平定 32
竜王は、自分の体に力が入らないという初めての感覚に愕然となった。
(?!・・・何だ?)
魔王が“主”を攫うのをみすみす見過ごさなければならないという血の逆流するような憤りが、思いもよらない事態で解消され・・・竜王はホッとしていた。
主に知られればその怒りに触れるかもしれない。
放心状態の我が子は牙を剥くだろう。
だが、それが竜王の嘘偽りのない思いだった。
(・・・その反動か?)
そう思い、しかし即座に否定する。
この自分の力を根こそぎ奪われるような感覚は・・・違う。
王宮にいた人間たちがバタバタとその場に倒れる。
バーミリオンを捕まえていたカイトも2人共にくずおれた。
倒れたバーミリオンが苦しみにのたうって・・・その体から紅色の魔物が転がり出る。バーミリオンの髪と目は本来の深緑に戻っていった。
アッシュやタンも、精霊王たちも耐えきれないようにガクリと膝をつく。
「!!・・・うっわぁ〜!何だこれ!?」
ブラッドが情けない悲鳴を上げて自分の両手で自分の体を抱き締める。・・・まるで、自分の中から出ていく何かを押し留めようとするかのように体を丸めた。
自分が抑え付けていた黄蘗という魔物が体をぐったりと弛緩させ断末魔のように痙攣する。
ぴーちゃんとポポもその場にじっと蹲っていた。
異変に動じ、慌てて母を見た竜王は・・・目を瞠った。
人型になった自分のうなじの毛が逆立つのを感じる。
恐ろしい程の力が、母を中心に渦巻いていた。
竜の瞳を見開く。
目に映した世界の“力”は、ありとあらゆる存在から立ち昇り、母へと吸い込まれていた。
「返しなさい。・・・私の“力”を。」
それは・・・静かな声だった。
しかし、逆らう事を許さない絶対者の声だ。
女神シャトルーズは、創造神だ。
世界の全てが元をただせば、彼女の“力”から創られている。
今、母は・・・その、己の力を取り戻し・・・神として復活しようとしていた。
ただの人間であることを止めて・・・神に戻ろうとしていた。
おそらくは、自分の娘を助けるために。
全ての存在から“力”が抜けだし母へ・・・女神シャトルーズへと流れ込む。
強引に自分から奪われる“力”を竜王は呆然と見詰めた。
「主!!」
竜王は、切羽詰まった声を上げた。
この事態は・・・母が女神へと戻ることは、母が頑なに避けていた事のはずだ。
母は人間で有り続けることに固執していた。
なのに・・・
娘が魔王に攫われて、手段を選んでいられなくなったのだろうが・・・
激情にかられた母の今の行動は、彼女の本意ではないはずだ。
全てが終わったときに必ず母を傷つける。
「主よ!!」
竜王の心からの呼びかけは・・・母に届かない。
人型の竜王がギリギリと唇を噛みしめる。
切れた口の端から血が流れ出た。
竜王にしてみれば母が女神に戻ることは願ってもないことだ。
この世界で命つきるまで母と共にいられる。
だが、それが・・・母の後悔を伴うものでは意味がない。
母にはどんな憂いも抱えて欲しくなかった。
(クッ!・・・)
自分の声が届かないことに絶望するような焦りを感じる。
「・・・何とかしろ!王よ!!」
竜王は地の底から響くような怒声を上げた!
・・・どれほど不本意でも、上げざるをえなかった。
そして・・・そのタイミングをまるで待っていたかのように、母の腕輪から王の声が響いた。
「シャル。」
竜王に見せつけるかのような小さく静かな声。
・・・しかし、母はピクリと体を震わせた。
「シャル・・・止めるんだ。」
「・・・ジェイド。」
母の声は・・・まるで泣いて縋るかのようだった。
「君が此処で女神に戻ってどうする?・・・君は人として、美咲と向こうの世界に帰りたいのだろう?」
「・・・ジェイド・・・でも!」
「こんなところで神に戻るなんて、今までの苦労を全て無駄にするつもりかい?」
母は、本当に泣き出しそうだった。
「でも・・・美咲が・・・」
「今戻るくらいなら、最初から私の元に来れば良かっただろう?その方がずっと簡単だった。君は女神に私は神に戻り、世界を支配する。何の面倒もなかったはずだ。」
「ジェイド・・・」
泣き出しそうな母に、王の声は容赦なかった。
「許さないよ。シャル。・・・私をこんなにも苦しめて・・・途中で諦めるだなんて。」
その言葉に、母は目を瞠り唇を噛みしめる。
王の声は・・・一転宥めるように優しくなった。
「大丈夫だよ。魔王は・・・“あの子”は美咲を傷つけたりしない。・・・美咲が君を呼び寄せる餌になると直ぐにわかるだろうからね。」
“あの子”は頭がいいと王は話す。
腹立たしい事だが、それは正しいものの見方だった。
美咲は母への人質となる。
その大切な人質を傷つけるようなことを魔王はしないと王は言うのだ。
「それに・・・美咲は強い。強くて優しい。・・・私たちの自慢の娘だろう?」
王の言葉に母は、思いっきり顔を顰めた。
「貴方の娘ではないわ。」
「私の娘だよ。・・・とても大切なね。」
母は・・・呆れたように苦笑した。
今まで何度か繰り返された言い合いは、母の心を落ち着かせた。
竜王は、いつの間にか“力”の流出が止まった事を感じた。
渦を巻いて荒れ狂っていた力が・・・母の心に合わせて、徐々に静まっていく。
「ジェイド・・・こんな時は優しく手を差し伸べて、”私がいるから大丈夫だよ”と慰めてくれるものよ。」
王は腕輪の中でため息をもらした。
「残念だけれど、私はここから動けない。・・・そんなことは、そこにいるチビ竜たちに任せるよ。君がそうされても喜んだりしないことは、よく知っているからね。」
そんなことはないわと母は言って・・・その言葉を待っていたかのようにアッシュとタンが母の両脇から母を抱き締めた。
実に素早い立ち直りを見せた対の魔物に竜王は呆れかえる。
困った子ねぇと母は笑う。
「・・・ジェイド、私は人間だわ。人間として皆に助けてもらって・・・やれることをする。協力してくれるわね?」
母は、力強く言った。
「もちろん。・・・私のシャル。愛しているよ。」
甘い王の言葉は、母の耳を素通りしたようで、何の反応も返らないことに、王はまた、ため息をこぼす。
竜王は安堵の息を吐いた。
本当は、母を宥め落ち着かせるのは自分の役でありたかった。
しかし自分が・・・まだまだ母にとって半神である存在に敵わぬことはわかっていた。
それでも・・・
母を諦めはしないと思う。
諦めることなど、できはしない。
自分の中に刻まれた圧倒的な存在が、手を伸ばせば届く直ぐ近くにいるのだ。
主を失っていた長い時間に比べれば、今のこの状況は夢のような幸せなのだ。
諦める必要など・・・どこにも無い。
「たっちゃん、足元の魔物を起こしてくれる?」
立ち直った母の言葉に笑顔で従う。
母は竜王を見て驚いたように目を見開くと、黄蘗を引き摺って近づいてきた竜王の唇に手を伸ばし指を這わせた。
そこは、先ほど噛みしめて切った場所だった。
乾いた血がこびり付いている。
慌てて治すことを忘れていたのだと竜王は気づく。
心配そうな顔で優しく触れる母の指に、ジンと痺れるような感覚が走る。
「・・・大丈夫?」
「直ぐに治る。・・・舐めてくれれば。」
ダメ元と思い強請ってみる。
アッシュとタンが母の両脇で忌々しそうに舌打ちをした。
母は・・・楽しそうに笑った。
おいでおいでと手を動かすから、屈んで顔を近づける。
母の唇が・・・傷をいたわるようにそっと竜王の唇に触れた。
小さな舌が伸びてきてペロリと舐める。
・・・信じられないことに竜王は顔が赤らむのを感じた。
何百年も生きてきて幼竜時代を除けば、ほぼ初めての経験だ。
「可愛い・・・」
至近距離で母が笑う。
それは褒め言葉だろうか?
「人間の私のために・・・貴方の力の全てを捧げなさい。」
傲慢な母の言葉に、抑えきれぬ喜びを感じて竜王は誓う。
「何時いかなる時も・・・」
母は美しく笑った。
「貴方たち全ての力を利用してあげる。・・・このままで何ができるか見せてあげるわ。」
いつもどおりに戻った母の言葉に安心して竜王たちは深く頭を下げた。
魔王との戦いが始まった。




