夢現(ゆめうつつ) 1
目が醒めて、視界に飛び込んできた白い天井に、一瞬違和感を覚える。
(え?)
見慣れた四角いボードの天井だ。何が気になったのか、わからない。
首を横に向ければ、小学生の頃から使っている勉強机が目に入る。所狭しとぬいぐるみが乗っていて、母からは「どうやって勉強しているのぉ?」と嫌みのように言われている。
机の脇には大きめの書棚があって、お気に入りのファンタジー小説がぎっちぎちに詰まっている。そろそろリサイクルショップに持って行かなくてはと思っていたところだ。どれも手放しがたくって最近の一番の悩みの種だった。
・・・どこも何も変わっていない。
当たり前だ。変わるはずなど何もない。
もぞもぞと寝返りを打って反対側を向く。
青い遮光カーテンとレースのカーテンが開けられていて朝の光が差し込んでいた。
(ママったら、また勝手に部屋に入ってカーテンを開けたのね。)
確か寝る前にはカーテンを閉めて寝たはずだ。
・・・多分そうだと思う。
寝る前の記憶が・・・とんでいた。
ぼんやりと窓を眺めて・・・すずめだろうか、小鳥がぱたぱたと外を飛んでいくのを見る。
(・・・赤くない。)
なんだかぼーっとそう思った。
熱帯地方でもあるまいし、赤い小鳥なんて、日本のこの辺にいるはずがないのに・・・。
「美咲〜っ!起きてるのぉ?遅刻するわよぉ。」
階下から母の声が響く。
「は〜い!」
美咲は、霞のかかったような頭をすっきりさせるように大きな声で返事をした。
(起きて、支度して・・・学校へ行かなきゃ。)
いつもどおりの朝が始まるのだ。
毎日毎日繰り返される・・・平凡な日常。
美咲は、勢いをつけてベッドの上へ起き上がった。
学校の制服に着替え、身支度を調えて美咲はダイニングのテーブルにつく。
美咲の学校は、可愛い制服が有名で美咲もとても気に入っている。
ついつい鏡で時間をかけてチェックしてしまったため急いで朝食を食べないと遅刻しそうだ。
「おはよう!パパ。」
既に焼いてあるトーストに手を伸ばしながら、美咲はテーブルの向かいの席で新聞を読んでいる“父”に朝の挨拶をした。
「おはよう。」
読んでいた新聞をたたみ、空いている椅子の上に置きながら、美咲の父が挨拶を返す。
真っ直ぐな黒髪に切れ長の瞳。あまり体が丈夫ではないために色白な父は、美咲によく似ていた。
(違うか・・・私がパパに似ているんだ。)
穏やかで娘に甘い優しい父は、遅刻しそうで焦って朝食を食べる娘を笑いながら見守っている。
「落ち着いて、ゆっくりよく噛んで食べるんだよ。・・・大丈夫。学校は逃げたりしないよ。」
「学校は逃げなくてもぉ、門は閉まるのよねぇ。遅刻ばっかりしているとぉ大学の推薦もらえないわよぉ。」
キッチンから聞こえるのんびりした口調の母の言葉は、美咲の胸にグサリとささる。
美咲の高校は生徒指導が厳しい。高校にもなって毎朝遅刻者のチェックなどしなくとも良いのにと美咲は思う。
慌てて残りの朝食を牛乳で流し込むように食べると席を立った。
「あ〜あぁ。・・・せっかくのママの料理が。」
味わいもせず食べる娘に父は大げさにがっかりする。
美咲の両親はバカップル夫婦だ。結婚して十何年も過ぎているのに父は母を大好きで、母の作る毎食の料理を感激しながら食べている。母は母でそれを当たり前の事として受け止めていた。
感謝も何もなく早食いする娘の態度は父をがっかりさせる。
美咲にしてみれば遅刻がかかっているのだ。感謝などしている暇はなかった。
「ご馳走様!」
言い置いて走り出す。
「歯ぐらい磨きなさい!」
「学校へ行ってから磨く!!」
毎朝繰り返される、ドタバタ騒ぎ。
父は呆れたように、手を振っていた。
「行ってらっしゃい。」
「行ってきまぁす!!」
鞄を掴んで美咲は家を出る。
何か忘れたような気がしたが、思い出せず駆け出した。
・・・そういえば今朝は、キッチンに入ったままの母の姿を見なかったなと思ったのは、学校に着く寸前だった。
「えっ?ママ出張?」
「そうだよ。先週からそう言っていただろう?・・・忘れていたのかい?」
学校から帰って、制服を脱いで私服に着替えた美咲は、「夕食は何が食べたい?」と聞く父に、きょとんとしてしまい、母の出張予定をすっかり忘れていたことに気づかされた。
「ちょっと長期の出張になるけど大丈夫かって、あんなに気にしていたのに・・・聞いていなかったのかい?」
呆れたような父の言葉に、えへへと笑って誤魔化す。
「でも、珍しいねママが長期出張なんて。」
母はあまり出張しない。
母の勤めている会社は結構大きなグローバル企業だ。
本社はアメリカだし、日本どころか世界各地に支社や支店があると聞いている。
それにも関わらず母が泊付きの出張に出たことは数えるくらいしか覚えがない。
母の仕事の内容は知らない。
ただ、母は凄く優秀な社員のようだ。
毎日かっちり定時に帰り、残業はもちろん、出張もほとんどしない母が優秀だなんて思ってもいなかった美咲だったが・・・その思い込みは、自分の高校入学時の騒動ですっかり覆されてしまった。
美咲の高校進学が決まった頃、当時美咲が通っていた中学校に母の会社の上司だと言う人が美咲を訪ねて来たのだ。
担任共々校長室に呼び出された美咲は、進学先をアメリカのハイスクールに変えて欲しいとその上司の人に頭を下げられた。
「え?」
寝耳に水とはこのことだった。
何でも母をアメリカの本社に転勤させたいのだが母がうんと言ってくれないのだそうだ。
本社は何が何でも母を引き抜きたい。何故承知してくれないのだと理由を探って・・・美咲の存在に行き当たった。
母が残業しないのも、泊付きの出張に行かないのも、突き詰めれば・・・娘を1人にしたくないという理由だった。
母の理論によれば、娘を1人置いて海外赴任など、もっての外だし、学校のある娘を勝手のわからない海外に連れて行くのも論外だった。
美咲の高校進学時が絶好の機会だと母の上司は中学生の美咲に頭を下げた。
日本人学校でも現地の有名校でも好きな学校に入学させてくれるとその人は言った。
美咲も担任も急な話に目を白黒させ、学校に高価な芸術品を寄贈すると言われた校長が舞い上がって興奮している間に・・・この話は母にばれて白紙撤回された。
烈火のごとく怒った母が会社を辞めると言いだして、上司どころか会社の社長さんまで出てきて平謝りに謝られてこの話は持ち上がった時と同様にあっという間になくなった。
つまりは、それほどまでに母は長期出張を避けていたはずなのだ。
(あ?・・・でも、パパがいるのだから別にママがいなくても平気よね。)
むしろ、何で今まで、そこまで長期の出張を避けていたのか不思議だ。
(本当にママったら心配性なんだから。)
美咲は呆れながら、クリームシチューが食べたいなと父に頼む。クリームシチューくらいなら男の父でも作れるはずだ。
美咲に甘い父は、わかったと頷いてキッチンに入っていく。
美咲は母がいないのならと掃除や洗濯の手を回そうと動き出す。
途中で戸の開いていた仏間の前で立ち止まった。
美咲の両親は、共に自分の親、つまり美咲にとっては祖父母を早くに亡くし、父の叔父と母の遠縁の夫婦に引き取られた。その時点で祖父母の家とは縁が切れ、祖父母の位牌はここには無い。両親を引き取った夫婦はまだ存命だが、両親があまりに若い内にいわゆる“できちゃった婚”をしてしまったため世間体が悪いと気を損ね、以来疎遠になっているという。
つまり・・・仏間といっても、この部屋には何もないはずなのだ。
なのにどうしてだろう?美咲は自分が毎朝毎晩この部屋に出入りしていたような気がするのだ。
今朝の何か忘れたような感覚がふと思い出される。
(・・・私?)
「お〜い!鍋はどこかなぁ?」
考え込み始めた美咲をキッチンから父が呼んだ。
「えぇっ!パパったら、そんなことも知らないの?」
美咲は慌てて父の元へ戻る。
開いたままだった仏間の戸が、誰も居ないのにスッと閉まった。
「何?これっ?!」
美咲はぎょっとしてスプーンを置いた。
味見をしてと言われて差し出された、クリームシチューの入ったスプーンだ。
赤いニンジンと緑のブロッコリー、黄色のコーンの入った見た目完璧なクリームシチューは・・・とてつもなく甘かった。
「え?どこかおかしい?」
「おかしいも何も、甘いじゃない!パパったらお砂糖でも入れたの?!」
父は目をぱちくりさせた。
「甘いといけないのかい?・・・クリームシチューなんだから甘いのだと思ったのだけれど。」
美咲は呆れ果てた。
「シチューが甘いはずないでしょう!?もう、パパったら何を言っているのよ!」
いくら初めて作ったからと言って、いままで何度もシチューは食べてきているはずなのに、こんな間違いどうかしていると美咲は思った。
「もう!今更作り直している暇なんかないじゃない!どいて!パパ!ウィンナーでも何でも焼いて適当に夕飯作っちゃうから!」
美咲は怒って父をキッチンから追い出す。
ゴメンネと笑って、何だか嬉しそうに父は出ていった。
美咲は大きくため息をつく。
今まで母が何もさせなかったのがいけないのだと心の中で文句を言った。
母は自分には料理くらいできるようにならないとと言って、一緒に料理をしていたのに・・・
(・・・2人きりなのだから、どちらかが作れない時でも大丈夫なようにって・・・)
そう思って・・・手が止まった。
(・・・2人きり?)
「ねぇ!お皿くらい並べようか?」
急に父に声をかけられて、考え込んでいた美咲はビクッと震えた。
「え?あ・・・うん、お願い。」
「わかった。」
父は、いそいそとお皿を出し始める。
何だかんだと美咲に話しかけてきて、それに応えている内に美咲はついさっき感じた疑問を・・・忘れた。
母のいない夕食は・・・もの凄い手抜き料理になって・・・美咲は今後2度と父には料理をさせないと宣言したのだった。




