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94.どういうことだろう?

 結局、学校には行かなかった。

 家に戻ろうかとも思ったけど、あの連中と遭遇する恐れがあったからそれは避けて、時間だけはやたらとあったから、いつかのようにそこから歩いて下北まで出て、一日町をふらついて過ごした。

 その間中、ぐっすり眠りこんだクマるんもとい柴崎泰広は全く起きる気配がなく、結局彼が目覚めたのは、下北山から帰ろうと下り電車に乗った直後だった。


【あれ、彩南さん、ここ……】


 お決まりの扉脇に立ち、流れ始めた景色を眺めていたあたしの頭に響いた、半ば夢見心地の送信。一日ケツポケに入れっぱなしだった携帯を手に取って、おもむろに目の前にかざす。


「おはよ、クマるん。っつっても、もう夕方だけど」


【夕方……】


 携帯の先で揺れながら流れ去る景色や周囲の様子をぼんやり眺めていたクマるんは、いつもの下校ルートではないことに気づいたのか、怪訝そうに首をかしげた。


【あれ、今日って……仕事、ありましたっけ】


「ないない。や、すぐ家に戻るとアレかなって思って、下北の町をふらついてただけ」


 こんな状態のコイツに、朝の出来事やあたし個人のゴチャゴチャした感情について話しても、余計な負担をかけるだけだ。この言い訳で十分説明には事足りる。そう思ったはずだったのに、言い終えた途端、先日柴崎泰広から言われた言葉がふいに頭をよぎった。


『僕は彩南さんに、もっと甘えてほしい』


 言われてみれば確かに、あたしは西ちゃんや夏波に対してはあんな甘えた態度をとるくせに、コイツに対してそういう態度をあまり見せたことがない。覚えがあるのは、なんで生きたいのかと夏波に問われて、答えることができない自分に気づいたあの時と、居酒屋でフラッシュバックに見舞われたあの時くらいだ。あの時みたいに、あたし自身がつぶれそうでやむを得ない時でもない限り、基本的にコイツの精神は寄りかかっても大丈夫だと思えるほど安定していないせいなのだけれど、そうやって遠慮すること自体、もしかしたらコイツにとっては、あたしが心を許してないってことと同義になっちゃうんだろうか。

 そんなつもりはさらさらないのだけれど、だからと言って、こんなボロボロで沈みかけているコイツに対して、さらにあたし自身の重みまでプラスして寄りかかることなんかできるはずもない。あたしだけでも自分の足でしっかり立って、沈みかけたコイツを引き上げてやるくらいじゃなきゃダメなんだ。


「行きは歩いてきたけど、帰りは定期で出られるし、……電車に乗っても大丈夫だよね?」


 無理をさせてはいけないと思って念のため確認をとると、ぼんやりと窓の外を眺めていたクマるんは、不思議そうにあたしを見上げて首を傾けた。


【え? 電車に乗らずに歩いたんですか? どうして……】


「え? あ、いや、もったいないかなーとか思ってさ……」


 時間つぶしのためとも言えず、仕方なく歯切れの悪い返答と中途半端な笑顔でごまかすと、クマるんは苦笑するように首をかしげた。


【定期と併せれば数十円なのに……そういうの、爪で拾ってでこぼすようなもんだって、以前、彩南さん自身が僕に言ってませんでしたっけ】


 懐かしいセリフに、思わずくすりと笑みが漏れた。


「ああ、ものすごい大荷物でたいへんだってのに、下北まで歩けって強要された時のアレか。あんたも、電車に乗るくらいならコインロッカーに入るとか言うし……あん時はマジでびっくりしたけど、今はもう全然大丈夫なんだよね、電車に乗っても」


【問題ないです。クマるんに入ってるんだし】


「OK」


 昨日の件がどの程度精神に悪影響を及ぼしているのかわからなくて聞いてみたけど、とりあえず電車に乗るという部分に関しては特に問題なさそうだ。いくぶんホッとしながら目元にかかるうっとうしい前髪をかき上げるも、何か引っかかりを覚えた気がしてその手を止めた。


「……そういえばさ、クマるん」


【はい?】


 電車が止まり、反対側の扉が開いた。乗降客の流れを横目で追いつつ、携帯で話しているふりをしながら声を潜める。


「あんたさ、四月に三日間だけ登校したとか言ってたじゃん。あん時って、電車使ったの?」


【? いえ】


「え、じゃあどうやって電車で三駅先のあの学校まで通ったわけ?」


【自転車で】


「自転車? マジで? 片道でどのくらいかかったの?」


【え、でも十キロ程度だから……三、四十分で着きましたよ】


「四十分……にしても結構な距離だよね。てことはさ、不登校になる前も、ずっと自転車で通ってたってこと?」


【え? あ……まあ】


 クマるんは曖昧に言葉を濁すと、携帯の先で揺れながら窓の外を流れる景色に顔を向けて意識を閉じた。

 不安定な精神状態の柴崎泰広に対して、無神経な質問を立て続けに投げかけてしまったのかもしれない。デリカシーのない自分を猛省しつつも、なんとなく話のつじつまが合わないような違和感が胸にくすぶる。


『一番古い記憶は保育園のばら組だったとき、実習で園に来ていた男子学生に抱っこされてひきつけ起こした時なんで、そのくらいにはもう』


 保育園時代、実習でやってきた男子学生に抱かれてひきつけを起こしたという柴崎泰広。そのころには、今とほぼ同じメンタリティが出来上がっていたと推測できる。


『乗った途端、凄まじい目眩と吐き気に襲われるんです。一駅頑張れればいい方で、大抵車内で吐きますから、凄く迷惑かけちゃうんです。それで……』


『小さい頃からずっとです。だから僕、遠足は行ったことないですし、遠出も車がないのでほとんどしたことがないです。原因は……よく、分かりません』


 とはいえ、地元の小中学校に通えば電車に乗る必要はないし、学校で触れ合う友だちはまだまだ幼さの残る少年だから、なんとか日々を過ごせたはずだ。にもかかわらず、彼は違和感の残る発言をしている。


『中学に上がってコンタクトに変えた途端狙われまくったんで、慌てて、それまで使ってた瓶底眼鏡に戻したんです。それで何とか落ち着いたんですけど……』


 電車に乗れなかったはずの柴崎泰広。乗れないなら乗らなければいい。それなのに「狙われまくった」というのはいったいどういうことだろう? まあ、普通に生活していれば電車に乗る機会くらい年に幾度かはあるし、乗るたびにそういう目に遭えば狙われ「まくる」という表現もありなのかもしれないけど、ゲーゲー吐いてる人間にそもそもチカンは寄ってこない。「普通の状態」で電車に乗れていたと考える方が自然だ。なんらかの対処によって「普通の状態」をキープしていたということだろうか。だとしたら、それはいったいどういう方法だったのか。そんな方法があるのなら、電車に乗るのにあんな苦労をすることもなかったわけで、釈然としない思いがくすぶる。

 とはいえ、こんな状態の彼にそんな質問をするほどあたしも不躾にはなりたくない。緊急を要するわけでもなし、別に知らなくても実生活上問題はないのだから、もう少し落ち着いたころに改めて聞いてみればいいのかもしれない。


 あれこれ考えつつ電車を降り、改札を抜け、駅を出て踏切を越える。家が近づくにつれ、腰のあたりで揺れるクマるんからピリピリと張りつめた空気が漂い始め、なんとなくあたしも心臓の鼓動が早まってくる。

 家の前に、もしあの男がいたら。

 まず、状況を見なくてすむように、クマるんをカバンの中にしまおう。それから、精いっぱい慇懃に話しかけよう。家の中には通さず、玄関先で話しをすませるように仕向けて、難しいことはよくわからないと曖昧にお茶を濁して、できるだけ早いお帰りを促す。そうやって、必ず第三者の目がある状況を作っておこう。作ったうえで、全てあたしが対応するしかない。そうしないと、たぶんダメだ。

 話の内容によっては、家の中に入れざるを得なくなるかもしれない。他人の目から切り離された場所で、自分の激情を果たして押しとどめておくことができるかどうか、今一つ自信がないのだけれど。

 感情が必要以上に昂ってしまったとき、発作的に何をしでかすかが自分でもよくわからない。わからない以上、絶対に人目につかない場所で相対してはダメだ。何が何でも他人の目という歯止めがある状態でお帰りいただく。そのために、どう話を持っていけばいいか……まるで就職面接に向けた想定問答のように頭の中で何度もシミュレートするうちに、家に向かう最後の角が見えてきた。

 シミュレーションの第一段階を発動すべく、足を止めてささやきかける。


「クマるん、どうする? もうすぐ家だけど、念のためカバンの中に入っておく?」


 クマるんは閉ざしていた意識を開くと、おずおずと頷いた。

 すぐにカバンを開け、携帯と一緒にクマるんを中に入れる。カバンの中に滑り込むと同時に、クマるんは意識を閉ざしたようだった。

 さて、ここからは一人だ。

 軽く呼吸を整えてから足を踏み出す。四つ角を曲がりきったところで落としていた目線を恐る恐る前方に移し、あの古びた家に視点を合わせた途端、背筋を戦慄が駆け抜けて足がすくんだ。

 家の前に誰かが立っているのだ。

 早まる鼓動をこめかみのあたりに感じつつ、家の前に立つその人物を凝視する。

 そこに立っていたのはしかし、先日のあの男とは明らかに異なる人物だった。明るい色のゴージャスな巻き髪に、派手な黒白縦ストライプのショートジャケット。つるっとした素材の黒いアンクル丈パンツに、十センチヒールのラメ入りパンプス。遠目なので細かいことまではわからないが、女性であることだけは確かだ。ただ、この遠慮会釈ないゴージャス感。特定の業種に関わっているとしか思えないいでたちだ。

 あの男ではなかったのは少しホッとしたものの、自分たちの生活圏内にかすりもしなかった人種が接触を持とうとしているという事実には、やはり不安を覚えざるを得ない。森の中で人間に出くわしたクマさながら、警戒心もあらわに一歩を踏み出す。

 と、あたしの気配に気づいたのだろう。古家を見上げていたその人物が、くるりと首を巡らせてあたしを見た。

 必然的に視線がばっちり合ってしまい、思わず息をのんで立ち止まる。

 その人物はあたし……シバサキヤスヒロを、頭のてっぺんからつま先までためつすがめつ眺めやってから、大きくその目を見開いて口を開きかけた。

 やはりシバサキヤスヒロに用があるらしい。いったい何の用だろう。不安は尽きないものの、無視するわけにもいかない。意を決すると、女性のそばに歩み寄る。

 高いヒールの靴を履いてなお小柄なその女性は、自分より十センチほど背が高いシバサキヤスヒロを潤んだ目で見上げると、濃い色の口紅で彩られた唇をふるわせながら、か細い声を絞り出した。


「もしかして、あなた……柴崎、泰広、くん?」


 戸惑いつつもおずおずと頷き返すと、女性は派手なネイルカラーで彩られた手で口元を抑えた。その目から、感極まったように涙がこぼれる。

 想定外の反応に困惑しつつ状況整理を試みるが、柴崎泰広とはわずか二カ月ちょっとの付き合いしかなく、情報量が圧倒的に足りない。柴崎泰広の名前を知っているということは、親戚か、もしくは母親関連の知り合いかなにかだろうが、本人に聞いて確かめようにも、固く意識を閉ざしたクマるんは呼びかけに反応する気配がない。

 買い物袋を抱えたご近所の奥さまに訝しげな目線を投げられながら、あたしはそのまましばらくの間、泣き崩れる女性を前に、玄関先で為すすべもなく突っ立っているしかなかった。

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