99.好きなんだ
ケガの功名というか、夕べの一件のおかげなのかどうかわからないけれど、どういうわけだか柴崎泰広は少しだけ気分が持ち直したようだった。
今日は土曜日。仕事の日なので、どちらにせよ朝には交代し、彼は一日の大半をボロボロで見栄えの悪いクマるんに入って過ごしたわけだけど、先日のように寝っぱなしとか、緊張しきってずっと無言というわけでもなく、トイレ交代もさしたる拒否感なく了承してくれた。
しかも交代の際には、昨日、あたしが一日中柴崎泰広の体で過ごした時に、トイレをどうしたのかという事にまで頭が回るくらい冷静だった。ええ、もちろんさせていただきましたよ何度も、仕方ないよねそんなこと今更グチャグチャ言っても遅いからと冷たく言い放ったら、しばらくは立ち直れなかったようだけど。
状況は何一つ変わっていない……というより、かえって悪くなってすらいるのだから不思議といえば不思議なんだけれど、仕事という「非日常」が、彼の精神になんらかのプラス効果をもたらしたのかもしれない。
「……で、こっちの製品を使えば、現状のドアをそのまま自動扉に変えることが可能なんだそうです。電気代も月々八十円程度なんで、一番安く仕上げたいのならこれですね」
ちょうど客足が途切れているので、柴崎泰広は立膝になり、笹本さんと額をくっつけるようにしてパソコンの画面に見入っている。かねてから調べていた店舗入り口の改装計画について伝えているらしい。笹本さんも重い開き戸については問題を感じていたようで、興味津々の様子で柴崎泰広の説明に耳を傾けていたが、ひととおり話を聞き終えると、表情を曇らせてため息をついた。
「私もあの扉を変えること自体について異論はないよ。ただ、問題は、ウチの扉が重い上に外開きだってことだね……」
その指摘に、柴崎泰広も深々と頷く。
「そうなんです。外開きの自動扉だと近づいてきたベビーカーに当たる可能性もあってかえって危険なので、自動にするなら扉自体を横開きの形に変えないとまずいと思います」
笹本さんは考え込むように腕を組んだ。
「変えると言っても、この古屋だからねえ……ヘタに新しいデザインを取り入れると、店の雰囲気を壊しいかねない。もともとの雰囲気を生かしつつ変えるんであれば、ある程度本格的な改装にしないとまずいだろうし……確かにあんたの提案なら、簡便だし安く済むし工事終了も速いだろうから、今すぐにでも始められる。その点には惹かれるんだけど、なんといっても入り口は店の顔だからね。ある程度時間やお金をかけても、しかるべきプロに任せていいものを作った方がいいと思うんだ。おかげさまで売り上げも以前より格段に伸びてるから、多少は金銭的な余裕もあるし……といってもまあ、子ども服の扱いを新たに始めようと思ってるんで、その原資はとっておきたいから、実際に手を付けるのはもう少し先になるかね。アパートの方があれ以来、一部屋ずっと空きっぱなしなのもきついしね……誰か入ってくれるといいんだけど。柴崎泰広、誰か知り合いで一人暮らしをしたいってヤツ、知らないかね」
笹本さんの投げかけに柴崎泰広は慌てて首を振ると、おずおずと問いかける。
「空き部屋って……先日の、あの自殺未遂の大学生さんが住んでいた部屋ですか。あれから、ずっと空いてるんですか?」
笹本さんは渋い顔で頷くと、やれやれと言わんばかりに首を振る。
「なんか、ヘンなウワサをまかれたみたいでねえ。借り手がつかなくなっちゃったんだよ。賃料を下げるしかないかねえ……」
暗い表情でため息をついてみせるので、柴崎泰広は焦ったようにうなずいた。
「……あ、わ、わかりました。誰かそういう人がいないか、知り合いに聞いてみます。あと、扉の件もわかりました。笹本さんがおっしゃった方向で、じっくりいきましょう。僕の方でも、安くて腕のいい業者さんを探してみます。予算としては、だいたいどのくらいまでを考えていますか?」
「そうさねえ……百万くらいで抑えられればありがたいかね」
「わかりました」
笹本さんは満足そうに頷いていったん帳簿に目線を落としたが、何を思いついたのかつぶらな瞳を大きく見開き、勢いよくその顔を上げた。
「そうだ、柴崎泰広。あんた、仕入れに興味はあるかい?」
「え?」
きょとんとして動きを止めた柴崎泰広に、笹本さんはどこかウキウキと言葉を継いだ。
「今度新しく展開する子ども服なんだけど、あたしはどうも子どもってやつが苦手なせいか、どんなのがいいか今ひとつ自信がなくてね。デザイナーさんのおすすめをそのまんまもらってくるんじゃ、なんだか店としての自律性がないような気がして。あんたの意見も参考にしようと思うんだけど、どうかね」
――マジ?
思わず首を巡らせて振り仰ぐと、心なしか戸惑ったような表情を浮かべてあたしを見下ろす柴崎泰広と目があった。
【うけてうけて、行かせてくださいって言って】
「あ、お、お願いします」
笹本さんは満足そうな笑顔を浮かべてうなずいた。
「頼んだよ」
笹本さんが帳簿の整理に没頭し始めるのを見届けてから、柴崎泰広はそっとあたしを手に取ると、感極まったようにささやきかける。
「いやー……驚きました」
【うん、子ども服とはいえ、商品の仕入れに関わらせてもらえるなんて……なんか、信じらんない】
本当に信じられなくらい、仕事は順調だ。
雑誌で紹介されて以来、客足は伸び続けている。先日は某テレビ局によるこの町の紹介番組の中で取材をうけ、来週のオンエアー以降はさらに伸びるだろう。笹本さんは案外仕事に関してはシビアで謙虚な目を持っているので、今回の成功に対するあたしたちの貢献をきちんと評価してくれていて、こんな風に新しい仕事に携わるチャンスも与えてくれるようになった。
それもこれも、コイツの頑張りがあってこそだと思う。
ケツポケで揺れながら、商品を整理する柴崎泰広の横顔をちらりと見上げる。
基本的な仕事の手順はもちろんのこと、仕事に関して自分なりの意見を持ち、それをある程度の形にまとめて笹本さんに提案できるまでになった。あくまで提案なので、すんなり取り入れられることもあれば、さっきのように彼の思惑から外れた展開を見せることもあるのだけれど、それで自分の価値が踏みにじられたとか、ないがしろにされたとか言ってふて腐れることもなく、よりよい結果に向けて自然に軌道修正できるようにもなっている。視野狭窄気味だった当初の彼から考えれば、これは本当にすごい成長だと思う。
接客に関しても、毎回あたしの接客を間近で見ていたせいか、はたまた、もともと美術部所属で芸術的センスに恵まれていたせいか、時折あたしでも驚くようなステキなコーディネートを提案するようにまでなってきた。本当に、才能のあるヤツは何をやらせてもできるんだなあとちょっと悔しくもある一方、そんな彼を見ていると、安心と、ある種の誇らしさと、わずかな羨望がないまぜになった複雑な感情に襲われる。
それと同時に、何とも言えない切なさがあたしの胸を締め付ける。
いつも感じるこの切なさが何から来るものなのか、今まではよくわからなかった。
でも、今ならその正体がはっきりわかる。
ううん、今までだって本当はわかってはいたけれど、わざとそこから目をそらして、わからないふりをして、直視するのを避けてきたのは、たぶんそれを認めるのが怖かったからなんだろうと思う。
だって、あたしには体がない。その上、彼の命を食べることでギリギリこの世にとどまっているだけの存在なわけで。
それを認めたが最後、彼から離れる決心をすることができなくなるんじゃないか、そんな気がして怖くて仕方がなかったんだ。
だけど、もう大丈夫な気がする。
自分の気持ちを素直に認めても、あたしは彼から離れていける。
そういう確信を持つに至った原因の一つは、彼のお母さんを知ったことにあるのかもしれない。
あたしが彼から伝え聞いた数少ない情報から判断するに、彼のお母さんはやっぱりちょっとまともな精神状態ではなかったんだろうと思う。
自己犠牲的なまでに彼に尽くし、過剰なほど献身的に彼の面倒を見ている一方で、事情はあったにせよ突然姿を消し、一切のいきさつを彼に伝えることもなく入院、そして死亡。
彼の精神状態を把握しているなら、そんなことになれば彼が生きていけなくなることはわかっていたはずだ。でも、彼女はそのことに対し、何一つ手立てをとろうとはしなかった。
消極的な無理心中。
あたし的には、そんな印象がどうしてもぬぐえない。
第一、もし本当に柴崎泰広を大事に思っていたのなら、そうなる前に、彼が自立して生活していけるように少しずつでも社会になじませる努力がなされてもよかったように思う。でも、その努力を一切放棄して、一方で毎朝学校まで送って行くなんてご丁寧なことを続けていたから、彼は母親なしでは生活できなくなり、自立は逆に阻害されてしまった。
おそらく彼の母親は、彼に甘えられている状態に自分の存在価値を見いだし、その状態に依存して生きていたんだろうと思う。
そして、彼は彼で、家のことも社会のことも学校のことも一切を遮断して、そんな母親に頼り切り、寄りかかって生きてきた。
母親が生きている間は、それでも何とか生活は回っていたけれど、寄りかかっていた対象である母親が忽然と消えて、自分一人で立っていることができなくなった彼は、自殺未遂をするまでに追い込まれてしまった。
いろいろな意味で彼女に同情すべき点はあるにせよ、その無責任で自己中な態度にはどうしても納得できないものを感じるし、彼を自殺未遂に追い込んだことに対しては、やはり強い怒りを覚える。
だから、あたしは絶対に彼のお母さんみたいにはならないと決めた。
彼自身にとって、本当に必要でプラスなこと以外はしない。
あたしはすでに死んだ人間。もう死んでこの世にないはずのあたし自身の楽しみとか喜びとか生きる価値とか、そんなものはいくらだって度外視できる。あの人とあたしの一番大きな違いはそこだし、それがあたしの一番大きな強みのはずだ。だからあたしは絶対に、自分のくだらない欲求のために彼の命をダラダラ食い続けるような自己中なマネだけはしないと決めた。
今のところ柴崎泰広は、恐らく母親に対しては「感謝」とか「愛情」とか「思慕」とか、そういうプラスの感情しか抱くことはできないと思う。冷静に、自分と母親の関係を見つめなおすことなんて、できたとしても、もっとずっと先のことだ。彼の心の中にお母さんの存在が大きな割合を占めているうちは、あたしはその代用品に過ぎないし、あたし自身の思いなんてものには気づけるわけもないだろうけど、別にそれでも構わない。気づいてもらいたいなんていう自分のエゴはすっぱり捨ててやる。
だから、今ならはっきり言える。
あたしはたぶん、コイツのことが、
臆病で自己中で尊大で、時に毒を含んで嫌味たらしく、時に驚くほど優しく繊細な感情を込めて紡がれるあのバカ丁寧な敬語口調とか、法律とか数学とかすらすら答えちゃう頭の切れとか、あのきれいな指先とか、はにかんだ笑顔とか、コイツになんか絶対甘えられないと思っていたはずなのに、知らないうちに自分みたいな人間を思いっきり甘えさせてくれていた事実とか、そういうプラスもマイナスも、いろんなものを全部ひっくるめて。
あの三途の川であたしがこの世に返り咲くきっかけをくれた、楽しいってどういうことか教えてくれた、幸せってどういうことかを教えてくれたコイツのことが。
あたしはたぶん、
好きなんだ。