プロローグ
この小説にはストーリーの都合上、一部性的な表現や暴力的な表現などが使われます。そんなに過激なものではありませんが、その際は前書きにて注意を促しますので、注意書きされているものについては任意の上でお願いします。
『ご利用ありがとうございました』
切符を入れれば改札口が開き、そう画面に文字が表示される。
それをぼんやりと眺めながら改札を出たとき、隣の改札からピーッと電子音が鳴った。
見るとそこにはスーツを着込んだサラリーマンらしき男性の姿。
──おそらくは通勤途中であろう彼の行く手を阻むように堅く閉ざされた改札口。彼はぎゅっと眉を潜めた後、それを忌々しげに睨み付けて小さく舌打ちをした。
すぐさま駅員が駆け付けて定期を確認すると、その男性はすぐに改札を出ることができた。
駅員が申し訳なさそうに謝る声が聞こえる。
──どうやら機械に不備があったようだ。
少し急ぎ足で隣を横切った彼から、ぶつぶつと悪態を吐く声が聞こえた。
行き交う人たちをぼんやりと眺めながら、ポケットから紙切れを取り出す。
ずっと握り締めていたせいか、まるで使い古されたように皺が目立つそれは、つい先日もらったばかりのものだ。
あたしはそこに書かれている駅名と目の前にある駅名とを見比べ、それが同じものであると確認すると、その紙を再びポケットに入れ直す。
くしゃり…紙が窮屈そうに悲鳴を上げる音がした。
混雑した駅を一歩出ると、春の心地よい風が肌をかすめ、優しく穏やかなそれに、あたしは思わず『あの人』を重ねてしまった。
──あれから三年もの月日が流れた。
いつのまにか立ち尽くしていた自分。それは自分の心理を表しているようで。
立ち止まったままの自分を追い越していく人たち。
──あれ以来、あたしは動くことができず、ひとり取り残されている。
ただ追い越していく人たちの背を、眺めるだけで。
動くことができない。もはやその意志さえ見失ってしまったように感じる。
でも、だけど。
誰かの背を見つめながら、あたしは無意識に彼を探している。
似たような後ろ姿を見つければ、あたしは今にも駆け出しそうになる。
似たような声に振り向けば、まったく違う誰かを見て落胆する。
どこか矛盾した気持ち。
いないと理解していても、捜さずにはいられないのだ。
彼を求めずにはいられない。僅かな期待を捨てきれない。
何故、だなんて。そんなものは愚問だ。
理屈はいらない、論理など無意味。
だって答えは出ているから。
それは複雑に入り組んだ迷路のようで、実は単純明解。至ってシンプル。
ただ、あたしの心が叫んでいるのだ。彼を、彼の名前を。
あたしの全身全霊が、彼を必要としている。それが答え、それが真実。
何故、だなんて。そんなものは愚問だ。
──分かり切った答えを聞く必要はないから。
駅を出て、十分ほど歩いただろうか。
紙に書かれた目的地に向かって歩いていたあたしの横には、キラキラと水面を輝かしている川原が流れている。
その傍らでは緑の草が生い茂り、さわさわと風に体を揺らしている。
見上げれば、そこに広がるのは冴え渡るブルースカイ。
鮮やかな青の中を風に流された真っ白な雲が、ゆっくりと気持ち良さそうに泳いでいる。
ふわふわ、ゆらゆら。
──あたしはそれをぼんやりと眺め続ける。
『…キヨ』
何度、そう呼び掛けただろう。
心の中で呼び、声に出して呼び。もはや呼び慣れてしまった愛しいその名前を呼び続けた。
何度も何度も、あたしはキヨに呼び掛ける。
朝も、昼も、夜も。いつでもキヨに呼び掛ける。
いつでも、どこにいても、何をしていても。あたしの中からキヨが消えることはない。
──公園を横切れば、隣で芝生に寝転んでいた、あの無防備で愛しい寝顔を思い出す。
夜になれば、連れていってくれたあの宝石のように輝く夜景が、今も鮮明に目に浮かぶ。
目を閉じれば、笑い合っていたあの日々に、吸い込まれそうになる。幻を見る。
行き交う人を眺めては、あの屈託のない笑顔が、今もどこかにあるような気がして。あたしは無意識に探してしまう。
──あたしの中で、キヨは存在を主張している。
何をするにも、常にあたしの中にはキヨがいる。
ねえ、キヨ。
あのとき、キヨは一体何に向かって歩きはじめたの?
あたしはキヨがいない間、ひたすらキヨの『捜し物』を探していたけど、そんなもの、どこにもなかった。見つからなかった。
キヨがいない時間は脱け殻のようで、なんの意味も持たなかった。
だけど、キヨの捜し物を探している間だけは、あたしは確かに意味を見つけられた。
──『キヨの捜し物』を、探している間だけは。
だけど、なかった。見つからなかった。
あたしはまた意味をなくしてしまった。
あたしは意味を持たない空間に一人、投げ出されたままだ。
「…三年も、経ったのにね」
そう自嘲気味に呟き、苦笑する。
頬を撫で、髪をさらっていく風が心地いい。
三年もの月日が流れて尚、今も思い出してしまう傷。
──それが癒えることはなかった。
癒える前にかさぶたをめくっては、血を流して。あたしはそれを、何度も何度も繰り返してしまうから。
痛みを確認して、あたしはキヨの存在を確認する。虚しいことをしているのは分かっているけど、何度も何度も。繰り返さずにはいられないから。
だからあたしは、今日も血を流す。
──そうして出来た傷は癒えることなく、消えない傷跡になってしまった。
ねえ、キヨ。聞こえてる?
まだあたしの声が聞こえる場所に、キヨはいるの?
キヨ。キヨ。
──あたしはまだ、立ち直れずにいる。
救いようのない、途方も無い願いを捨てきれないまま。
この胸の奥底に抱いたまま。
あたしはここから動けない。