君よ、幸せであれ
「……どうして、あたしじゃ駄目なの?」
「お前と一緒にいると、俺はきっと、お前を通して”アイツ”を見てしまうから」
「あたしはっ! あたしはそれでも……!」
茜色に染まる病室の中、彼女――氷野葵の求めに俺は黙したまま首を振る。そんな俺の答えに、彼女の体は小刻みに震え、肩甲骨の辺りまで伸ばした亜麻色の髪がそれに合わせて微かに揺れる。空色の瞳一杯に涙を浮かべながら、それでも必死に泣くまいと涙を堪える葵。普段の勝気な姿が、今の彼女からはまるで想像出来ない。彼女には明るく快活な笑顔こそが似合うというのに。しかし、そんな彼女に悲しみの表情を浮かべさせているのは、他ならぬ俺自身だ。
だがそれでも――俺は彼女の求めに応じるわけにはいかない。
「お前が俺を本気で想ってくれているのは分かる。本当にありがとう。俺みたいなヤツを好きになってくれて」
でもだからこそ、お前に不誠実なままで付き合う事は出来ないんだ。そして一度だけ、視線を横にやる。その先にいるのは、真っ白なベッドの中で眠り続ける、”葵と瓜二つの女性”――氷野茜の姿が。
――完全な拒絶。
その答えに、とうとう葵は俯いてしまう。静か過ぎる病室の中に彼女の押し殺した嗚咽が木霊するが、俺に出来るのは、ただただ目の前の事実――俺を好いてくれた女性を泣かせてしまったという事から、目を逸らさない事だけだった。
◆
彼女――氷野茜との最初の出会いは高校の時だ。
日常に大した充実感も期待も持つことの出来なかった俺は、部活に入る事も無くその日その日をダラダラと適当に過ごしていた。そんなある日、いつもの様にクラスメイト達とくだらない話で盛り上がった後帰ろうとして、ふと教室に忘れ物をしている事に気が付いた。
別に慌てる事はないのだが、忘れたままだといつまでも忘れてしまいそうだったので、その時は素直に教室へと向かった。そして、ボーッとしながら椅子に座っている茜と出会った。いや、正確には扉の隙間から彼女の姿を見ていた、というべきか。
氷野茜は、クラスどころか学年、下手をすれば学校の中でも指折りの美少女だった。
腰まで伸びる艶のある亜麻色の髪は風に靡くと甘い香りを振りまき、陶磁器の様な病的なまでの白い肌はシミ一つなく、対象的に桜色の唇は妙に艶かしい。顔立ちはまるで人形を思わせるほどに整った小顔で、普段は伏せがちな目は黒曜石の様に輝き、鼻梁はスッと通っている。
そんな彼女は、確かに見た目の良さから男子から絶大な人気を誇る。だが普段の彼女は大人しすぎるきらいがあるために……いや、この表現は妥当ではない。より具体的にいうのであれば、儚げで神秘的な雰囲気さえ感じさせる彼女は、どこか別の世界の住人の様な、近寄りがたい雰囲気を醸し出している。その為、殆ど彼女と交流を持つ人間はいない。唯一の例外であるとすれば、彼女とは見た目以外殆どが正反対な双子の姉である葵くらいだろう。
(そして俺もその内の一人であり、彼女とは殆ど話した事はないんだけどな……)
名前と同じ、茜色に染まった教室の中で一人ポツリと存在している彼女の姿は、この世のものとは思えないほどの美しさを放っている。先ほどからただ椅子に座っているだけで何をするでもない彼女に若干の興味を惹かれたが、だからといってこのまま時間を潰すのも勿体無い。それに、俺は忘れ物を取りに来ただけであって、何も彼女に話があるわけではないのだ。だから――……そう。少し気まずさはあるが、ちょっと挨拶だけしてさっさと帰るとしよう。
そう思い、深呼吸を一つした後。俺は教室の扉を開け放った。
「よう」
「……」
何気ない風を装い声をかければ、ゆっくりと彼女はこちらに顔をむけた。その際、自然と流し目になった彼女の眼差しにドキリと胸が高鳴ったが、必死に悟られまいと平然を装う。
「ちょっと忘れ物をしちまってさ。氷野は帰らないのか?それともやっぱあれか、何時も一緒に居る姉貴でも待ってんのか?」
「あ、えっと……。そんなところで――……」
只の場つなぎのつもりでかけた言葉。
「あの、すみません……」
「ん?」
しかしその言葉は
「――貴方……誰、ですか?」
「……は?」
思いがけない言葉で返された。
◆
いくら数えるほどしか話した事がないとはいえ、『貴方誰ですか?』という発言には流石に傷付いた。というか驚きを隠せなかった。しかも失礼極まりない発言をした氷野茜自身が、何故か顔面蒼白になり取り乱し始めるのだからますます訳が分からなかった。
結果として、彼女が俺を覚えていなかった事も、直後に狼狽しだした事の理由も、全ては直後に教室に現れた氷野茜の双子の姉、葵が説明してくれた事で解決した。
結論から言うと、氷野茜は特殊な記憶障害を持っているらしい。原因は小学生の頃の交通事故で、その頃から度々記憶がリセットするという難病に罹ってしまったという。因みにリセットする対象は対人関係のみという特殊なもので、これまでに培ってきた勉強や生活面での知恵などはそのまま残るらしい。だがどういう訳か、人との繋がりだけが消えるのだという。それも、ランダムな時間に。
今や完全に覚えているのは家族の顔くらいなもので、それ以外は事故以前の人物の顔、即ち彼女の中では事故以前で人々との関わりは止まっている状態なのだそうだ。
その為彼女は出来るだけ人との接触を断つ事で万が一障害が発覚する事を隠し、自宅や放課後の教室でリセットされた記憶の復旧――つまりは思い出し作業を行っているという。
そしてこの出会いから、俺達の奇妙な関係は始まった。
切欠は、葵の一言だった。彼女曰く、『秘密を知った以上、何かフォローしなさい!』との事だった。別に知りたくて知ったわけじゃ無いし、寧ろそんな面倒な事を何故俺が。と、反論したかったのだが、茜の今にも泣き出しそうな悲しい笑顔に負けた俺は、彼女達に協力する事を受け入れた。
それからは本当に大変だった。何せ彼女の記憶のリセットは本当に何時起きるか分かったものではなく。長い時で一週間、短いときなどたったの30分でリセットが起きた事がある。そして更に問題だったのが、リセットが行われる度に、協力者であるはずの俺の事まで忘れられるのだから堪ったものではなかった。
それでも何とか彼女の手助けをしている内に、次第に俺は彼女と過ごす時間が楽しく、堪らなく大切な物へと変化している事に気付いた。そして、そうだと気付いてからの俺の行動は早かった。思春期の衝動を抑えきれなかった俺は、葵が居ない隙を見計らって茜に告白をした。
その時の俺は、仮に断られたとしても構わないと思っていた。何故ならいずれ訪れるだろう記憶のリセットがある限り、傷付くのは俺だけで済むのだ。多少関係がギスギスしたとしても、そうなってしまえば茜が気に病む必要はない。そう、ダメ元で彼女に想いを伝えたのだ。
しかし俺の予想は裏切られた。喜ばしい事に、良い方面で。
どうやら茜も少なからず俺の事を想ってくれていたらしく、それは、記憶のリセットが行われても彼女の心の中に残っていたらしい。
他の誰かを忘れても、俺の事を覚えてくれている。その事実が、俺には堪らなく嬉しかった。
かくして、ただのクラスメートにして秘密を共有するという関係から一転、恋人へと発展していった俺達はその後、順調に関係を築き上げていく。そして喜ばしい事に、付き合い始めてからというもの、茜の記憶力が徐々にではあるが持続するようになってきた。まるで小説の様な出来事に、医師からは理由は分からないと言われた。しかし同時に言われた『二人の愛のなせる技かも知れないね』という言葉に、不覚にも嬉しさを禁じえなかった。
そうして高校を卒業後、共に大学へと進学。茜の親からも公認され、一方的に支える関係から徐々に支えあう関係へと発展していったある日、思いがけない悲劇が訪れる。
茜が交通事故にあったのだ。
しかしそれは、俺のとって本当の悲劇の前触れでしかなかった。
◆
「貴方――……誰、ですか?」
「あ、かね……?」
頭部を強打した茜はしかし、奇跡的に一命を取りとめる事に成功。俺達は彼女の無事を喜んだ。そして同時に、彼女の記憶力は回復。これまでの様に突如として記憶のリセットが行われることは無くなった。 しかし同時に、茜はこれまでの記憶――またしても対人関係の大半を失っていた。それはまるで、過去の思い出を犠牲に症状が無くなったかの様だった。しかしそれは、俺にとっての地獄の始まりでしかなかった。
「すまない。茜の為に……あの子と別れてほしい」
そういって、いつもの様に見舞いに来た矢先、茜の両親から頭を下げられた。
俺との記憶を失った彼女にとって、歳の近い知らない男が親身になって近づいてくるという現実は痛く苦痛だったらしく、ストレスとなっていたようだ。そして同時に、茜は彼女の専属医である少し年上の男性に惹かれており、医師もまた、茜に惹かれているという事を聞かされた。
それらの事実を聞かされた時に感じたのは、多大な悲壮感と、ホンの僅かな達成感だった。
茜の側にいられなくなった事は俺にとって苦痛だった。反面、彼女が幸せになり、彼女を支えてくれる人が現れたと言う事実に、『俺の役目は終わったのだ』という言葉が、ストンと心の中に落ちていった。
だってそうだろう?俺はしがない大学生。相手は実力のある若いお医者様ときた。将来的な事を考えれば、どちらを取れば幸せになれるかなんて一目瞭然じゃないか。
◆
「今までの分も含めて伝えておくよ。茜、愛している」
白い。いや、白すぎる程に清潔なベッドに横たわり、規則正しい呼吸を繰り返しながら眠る愛すべき人に向けて、聞こえていないと分かっていながらも言葉を紡ぐ。何よりも大切な言葉だから。そして、二度と伝えるべきではない想いだからこそ、彼女に伝えるのだ。
――つぅ、と頬に涙が伝い零れ落ちる。
それでも構わず、彼女の手を握りながら愛していると言葉を伝える。
きっと今の俺はみっともない表情を浮かべているのだろう。心はナイフで引き裂かれそうなほどの鋭い痛みを感じている。それでも俺は、決してこの別れを嘆く事は無い。子供の様にみっともなく喚き散らすことも無い。だってこれは、彼女の幸せの為なのだから。
(その為なら俺は、どんな苦しみにだって耐えてみせる)
だからこれでいい。伝えるべき想いも全て伝えた。ならば後は、二度と彼女の前に現れなければいいだけだ。
未だに心に鋭い痛みが奔り続けているが、構わず彼女に背をむけ病室を出ようとして――思わず足を止める。彼女とのこれまでの思い出と新たな日常の境界線となる病室の入り口。そこに彼女の双子の姉、葵が泣きそうな顔で佇んでいたから。
◆
病室を後にした俺は、トボトボと家に向かって歩き出す。
後悔もある。未練もある。だがそれでも、これがきっと最善の選択肢だったと胸を張って言う事が出来る。
病院の敷地を出る間際、振り返って茜のいる病室へと視線を向ける。そこから見えたのは、愛する彼女の姿ではなく、彼女と同じ顔をした別人だった。彼女もまた、こちらに視線を向けていたのだ。だが俺の視線に気付いた彼女は、サッと病室のカーテンを閉じた。それは、紛れもない拒絶の証。
「……それでいいんだよ」
乾いた笑みを浮かべた俺は、それから二度と振り返る事は無かった。
誤字があったら申し訳ありません。
とある企画に乗っからせてもらった作品、その二です。
こっちは投稿するのをすっかり忘れていたのですが、せっかくですので投稿しようかなと。
正直、今回の題材は時数縛りがある中では書きたいことを書ききれなかったのでちょっと不満があります。
気が向いたらもしかしたら修正版として少し長めの短編、あるいは短めの中編、長編として書こうかなと、密かに企画中。
感想・指摘等お待ちしております。
※2012.6/16 誤字修正