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97.本当に、ごめん

 玄関扉を閉めて振り返ると、半開きのふすまの向こう、薄暗い居間のちゃぶ台の上に、クマるんが向こう向きで座っているのが見えた。大きな首をうつむき加減の微妙な角度に固定して、目の前に置かれた黒いリングケースをじっと見つめている。

 黄土色の背中からは拒否オーラを感じなかった。とはいえ、なんと声をかけていいかもわからない。居間に入ることもできずに入口にたたずんでいると、気配を感じたのか、向こう向きのクマるんがぽつりと送信してきた。


【……いろいろ、ありがとうございました】


「あ……いや、別にたいしたことはしてないけどさ」


 クマるんの方から発信があるとは思っていなかったので少しドキッとはしたものの、固まっていた空気が動いたことで、心に重くのしかかっていた縛りがゆるんだ。膨れ上がっていた疑問が言葉になって、ポロリと口からこぼれ落ちる。


「……ね、クマるん、……」


 クマるんが少しだけ顔を上げた。

 リングケースの前に正座するような格好で座るクマるん……柴崎泰広の背中は、拒否オーラを発する気力もないのか、無防備と言っていいくらい悄然としている。その背中を見た途端、続けようとした言葉が喉の奥に引っ込んでしまった。こんな状態の彼に不躾な質問をすれば心の負担になるだけだ。もう少し時間を置いた方がいいのかもしれない。

 そう思い直して開きかけた口をつぐみ、床に置かれた盆を拾い上げた時だった。


【なんなんでしょうね、今の】


 脳に突き刺さる、吐き捨てるような刺々しい意識。盆に右手をかけたところで動き止めて、クマるんの背中を見つめる。

 向こう向きのクマるんは、ちいさく肩をすくめたようだった。


【いったい何の冗談ですかね。いきなり訪ねてきて、母親が死んだとか、血のつながりがないだとか、再婚してただとか、訳の分からないことばかり並べ立てて……頭がおかしいんじゃないですか、あの人。だって、死んだんなら普通、何を置いても唯一の家族である僕に連絡が来るはずじゃないですか。そんな連絡は何もなかった。揚げ句、葬式はしなかっただの、血のつながりがないだの……冗談にしてもたちが悪すぎる】


 苦笑交じりに吐き捨てると、再び目線を目の前のリングケースに落とす。


【こんなモノまで用意して、手が込んでるにしてもほどがある……いったい、何が目的なんだか】


 そう言って黙り込んだクマるんの背中が何かを訴えているような気がして、クマるんに気づかれない程度、ほんの少しだけ歩み寄ってその横顔を盗み見る。

 クマるんの目玉は、食い入るようにリングケースをとらえていた。


「……交代する?」


 遠慮がちに問うと、クマるんはドキッとしたように顔を上げてから、小さくうなずいて、楕円の右腕をおずおずとあたしの方に差し出した。

 あたしもあれこれ言葉を重ねずに、黙ってその腕を指先でつまんで意識を集中する。

 柴崎泰広の意識は、逡巡するような気配を残しつつクマるんから抜けてシバサキヤスヒロの肉体に収まり、クマるんに入ったあたしは、首をめぐらせて彼を見上げた。

 あたしの背後にたたずんでいる柴崎泰広は、それでもしばらくはちゃぶ台の上のリングケースをじっと見つめていたけれど、やがておもむろに腰をかがめてそれを手に取り、蓋をあけた。

 黒いビロードの生地の真ん中で、蛍光球の明かりを受けてやけに清涼な光を放つ小さなリング。

 柴崎泰広はその小さな輝きを食い入るように見つめてから、意を決したようにそれを人差し指と親指でつまみ上げた。目の高さまで持ち上げて正面から眺め、それからひっくり返して裏側に刻印された文字を食い入るように見る。

 そのまま、まるでネジの切れたおもちゃのように動作を停止していた柴崎泰広の指先が、傍目にもはっきり分かるくらい震え始めた。


「……ウソだろ」


 絞り出すような言葉が胸に突き刺さって、その痛みに思わず意識をそらす。


「こんなバカげた話、あるわけないだろ普通。再婚したとか、頭おかしいだろマジで……名字が変わった覚えなんか一度たりともない。ずっと柴崎……表の表札にある、死んだ父親の姓のままだ。その上、……血のつながりがない? 死んだ? 葬式もしなかった? 意味分かんねえっての。いったい何が目的なんだよ? こんな手の込んだウソつきやがって!」


 いつもの、ちょっとだけ人をバカにしたような、それでいて怯えているような、相手から一歩引きさがって距離を置いているようで、実は自分の守備範囲に絶対に近づかれないように固く自分をガードしていたあの敬語口調は見事に影を潜め、柴崎泰広は今まで一度も聞いたことのないような荒々しい口調で、むき出しの感情をたたきつけてくる。


「あのひとは単に、不登校の引きこもりを相手にするのが嫌になって、付き合ってる男のところに逃げただけだ。きっと今頃は、どこかで勝手に幸せに暮らしてる。入院したの、死んだだの……そんな突拍子もないことがあるわけがないだろ。人をバカにするにもほどがある。ざけんじゃねえよ!」


 叫ぶと同時に、手にしていたリングケースを力任せに畳の床にたたきつける。

 衝撃で半開きの口から中身が飛び出し、空っぽになったリングケースが畳の上を三転して壁ぎわに転がる。柴崎泰広は肩で息をしながらその行方を見つめていたが、リングケースが動きを止めると、足から力が抜けたかのようにその場にへたり込んだ。

 リングケースから転がり出、畳の真ん中に無造作に転がっているダイヤモンドリング。その硬質で澄んだ輝きを見つめるうちに、心を霧のように覆っていた臆病な気持ちが消えていくのを感じた。

 おもむろにちゃぶ台を降りて、一足一足踏みしめながらリングのそばまで歩み寄り、腰をかがめてリングを手に取る。

 あたしの気配に気づいたのか、柴崎泰広は少しだけ顔を上げたようだった。

 楕円の腕でリングをはさみ上げながら、背中に感じるその視線に送信で答える。


【……このリングさ、相当値の張るモンだよね。土台もプラチナかなあ。重くてなかなか持ち上がらないもん。あんたを騙すためだけにこんなモノまでくれたとしたら、あの人、相当気前がいいよね】


 柴崎泰広の反応はなかったけれど、部屋の空気が鋭い緊張をはらんで刺々しく殺気立った気がした。でも、これだけはどうしても言っておかなければならない。気持ちを奮い立たせて言葉を継ぐ。


【なんだったら、ちゃぶ台の上にある封筒の中身、確認してみなよ。入院治療費の領収書が入ってると思う。たぶんそこに、病院の名前とか連絡先がかいてあるはず。そこに電話して、そういう人が入院してたかどうかを確認すれば、ウソかホントかはっきりするじゃん。あの人の言うことがウソなのかどうか、それで確かめてみなよ】


 まず、現実を直視しないことには何も始まらない。苦しいかもしれないけど、それをしなければ次の一手は見えてこない。そういう厳しい対応も含めてのフォローだと理解している。ものすごく嫌な役ではあるし、だから気が重かったのだけれど、あたしがやってやるしかない。こんな憎まれ役ができるのは、たぶんあたし以外にはいないから。

 ちらりと後ろに意識を向ける。柴崎泰広は部屋の片隅に座り込んだまま、上目づかいにあたしを睨んでいるようだ。

 いいよ。恨みたければ恨みな。


【あの人の言っていたことは、多分ウソじゃないよ】


 柴崎泰広の呼吸が一瞬止まった気がした。


【あんたのお母さんはあんたを棄てたんじゃなくて、入院するために家を出たんだ】


「ウソだ!」


 柴崎泰広は、裏返った金切り声を張り上げた。


「いい加減なことを言うな! 僕と母親がどんな風に暮らしていたか、何ひとつ知らないくせに……あの人は僕を棄てたんだよ! 現に、それまでだって、男の家に泊まると言って、ほとんど家に帰ってこない日が続いていた。あの人は僕を棄てた。負担だったんだよ、こんな、僕みたいな役立たずの世話をし続けることが……」


 ささくれだった畳の表面を虚ろな目で見つめながら、柴崎泰広はなにかに憑かれたように言葉を継いだ。


「そりゃそうだろ、誰だって嫌になるよ。夜遅くまで仕事をしてるのに、毎朝学校まで僕を送っていくのだってたいへんだし、僕が壊れて暴れるから、付き合っていた男を家に入れることだってできない。経済的に厳しくなったのだって、僕を私立中学になんか行かせたせいなんだし……」


【……私立中学?】


 おうむ返しに問いかけると、柴崎泰広は小さくうなずいて抱えた膝に顔をうずめた。


「小学校高学年のとき、男の担任になって行き渋ったのを、あの人はいじめが原因だと勘違いして、遠く離れた私立中学を受験させたんだ。電車通学をすることになって、吐いたり倒れたりしたことで、初めて原因が別にあることに気づいたみたいだったけど……」


 なるほど、そうだったのか。


【……そっか。そんなら、なおさら凄いじゃん。そこまでしてくれる継母なんて、なかなかいないよ。継子にそんな金かけてくれるとか、あたしんとことはえらい違いだね。正直羨ましい】


 頷きながら本心を吐露すると、柴崎泰広は膝にうずめていた顔を少しだけ上げ、上目づかいにあたしを睨みつけた。


「……そんなたわごとを信じるとか、マジであり得ない。あの人が継母だなんて話、これまでだって、ただの一度も……」


【そのことだって、確かめたければ戸籍謄本取り寄せたら一発だし】


 言葉を飲み込んで凍り付いた柴崎泰広を、黒いビーズの目玉に精いっぱいの力を込めて見据えてやる。


【あの人が信じられるとかられないとかくだらない堂々巡りをしている暇に、別のルートからさっさと真実確かめて、正面からそれと向き合いなよ。もちろん相当に苦しい作業になると思うけど、それをしないことにはたぶん何も始められないんだからさ】


 それをすることでもしかしたら、あんたは一足飛びに前に進めるかもしれない。

 大人になれ、柴崎泰広。


 膝を抱えてうずくまるその姿に胸が詰まるような苦しさを味わいながら、一言一言にありったけの思いを込めて言葉を紡ぐ。 

 これをもし無事に乗り越えられたら、マジであたしの存在なんか必要なくなるかもしれない。そのくらい、あんたにとって大事なポイントに差し掛かってる気がする。だからこそ、ここで薄っぺらい同情心でごまかして現実から目を背けさせてはダメなんだ。

 とはいえ、そんなあたしの身勝手な願いなど、そう簡単に彼の心の深奥に届くものでもない。柴崎泰広はメガネの奥にある充血した目を三角にしてあたしを睨みつけた。


「……これ以上バカバカしいことを言うと、いくら彩南さんだって許さない。問答無用でその首引きちぎるよ」


【……ちぎれば? それで現実が消えると思うならどうぞ。あたし的には痛くもかゆくもないし】


 紡がれた言葉の想像以上の凶悪さにぞっとしつつも、あえて傲然と送信すると、柴崎泰広はメガネの奥の目を大きく見開いた。膝を抱えている手が、ピクリと動く。

 本当にちぎるかもしれない。

 別にかまわないと思った。それで気がすむのなら。


【いい加減、このクマとも離れたほうがいいからちょうどいいよ。中学の時からお母さんに学校まで送ってもらってたって聞いて腑に落ちたんだ。あんたは、あたしをお母さんの代わりにしていたんだよね。それまで休みなく通えてたってことは、あんたはお母さんの送りがあれば電車にも乗れてたってことでしょ。それだけあんたはお母さんに頼ってたんだよ。でも、そのお母さんがいなくなって、電車に乗れなくなって、学校にも行けなくなって、行き詰まったあんたは自殺未遂をした。お母さんが残してくれていたお金を薬代につぎ込んで。でもあたしが来て、お母さんが作ってくれたこの編みぐるみに入って付添うようになったら、なんとかまた生活できるようになって、それであんたは安心してたんだろうけど、……それじゃダメなんだよ。こんなモンがなくても、お母さんの代わりなんかいなくても、あんたが一人で、自分の足で歩いて行けるようにならなきゃダメなんだよ!】


 今まで心のうちに溜め込んでいた思いを全部ぶちまけてしまった。


 そう。あたしはあんたにとって、お母さんの代わりに過ぎない。

 あんたの自立を妨げるだけの、消えたほうがいい存在なんだ。


 血走った目で食い入るようにあたしを見つめていた柴崎泰広が、突然、はじかれたように立ち上った。あたしを今までしたこともないような乱暴な所作でわしづかみにすると、目の高さまで持ち上げる。

 至近距離であたしを見据える切れ長の瞳には、それまで見たこともないような憎悪が滾っている。

 殺気すら漂うその突き刺すような視線に凍り付きながらも、あえて平然と送信を重ねた。


【いいよ、ひと思いにやりなよ。それであんたが自立できるんなら安いもんだよ。あたしは適当に別なモンをみつければいいし、何だったらそのまま三途の川に帰ったっていい。あんたが本当に自立するためには、母親代わりのあたしみたいな存在は、今すぐ消えた方がいいんだからさ】


 柴崎泰広があたしをつかむ手が、はっきりわかるくらい震えている。

 揺れる視界の至近距離にある、柴崎泰広の蒼白な顔。

 切れ長の目は血走り、頬は固くこわばり、色味のない唇は言葉は紡ぎ出すこともできずに震えている。

 これがこいつの顔の見納めなんだとしたら、ちょっと悲しい気がした。できれば、あのはにかんだ優しい笑顔をまぶたに焼き付けておきたかったから。

 でも、そんなぜいたくは言ってらんないよね。

 柴崎泰広の震える指先が、あたしの首に添えられる。


 いいよ、やっちゃいな。

 母親代わりのあたしなんかとは、今すぐ決別した方がいい。


 覚悟を決めて意識を閉じようとしたのと、柴崎泰広がほとんど叫ぶように言葉を発したのはほぼ同時だった。


「……できるわけがないだろ!」


 その言葉が吐き捨てられたと同時に、あたしの体は畳の床に叩き付けられて三転していた。発言の意味に気を取られて意識を閉ざすのを忘れ、地面に叩き付けられた衝撃と、高速回転する風景を思う存分味わってしまう。

 くらくらしながらも無理やり意識を開いたままでいると、後ろを振り返りもせず居間を出ていく柴崎泰広の後ろ姿がちらりと見えた。

 あの怒り方から考えれば、あたしの顔なんか二度と見たくないはずだ。後ろ手にふすまを閉めてあたしをここに閉じ込めるかもしれないと思ったけれど、彼はそうはしなかった。ふすまは開け放ったままで早足に台所を抜け、階段を駆け上がっていく気配。編みぐるみはもちろん階段も登れないので、閉じ込めずとも二階に行けばあたしの顔を見ずに済むということだろうか。やがて、寝室にしている仏間の襖が立て切られる音がして、それっきり家は重苦しい沈黙に包まれた。

 湿っぽく薄暗い居間の片隅に転がって、天井の木目を見るともなく眺めやる。

 全く、ため息でもつきたい気分だ。

 衝撃的な事実に混乱し動揺した彼を、本当はフォローしてやりたかった。でも、結果的にフォローどころか、傷口に余計に塩を塗り込むようなマネしかできなかった。たぶん、繊細で不安定な精神状態にある相手に対する場合、本当はもっと「正しい」「適切な」態度があるんだろうと思う。でも、あたしは心理カウンセラーでもなければ臨床心理士でもないし、何の知識も経験もない。適切かどうかなんてこととは全く関係なく、あんな風に自分の思いをストレートにぶつけることしかできなかった。

 そんな自己中な対応が、柴崎泰広の精神にプラスの効果をもたらすとは思えない。どころか、マイナスの影響の方がかえって大きいかもしれない。

 最低だ、あたし。

 最低な上に、不器用すぎてあり得ないレベル。

 でも、あたしみたいなのに、あれ以上何ができるわけもない。


――本当に、ごめん。


 天井の木目、その上にある二階の部屋の畳の床に、おそらく布団をかぶってつっぷしているであろう柴崎泰広に向かって、心の中で頭を下げた。

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