夢現 2
・・・違和感は徐々に積もっていった。
それは、音もなく降り積もり消えない真冬の雪の様に重量を増していく。
母は出張からなかなか戻らない。
携帯から連絡は入るもののそれだけだ。
こんなに長く母の姿を見なかったことは、なかった。
料理は、時々とんでもないモノができた。
父が料理したわけではない。作ったのは美咲だ。料理の腕が悪いわけではないと美咲は言い訳でも何でもなく思う。
おかしなのは・・・食材だ。
見た目は普通なのに・・・中身が時々とんでもないのだ。
大根が甘くて、りんごが辛い。
砂糖はともかく、塩も小麦粉もみんな甘かった。
総じて白いモノは甘く、赤いモノは辛いようだ。
まるで外見だけしか知らない者がでたらめに作ったかのような食べ物に美咲は困惑する。
美咲が変だと騒ぎ立てても、父はそういうこともあるんじゃないかとおっとりと宥める。
美咲はまるで、自分が間違っているかのような感覚を覚えて・・・黙った。
おかしいのは、家の中だけではなかった。
学校の授業が少しも進まないのだ。
最初は1学期の復習をしているのだと思ったが・・・いくら何でも進まなすぎる。
毎日毎日まるで、この先の授業がわからないかのように同じ内容が繰り返される。
美咲が習った事以外の授業は、決して行われなかった。
ショッピングも同じだ。
お気に入りの雑貨屋には、美咲の気に入った商品しか並ばない。
以前は、何これ?といった美咲の感性にさっぱり合わないモノもあったのに・・・どんなに探してもそんなモノは見つからなくなってしまった。
何より・・・新商品が出ない。
この店だけでなく、どんな店にも美咲の知らない商品は並ばなくなった。
・・・一番堪えたのは・・・本だ。
新刊が出ない。
それどころかどの書店にも美咲が読んだことのあるもの以外の本や雑誌がなくなってしまった。
これは本大好き少女には大打撃となる。
・・・世界は、おかしくなってしまった。
この世界には、美咲が既に知っているモノ、美咲の知識としてあるモノ、美咲の記憶の中にあるモノしか存在しない。
・・・しかもその記憶を外から眺めたモノなのだ。
だから外見と中身が一致しない。
この世界は、美咲が見た世界を・・・忠実に再現したものになってしまっていた。
・・・それでも、その異常な世界の中で美咲は暮らしていた。
おかしいと思う。・・・思うのだが、毎朝起きて、父が笑って「おはよう。」と言ってくれると・・・「おはよう。」と返してしまう。
いろいろ言ったり聞いたりしたいと思うのに・・・言ったら最後、目の前の父を失ってしまうような気がして・・・言えなかった。
父が居て、母も出張中とはいえちゃんと居て、当たり前の家族3人の生活は・・・美咲の夢の形をしていた。
決して叶うはずのない“夢”の・・・
美咲は、母子家庭に不満を持ったことなどない。
母は優しく時には厳しく美咲を愛してくれた。
母の愛情を不満に思ったことも不足に思ったこともなかった。
ただ・・・やはり、“お父さん”という存在には・・・憧れた。
お友達には当たり前にいる“パパ”が、どうして自分にはいないのだろうという疑問を少しも感じなかったといえば、嘘になる。
“お父さん”が・・・欲しかった。
自分だけの“パパ”が欲しかったのだ。
この世界には、その“パパ”がいる。
どんなにおかしくて、有り得ない世界でも・・・いや、多分有り得ない世界だからこそ、美咲にいるはずのない“パパ”がいる。
そう思えば、この世界の有り得なさも受け入れられた・・・受け入れたかった。
美咲はそう願わずにはいられなかった。
目が醒めて、視界に飛び込んできた白い天井を見詰める。
見慣れた四角いボードの天井。
首を横に向ければ、ぬいぐるみだらけの勉強机が目に入る。
机の脇にはファンタジー小説が詰まっている書棚がある。
・・・見慣れた自分の部屋の何でもない光景。
なのに美咲は・・・違和感を覚える。
・・・足元が軽い。
そこに丸まって眠っていた白い獣がいないから。
目が覚めた時、もの凄く格好いい男の子に抱き締められていて、びっくりして息が止まりそうになることは・・・もうない。
海の青の竜の瞳が決まり悪そうに笑って自分を見詰めることは、ないのだ。
(・・・夢みたいだった。)
そうだ。
今のこの状況よりよっぽど夢のような出来事を思い出し・・・呆れる。
・・・自分が異世界トリップをしてしまうだなんて。
(しかも、ママと一緒だし・・・)
どれだけ有り得ないんだと思ってしまう。
・・・何が夢で、何が現実だか、もうわからない。
掌サイズの妖精のような精霊たち。そのふんわりとした感触まで、はっきりと思い出されるのに・・・
明け方に夢を見た。
明け方に見る夢は、正夢だと聞いたことがある。
朱色の髪と目をした男の人が、苦しそうに自分を見ていた。
笑顔がとってもステキな人なのに、もったいないなと思ってしまった。
・・・そう、その人が笑うと、とってもステキなことを美咲は知っている。
それどころか、彼が本当は深緑の髪と目をした王子さまで・・・キスが・・・とても上手いことも知っていた。
自分がそのキスに溺れて何も考えられなくなるくらい上手いってことを。
(・・・バーン。)
夢の中の・・・美咲の恋人。
涙が頬を伝って落ちる。
本当に夢だったのだろうか?
強く抱き締められた、あの腕も・・・確かに重なった、あの唇も。
(夢なんて・・・イヤだ!)
美咲は・・・わからない。
(どっちが夢?・・・それとも、どっちも夢なの?)
心の奥から沸き上がる、恐怖に震える。
現実の自分はどこに居るのだろう?
(ママ!)
母に会いたい!
母ならきっと美咲に正しい答えをくれる。
「バカねぇ“美咲”ったら、決まっているでしょう?」と呆れたように言って、教えてくれるのだ。
・・・母は、まだ出張から戻らない。
美咲に答えをくれる人は、今はいないのだ。
「おぉい!遅刻するよぉ!」
階下から父が呼んだ。
「!・・・は〜い!」
美咲は大きな声で返事をする。
・・・いつもの日々が、始まった。
明け方にまた夢を見た。
深緑の髪と目をしたバーミリオンが美咲の名を呼んでいた。
「“美咲”!」
呼ぶたびに苦痛に顔を歪める。
「止めて!!バーン!!」
美咲は必死に止めるのに、バーミリオンは呼ぶことを止めない。
ボロボロに泣いて目が覚めた。
今日は日曜日だ。
そんなに早く起きることはないよと言った父だが階下でガタガタと動く気配がする。掃除でもしているのかもしれない。
(・・・起きて、ご飯作らなくっちゃ。)
朝食は美咲が起きなければいつまで経ってもできない。
絶対作っちゃダメだと厳命してあるのだ。
美咲は頭を振って起き上がった。
「パパ!おはよう。今起きるわね!」
階下に向かって怒鳴る。
「えぇっ?まだ早いよ。もっと寝ていても良いよ!」
とことん娘に甘い父だ。
美咲の頬に、また涙が流れる。
・・・美咲は、本当はわかっていた。
(だって・・・)
唇を噛みしめて下を向く。
背中を押してくれる母はいない。
だから自分で動かなければならないのだ。
そう決心する。
支度を着替えて、美咲は顔を洗うために階下に降りる。
泣き腫らした赤い瞳は、強く輝いていた。
「遊園地?」
父は不思議そうに首を傾げる。
「うん!行きたい!」
美咲の言葉に優しく笑う。
「それはかまわないけれど、随分急だね。」
「だって行きたいんだもの!」
娘の我が儘に仕方ないねと言いながら、どこか嬉しそうに父は立ち上がる。
「あ!でも、パパは心臓が悪いから怖い乗り物はダメだよ。」
「大丈夫!ジェットコースターとかは止めるから。メリーゴーランドとか・・・観覧車に乗りたい!」
それなら大丈夫かなと笑った父の腕に掴って早く早くと急かす。
嬉しそうな親子は相談して、それほど規模の大きくない、だけど観覧車だけは立派な近間の遊園地を目的地として選ぶ。
そこなら日曜日でもそんなに混まずに楽しめそうだった。
善は急げと慌てて支度して、バスと電車を乗り継いで目当ての遊園地に辿り着く。
・・・そしてそこで、目いっぱい楽しんだ。
思ったとおり空いているから、いろんな乗り物に待ち時間なしで乗る事ができる。
メリーゴーランドにティーカップ、ゴーカートに回転ブランコ・・・お化け屋敷は絶対ダメだと父が頑なに拒否をして鏡の迷路に入る。
まるで小さな子供が乗るようなものばかり選んで・・・最後に観覧車に乗った。
「見て見て、人があんなに小さい!」
「あんまり動くと危ないよ。」
父は、観覧車さえ頂上近くは怖そうだった。
「パパったら・・・」
美咲はクスリと笑う。
・・・もの凄く楽しかった。
だから、もう、これで良いのだと思う。
観覧車が一番高いところにさしかかる前・・・美咲は父に言った。
「ねぇ、パパ・・・名前を呼んで。」
父は・・・息をのんだ。
「・・・何を?」
「パパ・・・私の名前を呼べる?」
父の顔から・・・スッと表情が消えていく。
「気がついていたわ。・・・パパ、私の名前をいっぺんも呼んでいない。呼びたくないんじゃない。呼べないのよね。・・・私の名前には、王さまの守りがついているから。」
美咲は目の前の父を・・・父の姿をとっているモノを、哀しそうに眺めた。
「パパ・・・貴方は、誰?」
その瞬間、一番高い所についた観覧車が・・・ガクンとはずれて急降下した!!




