『政略結婚した王太子夫妻ですが、お互い同性の恋人がいるので、世継ぎ作りは医学の力で解決します!』
豪奢な彫刻が施された天蓋付きベッドの真ん中で、純白のネグリジェを着たアデレード公爵令嬢は、真剣な顔で硝子製の細長いシリンジを掲げていた。「殿下、目盛りの確認を。一ミリリットルの誤差も許されませんわよ」
「分かっている、アデレード。僕の計算では、今日が君の排卵予定日としてもっとも確率が高いはずだ」向かい側に座るこの国の第一王子、レオンハルトは、寝間着の袖をまくり上げて銀のトレーを厳粛に差し出した。そこには、体温と同じぬくもりを保つよう魔法具で温度管理された、琥珀色の遮光小瓶が鎮座している。中に入っているのは、つい十分前に採取されたばかりの、王家の血を引く至高の遺伝子情報――端的に言えば、王子の精液である。政略結婚で結ばれたこの夫婦には、世間には口が裂けても言えない秘密があった。
夫のレオンハルト王子は、屈強な騎士団長との逢瀬を何より愛する『薔薇族』。
そして妻のアデレードは、美しき宮廷薬師の令嬢を生涯の伴侶と誓い合っている『百合の淑女』。互いに愛する同性の相手がおり、互いに対して性的な興奮など欠片も覚えない。だが、二人は王太子夫妻だ。国を揺るがす世継ぎ問題からは絶対に逃げられない。「まったく……教会や貴族連中が『初夜の儀』だの『愛の営み』だのとうるさく騒ぎ立てるから、こんな大掛かりな作戦になるのですわ」アデレードは呆れたように息を吐き、机に積まれた分厚い医学書――『最新解剖学と生殖の神秘』をペラリとめくった。「仕方ないだろう。僕たちに通常の夫婦生活は不可能だ。君の肌に触れても僕のナニは微動だにしないし、君だって僕に抱かれるくらいなら毒草を呷ったほうがマシだと言ったじゃないか」
「当然ですわ。わたくし、男性の体臭すら受け付けませんもの。……ですが殿下、よく採取できましたわね。あちらの部屋で、一人でなさったのでしょう? 想像するだけで涙ぐましい努力ですわ」アデレードが冷ややかな、しかしどこか労うような目を向けると、レオンハルトは美しい顔をわずかに紅潮させて胸を張った。「ふふん、侮るなよ。我が愛しのギルバート騎士団長が、訓練終わりに脱ぎ捨てた汗の染み込んだシャツを借りてきたのさ。あの芳醇な革と鉄と男の匂い……あれを嗅ぎながら目をつぶれば、わずか五分でこの通りだ!」
「まあ、変態的で素晴らしい集中力ですこと。わたくしも、エレノアが調合してくれた特製のラベンダーオイルを鎖骨に塗って、精神統一を済ませてありますわ。彼女の美しい微笑みを思い浮かべれば、いかなる器具の挿入にも耐えられます!」「よろしい。愛の力は偉大だな。……では、いこうか、アデレード」
「ええ、参りましょう、レオンハルト殿下。我が国の医学の粋を集めた、崇高なる『儀式』の始まりですわ」二人は至極真面目な顔で頷き合った。ベッドルームの空気は、艶めかしい男女の寝所というより、完全に戦場の野戦病院のそれである。「まず、腰の下に枕を二つ敷いてくれ。子宮頸管への角度を最適化する。重力を味方につけるんだ」
「存じております。傾斜角は約三十度。精子の遡上を助ける黄金角ですわね」アデレードは器用に腰を持ち上げ、クッションを敷き詰めた。足を左右に開き、膝を立てる。本来なら淑女が殿方の前で晒すことなどあり得ない恥知らずな格好だが、二人の間にあるのは恥じらいではなく、外科医と助手の連帯感だけだ。レオンハルトは手袋をはめ、慎重にシリンジのピストンを引いた。小瓶から、とろりとした乳白色の液体が吸い上げられていく。「気泡が入っていないか確認を」
「よし、エア抜き完了だ。……針は付いていないな? 粘膜を傷つけると感染症のリスクがある」
「当たり前でしょう! 先端は丸く加工したガラス管ですわ。エレノアが丹精込めて研磨してくれましたのよ」
「エレノア嬢は本当に優秀だな。後で勲章を授与しておこう」レオンハルトはシリンジを構え、ベッドの足元へと回り込んだ。ネグリジェの裾を丁寧にめくり上げる。「失礼するよ。力を抜いて」
「……んっ……ひんやりしますわね」
「人肌に温めたつもりだが、ガラスの冷たさまでは消せなかったか。我慢してくれ。ゆっくり挿入する……奥まで届いているか?」
「ええ……もう少し、右寄りの角度ですわ。子宮口はそのあたりにあるはず……あっ、そこです」
「よし、位置を固定した。いくぞ、アデレード。三、二、一……注入!」レオンハルトが親指に力を込め、ピストンを押し込む。
カチリ、と小さな音が響き、管の中の液体が一気に膣奥へと送り込まれた。「……っ、ふぅ……っ、なんだか、奇妙な感覚ですわね……下腹部が、じんわりと重たいというか……」
「成功だ! 漏れ出ていないな?」
「大丈夫ですわ。重力に逆らわず、このまま仰向けで静止します」
「素晴らしい! 本によると、この姿勢を最低三十分は維持するのが望ましいらしい」レオンハルトは汗をぬぐい、満足そうにシリンジをアルコール液の入ったトレイに浸した。大仕事を終えた外科医のような達成感が、その秀麗な横顔に満ちている。「お疲れ様、アデレード。実に見事な連携だったよ」
「お疲れ様でした、殿下。あなたの手際の良さには敬服いたしますわ。まるで手慣れた産科医のようでした」
「何事も予習が肝心だからね。君と僕の平和な未来のために、解剖図譜を穴が開くほど読み込んだ甲斐があったというものさ」レオンハルトはベッドサイドの椅子に腰を下ろし、ワイングラスに葡萄ジュースを注いでアデレードに手渡した。アデレードは腰を高く上げた異様な体勢のまま、ストローでそれをちびちびと飲む。「……ねえ、アデレード」
「なんですの、殿下」
「もし、これで無事に子どもが生まれたら。君はどうしたい?」ふと、レオンハルトが柔らかな目をして尋ねてきた。そこには、普段の軽薄な王子ではなく、友を思いやる純粋な優しさがあった。アデレードは天井を見つめ、少しだけ目を細めた。「そうですね……生まれた子がどちらに似ても、私たちは胸を張って愛してあげましょう。そして、この子が物心ついた頃には、エレノアを専属の侍医として、ギルバート卿を専属の護衛騎士として側に置くのです」
「いいね。家族旅行という名目で、四人で避暑地に行こう。昼は僕とギルバートが剣の稽古をし、君とエレノアは花畑で薬草を摘む。夜は……それぞれ別の部屋で、愛する人と過ごすんだ」
「最高ですわね。偽りの愛でいがみ合う冷え切った家庭より、よほど風通しがよくて健全ですわ」くすくすと二人は笑い合った。
世間が求める「正しい夫婦」の形からは酷く外れているかもしれない。だが、互いの魂の形を認め合い、理性を尽くして手を取り合う彼らの絆は、どんなお飾りの夫婦よりも強固だった。「さて、殿下。そろそろ三十分が経ちますわ」
「よし、足を下ろしていいよ。……体調はどうだい?」
「ええ、至って良好です。……ただ、もし今回で着床しなかった場合は、来月も同じ工程を繰り返すことになりますわね」アデレードがネグリジェの裾を整えながら告げると、レオンハルトは神妙な面持ちで頷いた。「ああ。ギルバートには、来月も『激しい鍛錬の後のシャツ』を確保しておくよう、それとなく頼んでおくよ」
「頼もしいことですわ。わたくしも、エレノアにもっと良質な滋養強壮のハーブを調合してもらいます。王家の未来と、わたくしたちの真の幸福のために」
「ああ、戦おう、我が愛すべき戦友よ!」二人はベッドの上でがっちりと固い握手を交わした。
その熱い情熱と結束力は、間違いなく歴史に名を残す名君と賢妃のそれであったが、その動機が「愛する同性の恋人と堂々と暮らすため」であることを知る者は、この寝室の外には誰一人としていなかった。数週間後、王宮の専属医師が「妃殿下のご懐妊」を告げて歓喜に沸き立つことになるのだが、二人がハイタッチを交わして密かに祝杯を挙げたのは、また別のお話である。
◇◇◇
王宮の一室に、歓喜の声が響き渡った。
「おめでとうございます、殿下! 妃殿下! ご懐妊でございます!」
侍医の言葉を聞いた瞬間、レオンハルトとアデレードは顔を見合わせた。
「……やったな、アデレード!」
「ええ! やりましたわ、殿下!」
ぱぁんっ!
二人の手のひらが、見事な音を立てて打ち合わされた。
「なんということでしょう……!」
「ご覧になって! あの仲睦まじいお姿を!」
「王太子殿下と妃殿下は、本当に深く愛し合っていらっしゃるのね……!」
感極まった侍女たちが、次々と涙を拭う。
当の二人は、そんな周囲の反応など気にも留めず、固い握手を交わしていた。
「これで王位継承問題はひとまず安心だ!」
「ええ! わたくしたちの共同研究、大成功ですわ!」
「次は育児計画だな!」
「もちろんです! エレノアには乳幼児の健康管理について相談しておきますわ!」
「ギルバートには護衛体制を整えてもらおう!」
「まあ、なんて頼もしい!」
再び、ぱぁんっ!
「……なんて素晴らしいご夫婦なのかしら」
侍女長は胸元で手を組み、感涙にむせんだ。
誰一人として知らない。
この夫婦の喜びが、世間の想像する夫婦愛とは、少々異なるところから生まれていることを。
そして窓の向こう。
王宮の庭園では、今日も白薔薇のアイスバーグ、ボレロ、ヨハネ・パウロ二世、アルテミス、ビブラマリエ!が、秋風に揺れていた。
その傍らには、気高く咲き誇るカサブランカと白百合。
白薔薇と白百合。
まるで、この王宮に秘められた二つの恋を祝福するかのように。
花々は、何も知らぬ顔で咲き乱れていた。
いや。
もしかすると、すべてを知っているのかもしれない。
ただ、花には口がない。
そして、秘密を守るには、それが何より都合がよかった。
――薔薇と百合の王太子夫妻、本日も円満なり。
◇◇◇
湖畔に佇む王家の避暑地別邸は、初夏の爽やかな風と針葉樹の香りに包まれていた。
鳥のさえずりが響くテラスで、アデレードは冷えたハーブウォーターのグラスを傾けながら、ふうと優雅に息をついた。隣には、清楚な薄緑のドレスに身を包んだ宮廷薬師の令嬢、エレノアが寄り添っている。
「本当に素晴らしい空気ですわね、エレノア。王宮のあの重苦しい空気や、貴族たちの詮索めいた視線から解放されるだけで、寿命が十年は伸びそうですわ」
「ええ、アデレード様。あなたのお腹の子も、この清らかな風を喜んでいるはずです。……ほら、今日は特別に胃腸に優しいミントとカモミールをブレンドしてきましたのよ」
エレノアが細く白い指先でそっとアデレードの手に触れる。その柔らかな微笑みに、アデレードの頬は淡い桜色に染まった。これぞ至福。これぞ天国。あのシリンジ大作戦を耐え抜いたからこそ手に入れた、正当な権利としてのバカンスである。
――ガキンッ! ドゴォォォンッ!
庭の芝生から、優雅な静寂を木っ端微塵に粉砕する轟音が響き渡った。
「ぐはっ……! 素晴らしい踏み込みだ、ギルバート! その太刀筋、まさに猛虎のごとき力強さ……ッ!」
「殿下こそ、見事な受け太刀にございます! ですが、腰のひねりがまだ甘い! もっと私を意識して、芯からぶつかってきてください!」
「ああ、いくらでもぶつかるさ! 君の胸板になら、命ごと飛び込める……!」
上半身裸になった二人の巨躯が、汗をキラキラと初夏の陽光に反射させながら、木剣を激しく打ち鳴らし合っていた。
一人はこの国の麗しき第一王子・レオンハルト。もう一人は熊をも素手で屠りそうな鋼の肉体を持つ騎士団長・ギルバート。
二人の間には、もはや剣術の稽古という建前すら蒸発しかけた、ねっとりとした熱気が立ち込めている。
アデレードは引きつった笑みを浮かべ、グラスをテーブルに置いた。
「……ねえ、エレノア」
「はい、アデレード様」
「あの方々、朝の五時からずっとあの調子ですのよ。剣を交えるたびに愛を確かめ合うのは結構ですけれど、別邸の庭にクレーターを作るのはやめていただきたいわ」
「ふふ、でもレオンハルト殿下、とても生き生きとしていらっしゃいます。王宮ではギルバート卿と二人きりになるのも一苦労でしたもの」
「それはそうですけれど……あんな剥き出しの筋肉の衝突を見せつけられては、お腹の胎教に良いのか悪いのか判断に迷いますわ」
そこへ、汗を拭いながらレオンハルトがテラスへ上がってきた。首には例の「汗の染み込んだシャツ」が誇らしげに巻かれている。
「やあ、アデレード、エレノア嬢。二人とも寛いでいるかい? ギルバートの筋肉の張り具合が、王都にいた頃より格段に上がっていてね。やはり避暑地の気候は素晴らしいよ!」
「殿下、汗を拭いてからお座りになって。床が湿気てしまいますわ。それに、ギルバート卿への熱視線は夜まで取っておきなさいな」
アデレードが扇子でピシャリと牽制すると、後ろから歩いてきたギルバートが、恐縮したように巨大な体を小さく縮めて一礼した。
「妃殿下、騒がしくして申し訳ございません。殿下がお喜びになるあまり、つい手加減を忘れてしまい……」
「よいのです、ギルバート卿。あなた方が幸せそうで何よりですわ。……ところで殿下、別邸の管理責任者には、庭の修繕費を『王太子の武芸研鑽費』として計上するよう手配してありますわね?」
「抜かりはないよ、我が友よ。名目は『次世代を守るための防衛訓練』だ」
レオンハルトはいたずらっぽく笑い、椅子に腰を下ろした。
四人で囲むテラスのテーブル。そこには、表向きの「王太子夫妻と随行員」という偽装を完璧にこなしつつ、内実は「互いの最愛のパートナーを同伴したダブルデート」という、前代未聞の調和があった。
「さて、アデレード。午後はどうするんだい? 馬車で湖の北にある自生ハーブの群生地へ行くと聞いていたが」
「ええ。エレノアが珍しい鎮静作用のある野草を見つけたいと申しますので。殿下とギルバート卿は、どうぞお二人で湖畔のボートでも漕いでいらして」
「ボート……! 湖の真ん中で、誰の目も気にせず、ギルバートと二人きり……!」
レオンハルトの瞳が爛々と輝き、ギルバートもまた「腕の筋肉が千切れるまで漕いでご覧に入れます」と熱烈に頷いた。
「決まりね。夕食は四人で湖畔の魚料理をいただきましょう。そして夜は――」
アデレードは一度言葉を切り、レオンハルトと視線を合わせた。
「東離宮と西離宮、完全に棟を分けて施錠しますわ。くれぐれも、朝までこちらの棟にノックなどなさいませんように」
「こちらこそ。そちらの甘い囁き声で僕たちの逢瀬を邪魔しないでおくれよ?」
「誰がそんなはしたない声を上げますの!」
二人は同時に吹き出し、顔を見合わせて笑い合った。
世間の常識に囚われず、医学と知恵と少しの変態的な情熱を武器に勝ち取った、あまりにも平和で愛に満ちた休暇。
白薔薇と白百合の咲き誇る湖畔で、四人の奇妙で健全な絆は、初夏の太陽よりも眩しく輝いていた。




