらきらと輝いているように見えた。
──あたしの目には、もはや彼以外は入ってこない。
楽しそうに友達と笑い合い、流れる汗をシャツの袖で拭う仕草に、なんだか心臓を鷲掴みにされたような気分になった。
自分でも驚くくらいに激しく脈打つ胸を、彼が来る前に静まるようにと手で抑えつけた。
「好き、なんだ」
夕焼け色に染まった帰り道。
あたしと山本くんの家は、自転車だと十五分くらいかかる。
このY字の道をあたしは右に行き、山本くんは左に行くため、ここが彼との別れ道だった。
なんとなく空いた人ひとり分の距離の向こうから聞こえた、突然の告白。
もしかしたら、彼が自分に好意を寄せてくれているかもしれないとは思っていたけど、まさかこのタイミングで告白されるなんて。
──びっくりして立ち止まってしまったあたしに、彼も慌てたように立ち止まった。
「返事、今じゃなくていいから」
そう言って、少し困ったように笑う彼の顔が赤かったのは、夕日に染められたからじゃない。
固まったままのあたしを置いて、彼は帰って行った。
──あたしはその後ろ姿を、見えなくなるまで見送った。
あたしが彼に返事をしたのは、それから三日後のことだった。
告白されてからはメール電話もしなくなったし、たまに学校で顔を合わせても、お互い妙に意識してしまって気まずい雰囲気になる。
──もう心のなかは決まっていたけれど、どうしても顔を見ると緊張して、何も言えなくなってしまう。
あたしは電話で伝えるのが精一杯だった。
「あ、あたしも山本くんのことが好き」
ばくばくと脈打つ心臓を押さえ付けながら、震える手で持った携帯の向こう側からの反応を待つ。
──ほんの少し沈黙が訪れて、聞こえてきたのは『ほんとに?』という確認を求める言葉だった。
あたしはわずかに落胆しながらも、少し笑って『ほんとだよ』と答える。
すると、携帯の向こうからハアーっと安堵したようなため息が聞こえてきた。
「じゃあ…これから、よろしく」
すこし照れ臭そうなその声を聞いた瞬間、あたしはなんだか無性にほっとして。
──思わず涙が出てしまったのは内緒だ。
彼のフルネームは山本 祥。
乙女座のAB型で、笑うと八重歯が覗くのが印象的。性格は優く温厚だが、天然なのが玉にキズ。
──鞄のなかには何故か電卓が入っていたし、自転車で二人乗りをしたときなんか、バランスを崩して落ちたあたしに気付かずに走り去ってしまったこともある。
はじめの頃は彼の天然ぶりに度胆を抜かれていたが、それでも確かにあたしの毎日は輝き始めた。
すべてが新鮮で、すべてが初めてだった。
あたしの世界を変えて行った。
笑ったときに崩れる顔が好きだった。
あたしの頭を撫でる仕草が好きだった。
あたしが祥ちゃんと呼べば振り返ってくれる。
あたしは幸子と呼ばれればにっこり微笑む。
──幸せだと思った。これ以上ないってくらいに。
だんだんと寒くなってきた十一月。
十三才だったあたしは、ただがむしゃらに恋をしていた。
「あ、幸子。ちょっと待って」
いつものように手を繋いで帰り道を帰り、別れ道に来たとき、祥ちゃんはそう言ってあたしを呼び止めた。
じゃあね。と言って振ろうとしていた手を下ろして、祥ちゃんに駆け寄る。
どうしたの、と言う前に、あたしの視界には整った祥ちゃんの顔。
──お互い何も言わずに見つめあって、だんだんと祥ちゃんの顔が近づいてくる。
切れ長の瞳は、女であるあたしが羨むほど長い睫毛で縁取られ、柔らかそうな茶色の髪が、ふわりと風に揺れる。
祥ちゃんの形のいい鷲鼻が、あたしの鼻先に僅かに触れる距離にある。
──あたしはこの後起きることを予想して、思わずぎゅっと目を瞑った。
そっと唇に柔らかい感覚。
──あたし、祥ちゃんとキスしてる。
顔から火が出そうなくらい恥ずかしくて、あたしはぎゅっと手を握り締めた。
どうしよう。どうしよう。
心臓がばくばくと脈打ってうるさい。
そっと唇が離れていく感覚がして、あたしは恐る恐る目を開ける。
──優しい笑顔の祥ちゃんに、何故だか頭をぽんぽんと撫でられた。
「唇、震えてた」
嫌だった?と聞かれて、あたしは慌ててそんなことないと否定する。
あまりに必死に否定する様子がおかしかったのか、祥ちゃんは小さく笑った。
──これが、あたしのファーストキスだった。
何事も順調だった。
休日はデートに行ったり、試験前は一緒に勉強したり。
あたしは祥ちゃんが好きだったし、ちゃんと大切にされているという実感もあった。
ときには喧嘩もした。
だけどそれを乗り越えて、もっと祥ちゃんを好きになった。
もっと近くに祥ちゃんを感じることができた。
──このまま時間が止まればいいのに、なんて。
ありえないことを望んでは、待ってくれない時間を憎んだ。
「好きなひとができた」
いつも通りの帰り道。なんとなく公園に寄ったあたし達。
祥ちゃんは鉄棒で難しそうな技を披露してくれた。
あたしはすごいと感嘆の声を上げながらも、懐かしいブランコを漕ぐ。
キイキイとブランコが軋む音以外は何も聞こえない。
──沈黙を破ったのは、あたしだった。
幸せに浸りすぎて、感覚が麻痺してしまったのか。いつからか幸せなことを幸せだと思えなくなって、そんな自分に嫌気が差した。
ときどき、祥ちゃんは本当にあたしのことを好きなのかって、不安になるようになった。
そんなとき、同じクラスの仲のいい男友達に惹かれていく自分に気付いた。
はじめは祥ちゃんがいるのに、と自分自身に戸惑ったけれど、確かにあたしは彼に惹かれている。
──何も知らない祥ちゃんの笑顔を見るたびに、あたしは彼に嘘を吐いているたいう罪悪感から逃げることができなくなった。
欲張りなあたし。
そんなことを言っておきながら、心の奥底では祥ちゃんに嫌だと言って引き止めてほしいだなんて。そんな馬鹿なことを望んでいた。
祥ちゃんの目は困惑に揺れていて、あたしはそんな彼が見れなくて俯いた。
──あんな祥ちゃんの顔を、あたしは今まで一度も見たことがなかったから。
「…わかった」
祥ちゃんはそう言って笑った。
いつものようにも見えるその笑顔は、何か痛いものを必死に堪えているようで。
泣いてしまいそうだと、思った。
──祥ちゃんを傷つけた。
あたしは後悔した。
どうしようもなく愚かな自分を、消してしまいたいと切に願った。
ぶわっと目頭が熱くなり、すぐに視界は涙で滲んで見えなくなった。
──瞬きをするだけで、涙は零れ落ちてしまいそう。
「…ごめんなさい」
俯いたあたしの目から、ぽたぽたと涙が零れ、スカートに染みを作っていく。
キイキイとブランコの軋む音は、もう聞こえない。
──あたしはブランコの鎖をぎゅっと握り締め、ただただ泣くことしかできなかった。
それが、あたしの精一杯の謝罪の言葉だった。
祥ちゃんはいつものように優しくあたしの頭を撫でた。
祥ちゃんは何も言わなかったし、何も聞かなかった。
ふざけるなと怒ることもなく、相手は誰なんだと問いただすこともせず。
──それが彼の優しさだと気付いていたけれど、今はその優しさが痛い。
どうせなら、ひどい言葉で罵ってほしかった。
許せないと怒ってほしかった。
怒りや悲しみを、少しでいいからあたしにぶつけてほしかった。
だけど祥ちゃんは最後まで自分を押し殺して、あたしに優しさを与えてくれる。
その祥ちゃんの怒りや悲しみは今、行き場を失ってしまった。
最後の最後まで、あたしはは祥ちゃんに我慢させてしまったのだ。
──あたしは去っていく祥ちゃんの後ろ姿が見えなくなった後も、まるで足に根が生えたみたいに、しばらくそこから動けなかった。
祥ちゃんといる自分が好きだった。
たとえばどんなに喧嘩をしても、祥ちゃんの笑顔を見ると、あたしはどうでも良くなって。
仕方ないなって、笑い飛ばしたくなる。
──祥ちゃんの笑顔には、きっと不思議な力があって、あたしを癒してくれているんだと思う。
たとえばどんなに嫌なことがあっても、祥ちゃんと手を繋いでいると、あたしは心の底から優しいひとになれる。
胸がぽかぽか、あたたかい気持ちになって、素直になれる。
──祥ちゃんの優しさが繋いだ手を伝って、あたしに優しさを分けてくれるんだと思う。
今も鮮明に思い出す、九月の終わりごろ。
十四才だったあたしの恋は、静かに幕を閉じた。