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95.……亡くなった?

 お茶の載った盆を手に居間に入ると、小さなちゃぶ台の前に座る女性は花柄のハンカチで涙を拭いながら泣きぬれた顔を上げた。


「ごめんなさい、突然お邪魔して……」


 首を横に振りつつ女性の正面に座ると、上着のポケットから顔だけ出しているクマるんにそっとささやきかける。


「どう? クマるん……見覚え、ある?」


 クマるんの反応はなかった。ポケットの位置が低いせいか、女性の顔があまりよく見えないらしく、首をしきりに伸ばしている様子が感じられる。動く編みぐるみの存在に気づかれたらと冷や冷やしたが、そんな内心はおくびにも出さずに平然と湯呑をちゃぶ台に並べつつ、先刻、玄関先で初対面してからの彼女の様子を思い返してみる。


『もしかして、あなた……、柴崎、泰広、くん?』


 しょっぱなのあのセリフ。

 コレ系の職業の人は若々しく見られる傾向があるらしいので、柴崎泰広の母親という可能性もゼロではないけれど、あのセリフを考えれば、その確率は極めて低い。だとすると、いったいこの人は誰なのか。

 とにかく、彼女の素性を確かめないことにはうかつに話もできない。泣かれたままではまずいので、とりあえず家の中に招き入れ、なかなか意識を開こうとしないクマるんを何とか説き伏せて、彼女との面識の有無を確かめてもらうことにしたのだ。

 と、クマるんの微弱な送信が脳神経を震わせた。 


【……全然、知りません。会ったこともない人です】


「そっか。了解」


 面識がないなら、何に気を付ける必要もない。ある程度気楽に対応できる。いくぶん気を緩めてほっと息をついた時、ふいに女性が涙に濡れた顔を上げてこちらを見た。慌てて「お茶、よかったらどうぞ」などととってつけたように淹れたてのお茶を勧めてごまかしてみる。

 女性は再度小さく頭を下げてから、お茶を手に取る代わりに持っていた紙袋をちゃぶ台の上に載せ、それをあたしの方に押し出した。


「……どうしても、これをあなたに渡したくて」


 首を伸ばして袋の中をのぞくと、小さな白い箱と白い封筒、印鑑と、長方形のノートのようなモノが見えた。

 どうみても、かなり重要な個人情報に関わる代物だ。柴崎泰広の許可もなく物色するのはどうかと思ってためらっていると、そんなあたしの遠慮に気づいたのか、ポケットから首を伸ばして紙袋を見上げていたクマるんは、女性に気づかれない程度に小さく頷いてくれた。

 クマるんの了承に後押しされておずおずと紙袋に手を伸ばし、まずは小さなノート様のものを手にとってみる。

 白地に緑と青のラインが引かれた、某大手銀行の預金通帳。そして、名前の欄に記されている、「柴崎藤乃」という名前。

 思わず息をのみ、おずおずとクマるんを見やる。

 クマるんは微動だにせず通帳を見つめている。

 意を決して通帳を開いてみる。三月二十四日に二百万円が引き出され、残額が十二万六千二百三十五円の時点で記帳は途切れている。

 通帳を見つめて凍り付いているあたしの様子に、女性は切なげな表情を浮かべた。


「その二百万を引き出す時も、藤乃、あなたに申し訳ないって何度も言ってた。早く体を治して、借金もみんな返して、早く家に戻らなきゃって、何度も……」


 声を詰まらせると、溢れてきた涙をハンカチで拭う。

 嗚咽に合わせて揺れるチョココロネのような巻き髪を視界の端にとらえながら、あたしの脳はたった今耳に飛び込んできた情報の分析に必死だった。


 三月末に引き出された二百万。

 「柴崎藤乃」という名。

 体を治して借金を返して早く家に戻る、という言葉。

 そして、これらの重要書類を本人ではなく、この女性が持ってきた意味とは。


「入院治療費の領収書と、お釣りは現金でその封筒に入ってます。私が勝手に口座に入れるのもなんだと思ったので……」


「あ、あの……」


 次々に膨らむ疑問が思考を圧迫し始めたので、慌てて女性の言葉を遮る。女性はきょとんとした表情を浮かべてあたしを見つめた。


「あなたは、……どちら様なんですか」


 女性ははたと動きを止めると、羞恥を滲ませながら困ったように笑ってみせた。


「あ……やだ、ごめんなさい。いつもあなたの話を藤乃から聞いていたら、あなたが私のことを知らないっていう気がしなくなっちゃってて……ごめんなさい」


 女性は何度も謝ってから居住まいを正すと、小さく頭を下げた。


「私は、藤乃……あなたのお母さんの仕事仲間で、清水涼子といいます」


 仕事仲間。

 ということは、コイツの母親も「これ系」の職業に就いていたってことか。

 だとしたら、その「仕事仲間」がどうしてこんなものを届けに来た? 本人が来れば済むことなのに。

 その最大の疑問を、率直に言葉にしてぶつけてみる。


「えっと、それで、……母は今、どこに?」


 涼子と名乗るその女性は再びその目を大きく見張り、何を言われたのかわからない様子で一時停止していたが、ややあって、おずおずと口を開いた。


「もしかして、……何の連絡もいっていないの?」


――連絡?


 嫌な予感に、知らず鼓動が早まってくる。

 ポケットのクマるんに目線を流すも、クマるんはさきほどから微動だにせず女性を見つめているだけだ。


「あの、連絡って……何の」


 女性は左右に落ち着きなく目線を泳がせていたが、深々と息を吸い込んでから、意を決したようにあたしを正面から見た。


「藤乃は、先週……亡くなったの。入院先の病院で」


――……亡くなった?


 言われた言葉の意味がすぐには理解できなかった。しばらく機能停止してから、二の腕に一斉に鳥肌がたつ。

 おずおずと目だけを動かして、ポケットのクマるんを盗み見る。

 上着のポケットからのぞいているクマるんの茶色い頭は、女性を見据えたまま、まるで本当の編みぐるみにでもなってしまったかのように動かない。

 女性は再び滲んでき涙をハンカチで拭いながら、嗚咽まじりに言葉を継いだ。


「あの男の借金を返すために、藤乃、去年の秋ごろからほとんど休みなしで朝から晩まで働き詰めで……そんなに無理すると体を壊すよって何度も言ったのに、お金を返さないと家が取られちゃうから、あの家は泰之さんの形見だから、絶対に取られるわけにはいかないって言って……無理してたんだと思う。三月の末に職場で倒れて、検査をしたら手術が必要な状態だってわかって、先月の終わりに手術したんだけど、術後の経過が思わしくなくて……」


 乾ききった喉に、音を立てて粘つく唾液を流し込んだ。

 三月末。柴崎泰広の母親が失踪した時期と重なる。

 コイツは確か、母親は付き合っていた男のところに行ったと言っていた。ということは、母親の入院についてコイツは全く知らなかったということになる。

 心臓が、うるさいくらいに胸の真ん中で跳ねまわっている。

 握りしめた拳がじっとりと汗ばんでくるのを感じる。

 女性は語尾を飲み込んで顔を上げると、あたし……シバサキヤスヒロの格好を上から下までまじまじと見て、それからほっとしたような表情を浮かべた。


「よかった……一人になっても、ちゃんと学校に行けていたのね。藤乃、あの子は大丈夫だろうか、あの家で無事に一人で暮らせているのかっていつも気にしてたから……あたしは大丈夫って言ったのよ。あたしも高校から一人暮らしをしていたし、この年齢なら、自分の身の回りのことくらいちゃんとやれるはずだって」


 いや、その心配は正しい。

 「一定の年齢」になればその年齢にふさわしいことがひとりでにできるようになると思ったら大間違いで、そうなれる環境に置かれない限り、人はひとりで勝手には育たない。実際、一人で放り出された柴崎泰広は、にっちもさっちもいかなくなって、自殺未遂まで起こしてるわけで。

 そういう心配をしていたということは、藤乃という女性は柴崎泰広の状態をかなり正しく把握していたということになる。だとすれば、なおさらその行動には不審な点が多いが、とりあえず今までの情報を総合すれば、彼女は三月末に体調を崩し、恐らくはその事実を柴崎泰広に告げず、入院するために黙って家を出た。そしてそのまま、入院先の病院で亡くなった。体調を崩した主な原因は過労で、さらにその過労の原因は、「あの男」とやらの借金返済のため。借金を返済しなければ、「この家が取られてしまう」から……。


――あの男。


 そこまで考えた時、脳裏に昨日見たあの男たちの姿が過ぎり、背筋にぞくりと悪寒が走った。


「藤乃、喜ぶわ。いつもあなたのことを気にしていたから……あの子は自分と違って本当に頭がいい、泰之さんにそっくりだって言って、いつも自慢して、だからなおさら高校には通ってほしかったみたいだった。やむを得ずシフトを増やした時も、このシフトじゃ学校まで送ってあげることができない、もっと早く帰れる仕事はないかって、いつも求人情報誌とにらめっこしてたもの……」


 独り言のように紡がれる言葉の意味がよくわからなくて、思わず眉根を寄せて首をかしげた。


『学校まで送ってあげることができない』


 学校まで送る? どういうことだろう。高校生になれば、普通は親が通学に付添う必要はない。思わずポケットのクマるんに問いかけそうになって、すんでのところで言葉を飲み込む。

 と、あたしの目線の先を追った女性は、上着のポケットに入れ込んだクマるんに目をとめると、その目をまん丸く見開き、興奮して上ずった声を張り上げた。


「それって、もしかして……藤乃が編んだっていう、あのクマじゃない? ちょっと見せてくれない?」 


――ヤバい。


 さあっと背筋が冷たくなったが、断ったりしたら余計不審に思われてしまう。仕方なく、声を潜めてささやきかける。


「クマるん……渡すけど、大丈夫?」


 クマるんからの返事はなかったが、状況的に、拒否の意思表示がないことを了承と受け取るしかない。おずおずと、無言のクマるんをポケットから取り出して差し出す。

 ゴージャスなリングときらびやかなネイルで彩られた手でクマるんを受け取ると、女性は細い指先でクマるんのほころびた頭頂部や泥染みの残る体を愛おしそうに撫でながら、悲しげなほほ笑みを浮かべた。


「このクマを編んだ頃の話も、話してくれたな……妊娠できない体だってわかって、悩んでた頃に編んだって」


――は?


 思わず自分の耳を疑った。


『妊娠できない体だってわかって、悩んでた頃に編んだって』


 妊娠できない体?

 それってどういうこと?

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