六、魔と人と
窓外にはさまざまな屋根があった。材質だけでも石、瓦、レンガ、木と、色においてはそれこそ数えきれない。
ハーツは知らない街の、知らない館の廊下に立っていた。知っているのは臭い。死んだ肉の腐臭だけだ。
どうしたの、と先を歩くブラディが声をかけてきた。ハーツは舌打ちしただけで答えなかった。彼女の魔術により、船から一瞬にしてこの地へ来たのはわかる。だが、説明もなく悠々と歩く女の背中を追っていると、不快感がつのり、いらだちが濃くなっていく。
装飾過多な燭台に照らされた長い通路のつきあたりで、ブラディは足をとめた。両開きの巨大な扉がそびえていた。
「ハーツ様をお連れいたしました」
彼女の口調に冷笑やおどけの成分はなく、くわえて、『様』付けで呼ばれるなど、ハーツとしては顔を曇らせずにはいられない。
重々しいが、張りのある声が「入れ」とうながす。
ブラディは片側の扉を静かにひらき、ハーツに対して一礼した。
「どうぞ、アーリマン様がお待ちです」
『暴風』をかついだ『災厄』は、ブラディの発した固有名詞を胸中でつぶやき、傲然と扉をくぐった。
広い、ただ広いだけの無機質な部屋だ。しめきられたカーテンと一組のデスクとイスをのぞき、調度品も家具もなかった。照明すらも妖しげな鬼火が舞っているだけだ。
イスから立ち上がる人影が一つ、ハーツにではなくブラディに第一声を投げかけた。
「ご苦労だったカーマ、さがっていろ」
彼はハーツより年上と見える。体格もハーツよりわずかに良いが、際だった膂力があるようには思えない。紅い瞳、黒い髪、そして額のアザ……
カーマと呼ばれたブラディが深く頭をさげ、さげたまま扉を閉じた。部屋にはハーツとアーリマンだけが残った。
「おまえ、人間じゃねぇな。何モンだ?」
沈黙に絶えきれなくなったように、ハーツから口火を切った。
「そのとおり、人間ではない。だが、お前の父だ」
「父親だとォ? なぜ言い切れる。同じアザがあるからとかぬかすなよ」
「そのアザは吾の血筋にしか現れん。認めるのが怖いか、ハーツ」
「怖い? ハッ……!」
ハーツの手が、背中に伸びた。
「何をするつもりだ?」
「知れたこと」ハーツは『暴風』をぬき放ち、「ぶっ殺す!」
『災厄』は、アーリマンに次の言葉を許すことなく、「爆砕」を唱え、叩きつけた。
が、父を名のる男は身じろぎもせずに、爆発が過ぎ去るのを待った。
「まだまだだな。『黒銀刀』の魔力に頼りきっているだけだ、未熟者」
「なんだとォ?」
アーリマンのいう『黒銀刀』が『暴風』を差すのはわかる。しかし、頼っているとは聞き捨てならない。かつて魔軍の将が用いており、普通の人間では扱えなかった剣をここまで使いこなしているのは充分に尋常ではないはずだ。いったい、何が不足だというのか。
「不足? そうではない、お前はまったく使いこなしていないのだ。ただ振りまわし、暴れているだけにすぎん。貸し与えて何年もすぎようというのに、その程度しかつかえぬとは、失望したぞ」
「貸しただと! これはオレが魔物の大将から力ずくで奪ったモンだ!」
「否。もともとお前に与えるために、持たせてやったのだ。だがお前のこと、話も聞かず、問答無用でグレイゴールに襲いかかったのだろう」
「……」
当時の記憶がハーツの脳裏に浮かびあがる。確かに、敵本陣へ単騎で飛び込んだわりに、魔物の攻撃は激しくなかった。魔物の大将も、まるで剣術稽古のあいさつのように剣を突きだし、見せつけているようだった。それが余裕ぶってて気にくわず、叩き殺したのだが……
「結果的にお前のもとへ届いたのでよしとしたが、まるでダメだ。それでは吾の後継者たるに及ばぬ」
「テメェ、何でも知ってるってツラぁしやがって、気にいらねーんだよ!」
我慢の臨界点を突破し、ハーツは暴走をはじめた。『暴風』が荒れ狂い、部屋を片っ端から打ち壊していく。
しかしそれでもアーリマンは冷笑を崩さなかった。
「素質はよい。人間と魔の見事な融合だ。が、精神も技術も未熟なり」
「テメェはムカツクんだよォ!」
「しばらく吾の世界で鍛えなおすがよい。魔界六頭目が一人、アーリマンの血を継ぐ者よ」
「ふざけるな、オレは人間だァ!」
「否。お前は――」アーリマンの眼とアザが、紅を通りこして青く輝き「魔と人とのあいだに産まれた、覇王となるべきモノだ」
ハーツの姿は、嵐とともに忽然ときえた。
内部が静まり、ハーツの叫びも聞こえなくなったのをたしかめて、ブラディが部屋へ入った。
「失礼いたします、アーリマン様。ハーツ様はどちらへ……?」
「しばらく魔界へと修行に向かわせた。あれではまだ足りぬのだ」
「私などから見ましては、充分な素養をお持ちでしたが、不足でしたか」
「時期が来るまでは、あやつを使わねばならぬ。……カーマよ、ハーツが戻りしだい儀式をはじめる。贄の準備はよいか?」
ブラディは頭をさげた。
「近々、現れましょう」
七月三日、午後四時。レイルズは時刻を確認し、懐中時計のフタを閉じた。本来なら大鐘堂が時報を響かせるのだが、魔物の襲撃で鐘は地面に堕ちたまま、復旧の見込みはなかった。
フェルダンの中心部にそびえる、街でも指折りの大きさを誇る館を彼らは包囲していた。ディーン騎士団から総責任者ソゥルと事務官レイルズ、調査官三七名。加えて実戦部隊として賞金稼ぎが三〇名である。包囲するには人数不足だが、応援を要請するヒマはない。内偵調査官の相次ぐ行方不明がここでも大きな損失となっていた。
作戦はすでに伝えられていた。ソゥルは手振りで周囲に信号を送り、各自が配置についた。
「あとは頼む」
有能な事務官に一言のこし、ソゥルは先陣をきって正面扉を蹴破った。
彼に続き第一班四名が館に突入する。
照明もない薄暗い玄関ホールに、人影はなかった。派手な入場をしたにも関わらず物音すらしない。
怪しみながらもソゥルは残りの突入部隊を招き入れ、各隊に探索場を割り当てる。彼自身は一班の四名をつれて二階へと駆けあがった。
用心しながら手近な扉をあけると、蟲と腐臭が流れ出てきた。
敵襲はない。人間の残屍がいくつも転がっているだけだ。
強烈な悪臭とむごたらしさに、ソゥルですら口をふさいで顔をしかめた。隊員の一人が死体を指さし内偵調査員だと伝えると、総責任者の表情はさらに曇った。
ソゥルはこみあげる不快さと怒りに、下手な小細工をやめ、次々に扉を開いていった。
彼が二階を走破しているころ、地下を任された第四班は食料庫らしき場所で大物を追いつめていた。
「『百星』のアグスレイだな? おとなしくしろ」
四班班長は、壁際にはりつく二五万金貨の賞金首に剣をむけた。
アグスレイは帯刀しておらず、戦意も感じられなかった。
「背中を向け、手をあげろ」
班長の命令に、彼はおとなしく従った。四班に属する賞金稼ぎたちは思わぬ報酬にありつけ、顔がほころんだ。
が、次の瞬間、彼らの顔は蒼白となった。
背中を見せていたアグスレイの頭部が彼らのほうを向いた。首の筋肉も骨も断裂させながら一八〇度回転し、彼は嗤った。
「コレデイイノカイ?」
隊員たちは血の気がいっせいに抜け、悲鳴すらまともに出せなかった。
「ヒャーハハハハ…! コレデイイノカ、コレデ、コレ!」
アグスレイは筋一本で垂れ下がる首を揺らしながら、第四班に肉薄した。
半狂乱になりながら、班長は剣を振るう。アグスレイの首が床をバウンドし、なお嗤い続けるのを見たのが、彼の最後の光景だった。
残りの隊員は絶叫をあげ、ある者は逃亡をはかり、ある者は首のないアグスレイに挑んだ……
一階の捜索にあたっていた第三班は、うなり声の聞こえる扉のまえで緊張の汗を滴らせていた。
全員の戦闘準備が整うと、班長が扉を開いた。
光を封じた照明石が投げ込まれ、同時に弩から三本の矢が放たれた。矢は反対側の壁に突き刺さり、乾いた音を立てる。
班長以下三名が突入し、内部を確認すべく視線を巡らせた。
「なにも、ない……?」
つぶやいたせつな、ゴリッという嫌悪感を誘われる音がとなりから聞こえた。班長が振り返ると、隊員の頭の半分が獣となっていた。いや、獣に喰われている最中であった。
獅子の身体に鳥のような翼を持つ魔獣は、頭蓋骨を噛み砕きながら、次の獲物を品定めしている。
驚く隊員たちであったが、魔獣を目の当たりにしたのは初めてではない。班長が「かかれ!」と号令を出すと、仲間の敵討ちに殺到した。
その他の班も、それぞれが魔物と遭遇していた。
第二班は呪術によって操られている腐りかけた賞金首や内偵調査官に、第五班は腐肉を喰らう巨大な蟲の群れに、第六班はデータのない悪魔に、と当初の目的を達成できずに好餌となり果てていく。
いっそ即死できれば幸せであったろう。隊員たちは内蔵を食いちぎられ、眼球をえぐられ、肉をついばまれ、助けを求める声も虚しく、孤独と恐怖にあおられて死を迎える。ディーン騎士団の志も、信じていたはずの仲間も、豪傑と謳われた技量も、貯めこんだ財力も、この場ではすべてが無力であった。
ソゥル率いる第一班は、階下の騒ぎを耳にしていた。けれど彼は振り返らず、先へと急いだ。階上へ行くたびに強まる気配に、彼は引き寄せられていた。
長い通路をぬけ、正面に両開きの扉。
第一級犯罪捜査係一等捜査官の足は、なお加速した。
「このまま踏み込む。援護を頼む」
ソゥルは得物の『金剛尖刀』を二振り、両手にかまえて扉を蹴り開けた。
黒髪の男が独り、広いだけの部屋にいた。ソゥルを認めても動じた様子はなく、むしろ笑みさえ浮かべて彼の出方を待っていた。
「アーリマンだな?」
「いかにも。吾に何用か?」
「オレはディーン騎士団第一級犯罪捜査係一等捜査官ソゥル。お前を逮捕にきた」
「罪状は?」
「殺人および死体遺棄――なんてな。人間の法律に当てはめてもしかたあるまい。なぁ、魔物さんよ」
アーリマンは感心して、二度うなずいた。
「よくわかったものだ」
「あんたの気配はデカすぎるんだよ」
「だが、そうとわかってやって来るのは利口ではない。人間では吾にかなわぬ」
「それでもやらなくちゃならないんでね。お役所勤めの辛いとこだ」
ソゥルは二刀をかまえ、アーリマンに迫った。第一班の四名も、彼に続き部屋へなだれ込む。
「貫け!」
間合いに飛び込む以前に、ソゥルは右の金剛尖刀を突き出した。錐のような透明な刀身から、光が槍のように伸びる。それはソゥルの身長よりも長くなり、一瞬にしてアーリマンの心臓へ達した。
アーリマンはたしかに意表をつかれ、眉根をよせた。だが、彼の身体にはソゥルの一撃は届かなかった。
「見事だ」魔界六頭目の一人は、人差し指で光槍の穂先を受けとめていた。
「まだ!」ソゥル必殺の左・金剛尖刀が、アーリマンの額に走る。
アーリマンは、指すら動かさなかった。
額のアザが力を持ったように輝き、光槍をはじき返す。ソゥルは余波をうけて投げ出され、床を何度も転がった。
第一班の四人が隙を見出し、敵将の左右から襲いかかった。
アーリマンは優雅な動作で腕を左右に伸ばし、一人ずつ首をつかんだ。そのまま彼らを振りまわし、残り二名をなぎ倒す。
「もろいな」
ゴキッ、という音を大きく轟かせ、魔物は右手の隊員の首をへしおった。
左手につかまれた隊員は必死にもがくが逃れられず、壁に叩きつけられて顔面を潰された。
床に這いつくばる二名には、戦意が完全に消え失せていた。冷静な判断もつかず、怯えて後ずさりをする。
アーリマンの眼光は、弱き人間を許さなかった。ソゥルが「やめろ!」と叫ぶなか、呪文を詠唱し、片方を焼きつくし、もう一人を粉塵にせしめた。
「これが吾に挑むという意味だ。が、お前はなかなかに有能だ、軍門にくだるがよい」
「……」
口をつぐんだのはアーリマンの誘いに甘美をそそられたからでは、ない。勝てないという認識がすでにあり、打開策を思考する時間が欲しかったためである。ゆえに「お前の目的はなんだ?」と問いかけたのも、活路を見出す算段であった。
アーリマンは、人間が時間を欲していると知りつつ、会話をたのしむことにした。
「吾らの大地に帰り、大陸に吾の世界をつくる」
「そのために、人間の犯罪者をつかって情報収集をしていたのか」
「彼らは吾のために充分働いてくれた。頑なに協力を拒否してくる者もあったが、それでも食料としての使い道があった。人間はどのようにしても利便であるな」
「こちらが放った密偵もそうやって……」
「いかにも。が、幾人かはわざと泳がせ、こうして根元をおびきよせるのに使わせてもらった」
ソゥルは奥歯をかんで口惜しさに堪えた。人間を道具以下に扱う魔物を許せなかった。しかし、実力で劣るのを肌で感じていたので手がだせずにいる。それがさらに彼の心情を激しくさせる。
「……魔物がこの地の主であった時代はとうに過ぎ去っている。今さら過去の栄華を懐かしむか」
「吾らにとっては遠い昔のことではない。人間などという妖精人のカスから産まれたものとは違う」
「だが、ごく少数の魔物で人間すべてを相手にできると思うな」
「たしかに無理だ。が、人間のすべてが敵になるだろうか?」
「……どういう意味だ」
「お前にはわかるはずだ」
「……」
アーリマンは苦渋にゆがむソゥルの表情に、快楽を得た。人間の苦痛・恐怖・嘆きは、彼らにとって喜びであった。魔界の閉鎖された暗黒の地で鬱積されてきた負の心は、相手を踏みにじることで充足を得る。アーリマンが真に望むのは、過去の大地ではなく、人間の絶望と滅びなのかも知れなかった。
ソゥルはまた奥歯をかみしめた。今度はアーリマンの思惑とはちがった。彼は彼の決意を、改めて胸に刻んでいた。
「たとえどんな闇があろうと、人間にはそれを乗り越える力があると信じている。だからこそオレは――」
アーリマンは表情を濁らせ、徐々に不愉快さをあらわした。
「戦ってきたんだ」ソゥルは二刀をかまえた。
「愚かな……」
魔物は静かに右手を掲げた。掌に赤い球体が生まれ、放電しながら大きさを増していく。
「さらばだ、人間よ」
「〈反〉!」
ソゥルはアーリマンが魔法を放つのを予測していた。これこそが彼の待ったチャンスだった。金剛尖刀を素早く空中で滑らせ、剣からほとばしる光で印を描いた。
灼熱の魔球は、印に触れると跳ね返った。
「さかしい……」
アーリマンは自分に向けて迫り来る火球を左手で打ち払う。再度、軌道をかえた破壊と業火を秘めた結晶は、窓に衝突し、轟音をたてて爆発した。
「事務官、三階で爆発です!」
報告を受けたレイルズは急ぎ現場へ駆けつけた。見上げると、部屋がまるごと吹き飛んだように壁がすべて消えていた。
立ちこめる黒煙のなか、一人の男が地上へ飛び降り、ボロボロな姿で事務官に近づいた。
「捜査官!」
「レイルズ、撤退だ」
「何があったのですか?」
「説明はあとだ、撤退合図をだせ。……もっとも、生きている者がいるとも思えんがな」
右肩の出血をおさえながら、今作戦の総責任者は呻いた。レイルズは、ソゥルの悔しさと怒りに震える姿を眼の当たりにし、やりきれない表情をうかべた。
七月三日午後五時一〇分、総員撤退をもって作戦は終了した。ソゥルの言葉どおり、館から脱出した者は彼以外に存在しなかった。