98.ごめん!
混雑した駅のホーム。気の抜けたドアの開閉音とともに、制服姿の学生たちが四角い箱から次々に吐き出されてくる。
人波の流れに逆らう格好でホームに立つあたしは、無音で脇を通り過ぎていく輪郭のはっきりしない彼らの顔を、さっきから懸命に確認し続けていた。
視界を邪魔する長い髪をかきあげ、風にあおられるスカートを抑えながら、次々と吐き出されてくる顔のない集団に必死で目を凝らす。
こんなに大勢の人に囲まれて、あたしがいない状態で、本当にあいつは大丈夫なのか。胸の中心で跳ねる心臓をなだめながら、人波の中にあの見慣れた瓶底眼鏡がないかどうか、高速で画像認証し続ける。
低い音を立てて扉が閉まった。まばらになった人影の向こうで、ゆっくりと動き始める四角い箱。この電車にも乗っていなかったらしい。落胆しつつも次の電車を待とうと、吹き付ける風に目を細めながら踵を返した時、流れゆく人波の向こう側に立って、じっとこちらを見つめている男の存在に気がついた。
シンプルな黒縁眼鏡に、風に吹き散らされる茶色い前髪。メガネの奥にある切れ長の目は、しっかりとあたしをとらえて動かない。
――柴崎泰広。
ホッとして声をかけようと手を上げかけるも、その目が悲し気な色をにじませている気がして、上げかけた手を止めて口をつぐんだ。
彼はあたしをまじろぎもせず見つめている。その目線に射すくめられてしまったように、あたしの体も動かない。
そのとき、ふと、カバンをもっていないほうの彼の左手に、何かが握られていることに気が付いた。
それは、見慣れたあの瓶底眼鏡だった。
――なんだ、持ってたんじゃん。
それを見たとたん、ホッと肩から力が抜ける気がした。
――持ってるなら、早くかけ直しなよ。でないと、こんな人ごみで、あたしがそばにいないのに、あんた、ヤバいんじゃないの?
その言葉が口から出かかった、刹那。
彼の手から、ポロリと瓶底眼鏡がこぼれ落ちた。
――え?
足元に落下していく瓶底眼鏡。
動かない柴崎泰広。
その背後に、次の電車が音もなく到着する。
はっと息をのんだ、次の瞬間。乾いた音を立ててホームに転がった瓶底眼鏡は、電車から吐き出されてきた制服の一団に、踏みつけられ、蹴り飛ばされ、粉々に踏みしだかれた。
立ちすくむあたしを後目に、柴崎泰広はゆっくりと踵を返した。電車から降りてきた明るい笑顔満載の黒髪の男に肩を抱かれ、クールにほほ笑むショートヘア美人に促されながら、人波の流れに乗って歩き始める。
――待って。
引き留めようと楕円の腕を差し出しかけて初めて、自分の体が薄汚れた編みぐるみに変わっていることに気が付いた。
ぞっと背筋に悪寒が走って立ちすくんだ、瞬間。あたしの体は、見知らぬ男子学生の革靴に蹴り飛ばされていた。
何を言う暇もなく顔のない学生の群れに蹴られ、転がされ、踏みにじられながら、それでも回転する視界の端に消えていく後ろ姿を、必死に目で追いかける。
――行かないで。
ボロボロの右腕を懸命にその後ろ姿に向けて差し伸べると、西ちゃんと夏波に挟まれて歩き去ろうとしていた柴崎泰広が、ふいにくるりと首を巡らせてこちらを見た。
思いが通じたんだろうか。安心しかけるも、そのまなざしを目にした途端、緩みかけた気持ちが一瞬で凍り付く。
射抜くようにあたしを見据える、憤怒と憎悪に満ちた冷たいまなざし。
【……!】
息が止まりそうな気がして、弾かれたように跳ね起きた。
恐る恐る首を巡らせてあたりを見回すと、薄墨色の視界に映りこむ、畳と、小さなちゃぶ台と、古臭いテレビと、柱時計。柱時計の針は、夜中の二時を少し過ぎたあたりを指している。
そっと体をまさぐると、触りなれた毛糸のざらついた感触が、感覚器官のない腕の表面から伝わってきた。
――夢か。
心臓もないし呼吸もしていないくせに、こういう時だけはそれらを持っていた頃の記憶がやけにはっきりよみがえって、ドキドキしているような感覚が収まらない。深呼吸のまねごとをしてみるも、当然のことながら効果はなかった。
――全く、なんて夢を見たんだか……。
ここ最近ずっと、心の奥底に無理やり押し込んで見ないようにしていた思い。柴崎泰広の自立を喜んでいるふりをしながら、ずっと心に引っかかっていた不安。そういうある意味みっともない、恥ずかしい本音が、あまりにも露骨にさらけ出された夢だった。状況からすると不思議はないのかもしれないけど、改めて自分の器の小ささを見せつけられた気がして、ため息のひとつもつきたくなってくる。なんとか気分を晴らそうと、ため息をつく代わりに上半身を左右にねじって控えめな気分転換を試みてみたり。
その途端、視界の端に思いがけないものが映り込んで、あるはずのない心臓が口から飛び出すかと思った。
慌てて前を向いて気持ちを落ち着けてから、恐る恐るそちらに顔を向けて再確認する。
薄暗い部屋の壁際、あたしのちょうど真後ろあたりに、誰かが座っているのだ。
誰かって、そんな遠まわしな表現をせずともこんなところにいるのはあいつしか考えられないんだけど、予想だにしていなかった事態に思考が追い付いていかない。動転しつつ、目に見える状況だけでも把握しようと試みる。
あいつ――柴崎泰広は、膝を抱えて顔をうずめた姿勢で壁際に座っていた。眠り込んでいるのか、その体はピクリとも動かない。膝を抱えている手はすっかり脱力していて、指先にぶら下がっている黒縁眼鏡は、人差し指の先にかろうじて引っかかっているだけだった。
――なんでこんなところにいんの?
てっきり二階でふて寝したきり、明日も階下には降りてこないだろうと踏んでいたのに。というか、あたしだったらそうする。ついさっき、あれだけ激しく怒りをぶつけた相手の顔なんか、しばらくは見たくもないはずだ。自分がそういう性格なので、彼がいったい何をしにこんなところに来たのか、まるっきり見当もつかなかった。
だんだん驚きよりも興味が勝ってきて、音をたてないように四つん這いでそばに近寄ってみる。というか、もとより毛糸の体なので音はほとんど立たない。抱えた膝の真下に座って至近距離から仰ぎ見るも、しっかりと腕にうずめている顔は全く見えなかった。もう少し近寄ってみれば、眠っているのか起きているのかくらいはわかるかもしれない。体に触れないように細心の注意を払いながら、ギリギリまで接近を試みてみる。
刹那。ほんの一瞬、何かが耳をかすった。
ドキッとして見ると、柴崎泰広の指にぶら下がっていた黒縁眼鏡が、ふらふらと頼りなく左右に揺れている。
――……ヤバい!
ほんの少し触れただけとはいえ、不安定な状態でぶら下がっていた眼鏡を落下に至らせるには十分すぎる衝撃だ。どうか落ちないでくれよと祈ってみたものの、あたしのはかない願いもむなしく、黒縁眼鏡は頼りない空中遊泳を二、三度繰り返したあと、あっけないほどあっさりと畳に落下した。乾いた音とともに軽くバウンドしたあと、柴崎泰広のつま先あたりで動きを止める。
体中から汗が噴き出すような感覚にとらわれながら、恐る恐る柴崎泰広の様子をうかがいみる。
刺激で目が覚めかけているのか、眼鏡をひっかけていた指先が、立ちすくむあたしの頭上でぴくぴくと震えている。息を詰めてその動きを見守るうち、組んだ腕の隙間からかすかなうめき声が漏れ、膝にうずめられていた頭がゆっくりと上昇を開始した。
――どうしよう。
よくよく考えれば、さっさと逃げ出してその辺の物陰にでも隠れればいいだけの話だったのに、この時のあたしは思考が完全に凍り付いていて、頭をもたげる柴崎泰広をぼうぜんと見上げながら、畳に足先が縫い付けられてしまったかのように一歩たりとも動くことができなかった。
顔を上げた柴崎泰広は、ぼんやりした表情で街路灯の光が漏れる窓の方を眺めてから、あたしの方にゆっくりと顔を向けた。
ちょうど彼の影に入る形で立っていたせいか、息をのんで硬直するあたしとは対照的に、柴崎泰広は怪訝そうに首をかしげた。ただ、そこに何かがいることだけはわかるようで、見えにくそうに目を細めながら、じっとあたしを見つめている。もしかしたらごまかせるんじゃないかという淡い期待を抱きつつ、できるだけ刺激しないように必死で息を詰めていると、何を思ったのか柴崎泰広は、ふいに手を伸ばしてそんなあたしの体をわしづかみにした。
――……うわ!
思ってもみなかった展開に焦りまくり、思わず抗議の送信をしそうになるも、慌てて意識を押しとどめる。
柴崎泰広はそんなあたしの焦りを知る由もなく、眼鏡なしでも確認できる位置……つまり、眼前一五センチの至近距離まで近寄せて、ためつすがめつ眺めている。ここまでされたらもう身バレは確定だ。超至近距離で瞬きを繰り返す長いまつ毛の圧迫感に耐えきれず、おずおずと控えめな送信を試みてみる。
【……なに?】
「……うわ!」
よほど驚いたのか、柴崎泰広は大げさな叫び声をあげると、まるで汚いものにでも触れたかのように、大慌てであたしを振り捨てた。
投げ捨てられたあたしは畳上を三回転したあと、置かれていたちゃぶ台の脚に思いっきり背中をぶつけてから、ようやく動きを止めた。
【いたた……ちょっと、いきなりなにすんの!?】
衝撃に動転して、思わずいつも通りの調子で抗議してしまってから、ハッとして身を固くする。ついさっきあんなケンカをしたんだから、このくらいのことはされてもなにも不思議じゃないのに。
おずおずと反応をうかがうと、落ちていた黒縁眼鏡を拾ってかけなおした柴崎泰広が、こちらに這い寄ってくるところだった。
緊張して固まっているあたしのそばまでやってきた柴崎泰広は、改めてあたしを眺めまわしてから、遠慮がちに問いかけてくる。
「あ、……彩南、さん?」
【……は? きまってんじゃん。あたし以外に誰がいるっての】
口から出してしまってから、その言葉のあまりのかわいげのなさに青くなる。ちゃんと謝罪して歩み寄りたいと思っているのに、なんでこんな態度しか取れないんだろう。自己嫌悪に苛まれつつ柴崎泰広の様子をうかがいみると、柴崎泰広はあっけにとられたような、なぜだかホッとしたような表情を浮かべて固まっていた。
その表情が何を意味しているかがわからなくて戸惑っていると、ふいに柴崎泰広は体中の空気を吐き出すような深いため息をついた。それから何を言うこともなく、のろのろと体を起こして部屋の隅まで這い戻ると、再び膝を抱えて腕に顔をうずめてしまった。
なにかしらリアクションがあるだろういう期待はあっさり裏切られ、再び言葉をかけにくい状況に戻ってしまった。気まずい沈黙の澱が、薄墨色の部屋に降り積もる。
この沈黙地獄から抜け出すにはどうしたらいいのか。彼の行動から会話の糸口を見いだそうにも、あまりにも情報量が少なすぎて意図がさっぱりわからない。
ただ、ひとつだけはっきりと言えることは、さっきの件について謝罪をする機会は、今をおいてほかにはないということだ。会話の糸口が見つかろうが見つかるまいが、やるべきことは一つしかない。
深呼吸をするような気持ちで背筋を伸ばし、壁際に座る柴崎泰広をまっすぐに見据える。肉体があれば、きっと喉を鳴らしてつばを飲み込んでいたに違いない。
【……あ、あのさ】
覚悟を決めて呼びかけると、柴崎泰広はほんの少しだけ顔を上げて、腕の隙間から上目遣いにあたしを見た。
その視線にとらえられた刹那、夢で見た、あの怒りと憎悪に満ちた冷たいまなざしが脳裏によみがえってきて、出そうとしていた言葉たちはあっという間に引っ込んでしまった。
――……やっぱ、ダメだ。いまさら何を言っても無駄な気がする。
せっかくの覚悟も完全に萎えて、なすすべもなくうつむいた時だった。
「……ごめん」
――え?
耳を疑いつつ、慌てて顔を上げて薄暗がりを透かし見ると、腕のスキマからこちらを見ている柴崎泰広と目が合った。
【え……な、なにが?】
慌てて問い返すと、柴崎泰広は気まずそうに目線をそらし、吐き捨てるように言葉を返した。
「投げつけたりして……」
思わずあっけにとられてしまって、なんて言葉を返せばいいのかわからなくなってしまった。
そのまましばらくは降り積もる沈黙に身を任せていたけれど、このまま黙り込んでいればせっかくのチャンスがふいになるだけだ。なんとか間をつなごうと、油の切れた思考を強引に押し回して言葉をひねり出す。
【いや……いいよ、別に】
やっとのことで返した言葉のあまりのそっけなさに、われながらあきれてしまった。
どうしてあたしはこうなんだろう。もっと気の利いたセリフの一つも返してやればいいのに。ていうか、普段のあたしならそうする。口八丁手八丁で生き抜いてきた人間に、その程度のことができないはずがない。なのに、なんでコイツに対してだけはこんなに不器用でかわいくない態度しかとれないんだろう。恋愛うんぬんの話じゃなくて、コイツに愛想をつかされたが最後、あたしはこの世に存在できなくなるっていうのに。
……って、まあ、なんでも何も、その理由はわかってるんだけど。
だって、それは「本当のあたし」じゃないから。相手に好かれるかわいい女を演じているだけの、ニセモノのあたしだから。演じ始めたが最後、永遠に演じ続けなければならなくなって、「本当のあたし」なんか一生出せなくなるから。
こいつにだけは、「本当のあたし」を見ていてほしいから。
改めて言葉にすると、われながらへどが出るほど自己中で甘ったれた感情だと思う。そんなこと、相手にとっては迷惑以外のなにものでもない。普通に考えて、かわいくて素直で明るい女のほうがいっしょにいて楽しいに決まってる。重くて自己中な甘えを押しつけられるのはウザくて不愉快なだけだ。そんなことはわかってる。
わかっているにもかかわらずコイツに対してそういう感情を抱いてしまうのは、肉体を共有しているがゆえに離れたくても離れられない、この特殊な状況に対する甘えがあるからかもしれない。親が死んで以来、誰に対しても「演じている」自分しか見せられなかった反動もあるかもしれないけど。まあなんにせよ、こいつにとっては迷惑な話でしかないだろう。
などと考えながらふと見ると、壁際に座る柴崎泰広が、戸惑ったような表情を浮かべあたしを見ていることに気付いた。同時に、今の状況が思い出されて、一気に焦りが高じる。
――いやいやいや、なにやってんのあたし。自分の気持ちなんかグチャグチャ分析してたってどうしようもないのに。今はとにかくなんでもいいから、ひとことだけでも謝罪しておかないと!
【……ていうか、あたしも言いすぎたと思う! ごめん!】
勢いに任せて一気に送信し、照れ隠しついでに思い切り頭を下げて、しまったと思った。自分の体が、頭の重いクマるんであることを忘れていたのだ。案の定、重い頭に引っ張られて、勢いあまって頭ごと畳に突っ込み、前転するような形で一回転してしまった。
周囲の風景が大きくぐるりと一回転し、停止する。薄墨色の視界に、のっぺりした天井と安っぽい蛍光灯、そしてその下端に、あっけにとられたような柴崎泰広の顔が映りこむ。
――ヤバい。自分ヤバすぎる。
どういうリアクションをとればいいかわからなくなって、仕方なくそのまま転がっていると、そんなあたしを口を開けてぼうぜんと眺めやっていた柴崎泰広が、突然、耐え切れなくなったように吹きだした。
「……ぷっ!」
そのまま膝に顔をうずめて肩を震わせている柴崎泰広に、顔から火が出るような感覚に焦りまくりながら、強めの抗議をたたきつける。
【な……なに笑ってんの? 人がまじめに謝ってんのに!】
「いや、まじめって……前転してまじめとか、意味不明すぎる……」
【仕方ないじゃん頭が重いんだもん。勢いあまって回っちゃっただけだし!】
恥ずかしさをごまかしたくて強い調子で送信しつつも、笑う柴崎泰広を見ているうちになんだかあたしまでおかしくなってきて、最後の方はあたしも半分笑いながら、でもやっぱり恥ずかしいから、足先を蹴っ飛ばしてごまかした。
さっきまでの緊張が一気にほどけて、反動であとからあとから笑いがこみ上げてきて止まらない。柴崎泰広もよほどツボに入ったのか、おなかを抱えて笑い続けている。
なんだかよくわからないけど、前転したおかげでなんとかなったみたいだ。
かわいらしいクマるんの外見だったことも、もしかしたら功を奏しているかもしれない。もっと言えば、お母さんの思い出そのものでもあるクマるんの姿を借りているからこそ、不愉快な態度をとっても完全に愛想をつかされずに済んでいるのかもしれない。
あたし的にやっぱりちょっと切ない事実なのは確かだけれど、とりあえず今日の仕事帰りに手芸屋で毛糸でも買ってきて、ほつれたクマるんを補修してやろうと思った。