十一、時のなかで
時が静かに過ぎていく。
一日……
一週間……
一ヶ月……
大自然にとって、時間はまったく重要視されるものではなく、価値を見出すのは時に縛られて生きていく人間だけである。大自然に溶けこむ時間とは、生物のいとなみに変化を与えるだけであり、人間に刻まれる時間とは、個々の人生を形づくる要因であった。
その人間が後世に伝えるために記す書物では、現在のグレストキア大陸西部はどのように語られているのだろうか。もっとも詳しく書かれた著書、『ディーン騎士団年代付記』によれば、ハーツがアーリマンを下して二週間後に、さまざまな予兆が現われたと記述されている。
ハーツは日々を無気力に過ごしていた。明言したように、覇王として軍を動かしたり、領主として振る舞ったりはしなかった。気が向いたときにミレイユを姦し、腹が減ればメシを食べ、飽きたら寝るの繰り返しで、それまでの彼の人生とは比較にならないほど怠惰で覇気のない生活であった。
ボア将軍は、ハーツに何度となく大陸征服を進言した。今よりもっと贅沢に暮らせ、兵力も領土も増やせると、三流詐欺師のような弁舌を振るって。しかしハーツは、もとより物欲が少ないせいもあってか無関心であった。
「やりたきゃ勝手にやれよ。オレはとめねェ」
「ですが、統率する者がなければ、我らは烏合の衆でしかありません。兵の絶対数が少ないのです。ひとたび侵攻に成功しても、すぐに奪回されましょう。魔物との連携のために、ここはハーツ様にたっていただかねば……」
「しらねーって言ってんだろうがァ!」
ハーツは『暴風』を抜いた。
「他人の力をアテにしなきゃ何もできねーなら、はじめから何もすんな。飼い犬はおとなしく繋がれてろ」
暴言である。忠誠をつくす部下に対して、あまりにも痛烈であった。それでも将軍は汗を拭って低頭した。ハーツの強さが彼を縮こまらせた。その覇気が違う方向へ伸びてくれれば、と思わずにはいられない。
それ以降、将軍は自制を働かせるようにはなったが、侵攻を断念してはいなかった。
しかし内部が暴発するとなれば、面倒くさがりのハーツといえど部下の行動を認めざるを得ない。
魔物は元来、好戦的で我慢を覚える種ではない。二週間も城内に閉じこめられ、所在無くうろつくなど、堪えられようがなかった。加えて、貧相きわまりない穀物主体の食事は、彼らのエネルギーとして不足であった。
ある日、人間の兵士が一人、知らずうちに消えた。それから二人消え、三人消え、事件はおおやけとなった。
行方不明となった兵士の服と装備が発見された。血が付着しており、歯形が残っている。疑いようもなく、魔物が喰らったのである。ボア将軍は魔物の部隊長にかけあったが、両者ともに日々のストレスがたまっていたため、話し合いは言い争いへと発展し、加速をつけて事態は悪化していった。ついには城内境界線に両軍が集まりはじめ、武器と眼を光らせ威嚇しあう、内乱一歩前まで進行してしまった。
仲裁にあたったのはレイルズで、時間をかけて説得し、両軍をどうにか和解させた。
ボア将軍は魔物の手をとったあと、レイルズに不満をこぼした。
「だいたい、ハーツ様が煮えきらぬからこんなことになるのだ。食料だってそう長くはもたんぞ。魔物側としても、こんな窮屈な場所に留まりたいわけでもあるまいに。貴殿はどうお考えか?」
レイルズは立場上、ハーツの参謀として扱われている。平時であれば政務と財務を管理し、司法官も兼任するような組織のナンバー2であった。しかし裏を返せば単なる雑用係だ。権限は巨大であっても、遵守する法が定められているわけでもなく、税金を納める民もなく、それどころか明日の食事にも困りかけている。レイルズとしてはこのままハーツ帝国が内部崩壊してくれれば助かるのだが、それはそれで心配事があった。
帝国が滅びるのは良い。だがその後、城内に集まっていた魔物たちが素直に魔界へ帰るはずはない。間違いなく散開し、被害を拡大していくだろう。ならばここに押しとどめ、近いうちにやって来るガガーリン軍――もしくは西部連合軍――によって殲滅させるべきではないだろうか。予測では、あと二ヶ月もせずに軍隊は来る。ソゥルが無事本国にたどり着いていれば、もっと早いかもしれない。それまでの間、被害はフェルダン領でとどめたかった。
「ボア将軍、城下町の食料をすべて回収してきてください。無駄に腐らせることもないでしょう。それにまだ、街には人間が残っているはずです。彼らを連行し、女性や子供は城内で働かせ、男には農場をまかせるのです。兵糧の蓄えもせねばなりませんからね」
「おお、ついに動きますか。……しかし、ハーツ様が何というか」
「それはわたしで引き受けます。食糧危機は、誰にとっても問題ですから」
ボア将軍は喜び勇んで全軍を招集し、指示を与えはじめた。
様子を眺めていたレイルズが、次に命令を出したのは魔物に対してである。
「あなたがたには、東方の護りをお願いいたします。具体的には、わたしたちがアルデスと呼称する山をあなたがた魔物の領土とし、独立した部隊として扱います。山中とふもとのアルデス樹海にかぎり、行動の自由を保証しましょう。ですがそれを一歩でも踏み越えた場合、ハーツ様に対する反逆とみなします。また、人間が軍を従えてやってきたときは、すみやかに報告をお願いいたします」
「山にまぎれた人間は喰ってもかまわないのだな?」
「ええ。あそこはあなたがたの領地です。不法侵入者は罰せられるべきでしょう」
「なるほど、わかった」
魔物の代表は、小さき人間の顔をのぞきこみ、嗤ったようであった。
もちろんレイルズは魔物に見えざる鎖をはめるのも忘れなかった。魔物軍を三隊に分け、城とアルデス山とフェルダン領南部の防備にあたらせる。ただし週ごとに担当場所を換えていくのだ。この交代制により、魔物は任地から離れ、好き勝手に動くことができなくなる。また、魔物を分散させておけば、ガガーリンが撃破しやすいだろうと考えていた。
思惑は省き、表面上の命令内容をハーツに報告したとき、彼はあからさまに不機嫌であった。勝手にしろと言ったことすら彼は忘れている。
「すいぶんと好き勝手をしているな?」
「必要最低限の処置だと思って、ご理解ください」
「理解する気はねーが、とめるのもめんどくせーから任せる。次はねーぞ?」
「御意……」
レイルズは、深々と頭を下げて退出した。
それから一月もせずに、フェルダン周辺の異変はガガーリン中に知れ渡った。正確には、フェルダン伯爵の死亡と、賞金首『災厄』ハーツのフェルダン占領、魔物のアルデス山移住、ボア将軍以下三千名のガガーリン兵士の反旗などである。
「外ではいろいろな話が広まってるようね」
テラスで徐々に膨らみつつある『魔界の空』を眺めながら、ミレイユは愉快とはほど遠い話をきりだした。ごくまれに、空から魔物が降りてくるのが目にとまった。
「ええ、そのようですね」
他人事のように語るレイルズだが、外部情報がミレイユの耳にも届いたのは、彼自身が放った密偵の成果であった。
「あなたが広めたのでしょう?」
「……はい」専用の事務机で書き物をしていたレイルズは、一瞬だけ手をとめた。
沈黙は、両者のあいだに壁をつくるかのようだった。ミレイユは、彼が情報を流すことで何を企図しているのかわかるつもりだったが、感情が納得しきれないでいる。
彼女は違う話題をふったが、レイルズへの非難はいっそう深い。
「街は復興しつつあるわ。魔物を山へ追いやり、人狩りをした成果ね」
「わたしは、自分の罪を知っています……」
「大局をみて、大勢のために少数を犠牲にする。わたしにもそれはわかる。でも――」
「でも……」ミレイユは、語を継げなかった。
「他にやり方がわからないんですよ。以前は隙あらばハーツを倒そうと思いました。けれど彼には隙などありません。だからわたしとしては、この方法しか思いつきませんでした」
「そうね……。わたしにもどうしていいかわからない。だからあなたを責める権利なんて、本当はないのよ」
「いま思えば、あのときハーツに戦いを挑み、わたしは死んでいたほうがよかったのかも知れませんね」
「そんな!」
「白状します。わたしはあのときハーツに屈服したのでもなければ、策を弄したわけでもありません。わたしは、ハーツに惹かれたのです。あの圧倒的な力と溢れでる覇気に……」
ミレイユは息をのんだ。とっさに反応できずにいる彼女を見つめ、レイルズは哀しそうに微笑した。
「英雄も悪党も、主観によってかわります。わたしはハーツを悪党と認識する一方、英雄と感じてしまったのです。嗤いますよね、ディーン騎士団の一員ともあろうものが……」
「嗤わないよ。ううん、嗤えないよ。わたしも、同じだから……」
ミレイユは視線を空に返し、やるせなさを我慢した。したつもりであったが、溢れる激情を抑える術はなく、熱いものがこみあげるのを堪えきれなかった。
二週間後、魔物が一つの報告を持って現れた。レイルズはついに来たか、と内心で上気していた。しかし続く報告を受けたとき、落胆を隠せなかった。
レイルズは表面、無感情でハーツにあらましを語った。
九月六日、ガガーリン本国よりフェルダン地方への先遣隊がアルデス山へ進軍。兵力およそ一五〇〇。
同月七日、アンデス山中腹で魔軍と交戦。先遣隊は壊滅的打撃を受けて撤退。
まとめあげれば、たったこれだけの出来事である。
「一五〇〇の兵を撃退したか。すこしは使えるな」
ハーツの血がたぎりはじめた。長く安住に染まり、戦いに飢えているようだ。
「油断は禁物です。我が軍の戦力は多く、強力であり、地の利もあったために勝ちましたが、これはごく当然の結果です。次回からはガガーリンも本腰をいれてやってくるでしょう」
「そうかもな。だが、次はオレも出る」
「ハーツ様みずからが?」
「あたりめーよ。オレのものを奪おうとするヤツらは、容赦しねェ」
レイルズは慄然とした。ハーツの瞳とアザが、赤く輝いていた。
「おい、次に敵が来たら、なるべくこっちまでひっぱって来させろ。オレが陣頭に立ってやる」
「わかりました。魔軍のほうへ連絡しておきます」
「楽しくなってきたぜ」ハーツは殺気を垂れ流しながら奥へと消えていった。たぎる血をおさめるには、女が必要だった。
自室にいたミレイユをベッドに投げ出し、ハーツは服を剥いた。最近にはなかった凶暴さが、今日の彼にはあった。
ミレイユはすでに数えきれないほど、この獣に抱かれていた。彼女の体調などおかいまく、彼は欲望を満たすために白い身体を汚しまくった。
彼女はおとなしくハーツの玩具になった。抵抗はしない。感情のない人形のように、彼の行為を第三者の眼で眺めている。心を許すつもりはまったくなかった。それは変わらない。
考えてみれば、おかしなものだ。なぜハーツは自分を抱くのであろう。男としてはまったくつまらない女ではないか。何もせず、ただ寝ているだけで、喘ぎ声すら漏らさない。そんな女を抱いて彼は愉しいのだろうか?
そういえば――彼女はハーツを受け入れながら思った。人狩りが行われ、若い女性も多く捕まった。ハーツは次々と彼女たちを姦していたが、不思議と同じ娘を抱くことはなかった。なぜだろう。なかにはハーツに取り入ろうと、自ら身体を売った者もいるはずだ。容姿だって、充分に満足できる女性がいただろうに……
普段、このような思考をミレイユはしない。彼が終わるまで、ただ醒めた目で見守るだけだ。
(もしかして、この人は……)
ミレイユは信じられない妄想をいだいた。あわてて否定するも、芽生えてきた感情はおさまりがつくものではなかった。
それがきっかけとなっただろうか。この日は彼女自身にも不可解なことに、身体が反応してしまっていた。通常、違和感と不快しか覚えないものが、なぜか突き抜けるような快楽に感じられた。
(いけない、これに身をゆだねちゃいけない!)
そう強く念じつつも、ミレイユは熱い吐息をもらした。
ハーツも変化に気づき、動きを緩やかにして彼女の顔を覗きこんだ。
「どうした女、今日はいつもと違うじゃねぇか」
「ち、ちが……ぅ」
「ああ、たしかに違うな。感じやがったか」
「そんな、こと……」
ハーツは勝利者の笑みをうかべ、ミレイユに快感を仕込みはじめた。
ミレイユは、抵抗できない自分を知ってしまった。あとはただ、自然にまかせて墜ちていくばかりであった。
ガガーリン王都では先遣隊全滅の報を受けて、蜂の巣をつついたような騒ぎが起こっていた。緊急会議が開かれ、軍部は徹底抗戦を主張したが、ボア将軍の反旗を知った文官たちは次に誰が裏切るのかと、軍を信用しきれずにいる。
話が感情論に終始すると思われた矢先、西部連合直轄機関ディーン騎士団の代表が立ちあがった。首魁が賞金首『災厄』ハーツなので、彼だけが特別に出席を許可されていた。
「ボア将軍は、事が起きる以前から今回の転向を計画していました。その場で突然寝返ったのではありません」
「なぜそう言いきれるのだね? 根拠をいいたまえ」
「騎士団の一等事務官がハーツに近づいており、彼から極秘に情報を受けています」
「キミは計画的といったな? ではその情報を、どうやってボアは手に入れたのだ」
「彼をそそのかした人物がいるのです。彼女がフェルダンに魔物が侵攻すると教え、彼をたぶらかしたのです」
正確には、『レイルズが将軍と話をする女の声を聞いた』というだけなのだが、ソゥルは推論を立てて、真実であると確信していた。
「彼女? すると女なのかね? だが、そんな話を簡単に信じるほど彼もバカではあるまい」
「だからこそ準備を整えておき、先陣をきってフェルダンへ向かったのではありませんか。そもそも常識的に考えて、魔物の襲撃からあの短期間でフェルダンへの進軍なんてできるわけがありません。あらかじめ知っていたからこそできたのです」
「なるほど……」会場はざわめいた。
「彼女の狙いが何であるかは、わたしにもわかりません。単に時間稼ぎのために将軍を利用したとも考えられますが」
「時間稼ぎ? ああ、軍を派遣しておけば、こちらが安心するということかね」
「そうです。そして稼いだ時間を利用して、何かを狙っているのかも知れません」
「それはなんだと思うね?」
ソゥルにもわかるはずはない。だが言えるのは――
「これ以上時間をかけるべきではないでしょう。一気に敵を殲滅しなければ、魔物は数を増し、手がつけられなくなります」
「そう、そのとおりだ!」
一人の将軍が熱心に賛同した。そして先鋒を願い出て、国王は是とした。
ソゥルは戦争を好まないが、この際は他に打開策がない。それに、これでミレイユもレイルズも解放できるであろう。彼はほんの少しだけ胸をなでおろすことができた。
しかし、思いもかけない通達が、遠征準備に励む彼のもとへ届く。
『今戦闘行為は、ガガーリン内の内乱である。よって西部連合の介入を認証せぬものとする』
ソゥルは愕然し、ついで怒りに震えた。
「体面にこだわっている場合ではないだろうに!」
届けられた封書を叩きつけ、彼は直訴へむかった。
彼の願いが聞き入れられなかったのは、歴史が証明している。
一〇月下旬、ガガーリン正規軍が本国を出立した。ガストバ経由で南からも軍が派遣されており、兵力は本隊一万、南の別働隊が七千である。どちらかがフェルダンへたどりつけば勝敗は決すると思われた。
全兵力一七〇〇〇! 報告を受けたボア将軍は、腰をぬかさんばかりであった。
「おもしれェ、オレ一人で五千は殺してやる」
ハーツは舌なめずりすると、レイルズに指示をだした。
「東と南、いっぺんに来るとは思わなかったが、こうなれば気にいらねぇが小細工するしかねーな。東の山道はふさいでしまえ。ただでさえ狭い道だ。一万の兵といえど、自由はきかねぇ。各所で足止めして、魔軍により各個撃破しろ。南は領土深くまで侵攻させ、伏兵をもって背後を襲わせる。正面はオレが迎え討つ」
「……わかりました」
レイルズは冷や汗をかいていた。もし彼がハーツの立場なら同じ判断を下すであろう。策もなく真正面から挑むと思ったのは、彼がまだ、ハーツの戦術眼を知らなかったからだ。
伝令がとび、各自が準備に追われるころを見計らい、レイルズはミレイユに接近した。
「これはチャンスです。ハーツも外へ出ます。その隙に領内から逃げてください」
ミレイユは呆然とレイルズを見やったが、やがて首を振った。
「なぜです? もう機会はないかもしれないのですよ」
「ごめんなさい。わたしは、もう逃げないと決めたの」
「……ハーツを、愛してしまったのですか?」
ミレイユはしばらく考えたが、やがてまた首をふった。
「そうじゃない、と思う。ただわたしは見届けたいのよ。彼の行く末を……」
それは、レイルズがかつて感じた気持ちでもある。彼はもう、説得さえできなくなってしまった。
「そうですか……。ではわたしもごいっしょします。ともに終焉の日まで、がんばるとしましょう」
「そんな……。あなたこそ逃げて!」
「いえ、ソゥルさんが迎えにくるまでここで待ちますよ」
「……うん」
のちに『ディーン騎士団年代付記』を著述する青年は、憂いのない笑顔をうかべた。
一一月一四日、この戦いはガガーリン軍の敗北で幕を閉じた。