96.止めたほうがいいんじゃないだろうか
次々に明らかになる新事実の連続に、訳がわからなくなりそうだった。
藤乃さんは柴崎泰広の母親のはずだが、妊娠できない体なら柴崎泰広は生まれてこない。それとも、柴崎泰広を生んだあと、そういう体になったとでもいうんだろうか。
混乱しつつ、そっと女性の手の中にあるクマるんに目線を流すも、クマるんは微動だにせず中空を睨んでいるだけだ。
と、女性――清水さんは、ため息まじりに口を開いた。
「あなたのお父さんと結婚した時、藤乃はまだ二十になったばかりで……もちろん子どもの扱い方なんかわからないし、まだまだ遊びたい盛りだったし、いろいろ戸惑ったし悩んだって言ってた。でも、それを編んで渡したら、泰くんがとっても喜んでくれて、出かける時も寝る時もいつも持って歩いてくれて、すごく嬉しかったって。それで、頑張ろうと思えたんだって……」
嗚咽を飲み込んで言葉を止めると、きらびやかに彩られた指先で目がしらににじんだ涙を拭う。
「藤乃は、あなたのことを血を分けた子どもに負けないくらい、ううん、もしかしたらそれ以上に愛してたんだと思う。だって、そうじゃなきゃあの若さで、毎日あなたを学校まで送り迎えして、家事もパーフェクトにこなして、さらに夜は仕事までして……あんなたいへんなこと、できるわけがない。もちろん、あなたのお父さんへの思いが強かったってのも大きいとは思うけど、あたしには絶対まねできない」
矢継ぎ早に紡がれる言葉の洪水におぼれそうになりながらも、まき散らされた情報の断片を、脳細胞をフル稼働して整理する。
『あなたのこと血を分けた子どもに負けないくらい、ううん、もしかしたらそれ以上に愛してたんだと思う』
血を分けた子どもに負けないくらい。
つまり、柴崎泰広は藤乃さんの血を分けた子どもではなかったということか。
心拍数が二次関数的に上昇するのを抑えられない。
女性の手に包まれているクマるんを盗み見る。
クマるんは身動き一つせず、女性の手に体重を預けて中空を睨んでいるだけだ。
クマるん……柴崎泰広はこの事実を知っていたんだろうか? 万が一知らなかったとしたら、ただでさえ不安定な精神状態のところに、こんな衝撃の事実を次から次へ聞かされ続けるのは、相当な負担になるはずだ。
――止めたほうがいいんじゃないだろうか、彼女の言葉を。
そう思いつつも、一方で、口を挟んではいけないという思いがその行動を引き留める。今ここで不用意な言葉を口にして、もし彼女の口が閉ざされてしまったら、彼が真実を知る機会は永遠に失われてしまうかもしれない。この件は、たとえどんなに苦しくても今ここで知っておかなければならない、そんな気がした。
事実はいつか知らなければならないし、それは当事者である彼自身が受け止める以外にどうしようもないことで、あたしにはその重みを肩代わりしてやることなどできない。あたしができることとしたらせいぜい、コイツが倒れてしまわないように、自分なりの方法で脇から支えてやることくらい。どんなにつらくても、コイツ自身がこの事実と正面から向き合わない限り、今より前に進むことはできない、そんな気がした。
そんなあたしの乱れた内心を知る由もなく、女性はとがった視線をちゃぶ台の上に突き立てながら、吐き捨てるように言葉を続けた。
「藤乃が死んだのはあの男のせいなのよ。あの男が藤乃に近づいたのは、絶対にこの家っていう財産が目当てだったんだ。あんな男にほだされて、過労で倒れるまで働かされて殺されたあげく、財産もとられるだなんて、本当にひどすぎる……!」
最後はほとんど叫ぶように吐き捨てると、手にしていたクマるんごとハンカチを顔に押し当ててしゃくりあげる。ハンカチと一緒に女性の顔に押し当てられているクマるんの手足が、嗚咽に合わせてフラフラと頼りなく震えた。
今までの話をざっくりまとめると、柴崎泰広の母親は、「あの男」という人物からこの家を守るために一人必死で働いて、過労で病に倒れたということになる。細かいことを考えずにさらっと聞き流せば、何ともけなげで哀れな話だ。
でも、あたし的にはそうとばかりも思えない。
柴崎泰広のことを心配していると言うわりに、病気のことを告げることもなくいきなり姿を消した母親。柴崎泰広が生活力ゼロで、通学も外出も満足にできない体なのを知っていたにも拘らずだ。何も言わずに姿を消せば、捨てられたと思い込んだ柴崎泰広が何をするかはわからない。自殺という行動に走る可能性だって十分に予測できたはずだ。それとも、死んでも構わないとでも思っていたんだろうか?
女性はあたしの表情から何を感じ取ったのか、小さな声で言葉をつづけた。
「もしかしたら、突然いなくなったお母さんのことを怒っているのかもしれないけど、どうか許してあげて。本当に、肉体的にも精神的にもギリギリの状態で、あれ以上どうしようもなかったんだと思う。突然倒れて、検査入院したら手術だって言われて、あなたに連絡しようにも携帯電話は料金未払いで止められて……あたしも知らせてあげたかったけど、家電もないっていうし、訪ねるにしてもなかなか時間が取れなくて、そうこうしているうちに、みるみる病状が悪化して、……」
女性はしばらく背中を波打たせながらしゃくりあげていたが、やがて嗚咽を飲み込むと、手にしていたクマるんをようやくテーブルの上に置いた。
「……あ、あの」
言葉をはさむと、女性は怪訝そうに言葉を止めてあたしを見た。
「あの男って……誰なんですか」
女性ははっとしたようにその目を見開くと、あたしの視線から逃れるように斜め下に目線を流してから、言いにくそうに口を開いた。
「藤乃が、再婚した男……」
――再婚!?
またしても重大な新事実が立ち現われて、頭がクラクラした。
とにかく柴崎泰広にとって既知の事実だったことを祈るしかない。母親の突然の死だけでも衝撃的過ぎるのに、その上自分とは血のつながりがなく、しかもいつの間にか再婚していただなんて、全てが初めて知る事実だったとしたら、普通の精神状態だったとしても耐えきれないレベルだ。
「名前は確か、忠道って言ってたと思う。でも、あたしもあまり詳しいことは知らない。藤乃もあの男のことは、ほとんど話してくれなかった。……ただ、なんとなくだけど、藤乃はあの男に何か弱みを握られてたんじゃないかって、そんな気がしてる」
女性はいったん言葉を切ると、反応をうかがうようにちらりと目線を上げてあたしを見た。
「藤乃、ひどく酔っぱらうと、うわごとみたいにいつもきまって同じことを言ってたわ。泰之さんが死んだのは、自分のせいだって。自分が全部悪いんだって……」
それから再び目線を落とし、テーブル上に横たわるクマるんに見るともなく視点を合わせる。
「あなたが学校に行けなくなったのも、対人恐怖症になったのも、全部自分のせいなんだって……だから自分が何とかしなきゃならないんだって、そう言っていつも泣いてた」
そう言うと、腹の底から絞り出すような深いため息をついて口をつぐむ。
その沈黙があまりにも重苦しくて、話の方向を少しだけずらそうと試みてみた。
「……お葬式は、したんですか」
女性はゆっくりと首を横に振った。
「入院の後始末は全部あたしに押し付けたくせに、葬儀に関しては本人の遺志で行わないとか勝手に決めて……いくら戸籍上の夫だからって、許せない。あの男はただ単に、藤乃のために余計なお金をかけたくなかったんじゃないかって、あたしはそう思ってる」
ずれるどころか、さらに重い話に発展してしまった。視界の端のクマるんを直視できず、相槌を打つこともできずに固まっていると、女性は潤んだ目であたしを見つめた。
「でもまさか、あなたに何の連絡もいってなかったとは思わなかった……藤乃から搾り取るだけ搾り取って、あとのことは本当に何もしなかったのね。本当にひどすぎる……。藤乃は、その指輪以外、もう何一つ持ってなかった。着物も、アクセサリーも、ブランドの洋服も、みんなお金に替えて、あの男の借金返済につぎ込んでた。あの家を守らないと、あなたの住む場所を守らないといけないって……」
「指輪?」
慌てて問いかけると、女性は深々と頷いた。
「袋に、四角い箱が入ってるでしょ」
手元の袋に目線を移す。隅っこに、小さな四角い箱が確かに入っている。
女性の泣きはらした目に促されるように、その四角い箱をそっと手に取り、ふたを開けてみると、箱の中には、黒いリングケースが入っていた。
ちらりとテーブル上に転がっているクマるんを見やる。クマるんの顔はちょうどこちらを見るような格好になっていた。その黒いビーズの目玉から見えやすいように気をつけながら、ゆっくりとリングケースの蓋を開ける。
黒いビロードに挟まれてそこに入っていたのは、シンプルだが高級そうなダイヤモンドリングだった。
「それ、藤乃の唯一と言える形見の品です。あの男に見つかると取られるから預かってほしいって、藤乃があたしに預けていた、泰之さんからの、婚約指輪……」
ジュエリーケースから指輪を取り出してみる。裏側には、某高級ブランドのネームと、彼らのイニシャルらしきアルファベットが刻印してあった。
当然のことながら、シバサキヤスヒロの指にははまりそうもない大きさだ。恐らく、第一関節あたりで止まってしまうだろう。彩南の体でも、もしかしたら無理かもしれない。九号サイズより小さいってことは、七号サイズだろうか。きゃしゃで小柄な女性の姿が思い浮かんだ。
小さな輪の向こうに、横倒しで転がっているクマるんの黄土色の耳が見える。
彼は今、この話をどんな思いで聞いているんだろう。
突然すぎる母親の死の知らせ、再婚、そして、自分と血のつながりがなかったという事実。
彼が何をどこまで知っていたかわからないけれど、どれひとつとっても衝撃であり、大きな動揺をもたらすには十分すぎる内容だ。繊細な彼の精神が果たしてその事実を受け止めきれるのか、それがどんな影響をもたらすのか、あたしにはまるっきり見当もつかなかったけれど、何があろうがフォローしてやるべきなのは確かだし、それが相当に気の重い作業になることも確かだった。
そんな気の重い作業が控えているせいかどうはわからないけれど、あたしの心の中には、非業の死を遂げた藤乃という女性に対して、同情だけではない、なにか納得のいかない、もやもやとした感情が芽生え始めていた。
もちろん、それまで彼女に抱いていた殺意に近い憎しみは目に見えて薄らいでいた。彼女は柴崎泰広を捨てたのではなく、やむを得ない事情で姿を消さざるを得なかったのだ。そればかりか、自分を犠牲にして彼に尽くしていた事実すら明らかになったわけで、憎むどころか、尊敬すべき相手なのかもしれないとすら思った。
でも一方で、自分の中に、彼女に対する新たな感情が湧き上がってくるのをどうしても抑えられなかった。それが何なのかはよくわからないけれど、明らかに好意とは違う感情が薄墨のように心を覆いつくしていた。
そんなどす黒い感情を抱きながら、それを押し隠して果たしてまともに柴崎泰広のフォローができるんだろうか。今ひとつ自信が持てないまま、気が付くと時計の針は午後六時をまわっていて、しきりに頑張ってねを連呼しながら家をあとにする清水さんを、不安と緊張が入り混じった思いを抱きつつ玄関先で見送って、扉を閉めた。