93.あんたたちに甘えてる
梅雨の晴れ間の太陽から降り注ぐ光が、昨夜の雨で濡れた路面に反射してキラキラ輝いている。
朝の通学路は、明るい笑顔を振りまきながら笑いさざめく高校生たちの生き生きした若者オーラに満ち溢れていて、むせ返りそうだ。
せめて、雨でも降っていてくれればよかったのに。
今の自分たちの暗澹たる精神状況と、何の不安も逡巡もなくまっすぐに明るいこの世界はあまりにも相反していて、そのギャップはそう簡単に埋められそうにない。
ケツポケで揺れるクマるんに、ちらりと目線を流してみる。
まだなんとなく湿って色味がいつもより濃いクマるんは当然のことながら無表情で、歩みに合わせて左右に大きく揺れているだけだ。
汚れたクマるんを洗い終えたのは、結局日付が変わってまもなくの時分だった。
それから脱水をし、なるべく風通しの良いところに吊るしておいたものの、まだなんとなく湿っぽい状態から脱せてはいない。
にもかかわらず、柴崎泰広はクマるんに入りたいと言ってきた。
あたし的には昨日は精神的にかなりの負荷がかかったのだから今日一日くらい学校を休んでも罰は当たらないと思っていたし、梅雨の晴れ間にクマるんを干してすっきり乾かすつもり満々だったので、柴崎泰広が半分濡れたクマるんに入って学校に行きたいと言ったときには結構戸惑ったし、意外な気さえした。
でも、よく考えればそれは意外でもなんでもない。
実際、いつまたあの男が訪ねてこないとも限らないという恐怖感からか、柴崎泰広はあの家にいる間、全くリラックスできない様子だった。一晩中、風で窓が揺れる音や門扉のきしむちょっとした音にすら怯えてほとんど眠れなかったらしく、こうしてケツポケにぶら下がっているほうが安心できるのか、家を出た途端に眠ってしまった。
以前は恐れていた外の世界が、家の中より安心できる日がくるなんて、柴崎泰広自身思ってもみなかっただろう。
かくいうあたしも、修復に遅くまでかかってしまったことや夜中に三時間交代したことで、夕べはほとんど眠れていない。なんだか頭の中心にぼんやり靄がかかったようになって、フワフワする地面を何とか踏みしめて歩いている状態で、その上この明るい日常とはまるっきり正反対の精神状態を抱えているもんだから、なおのこと目の前に広がる世界がいまいち現実味を伴って感じられないのもむべなるかなという感じなわけで。
「よーっす柴崎! お・は・よw」
だからこんな風にやたらテンション高い雄たけびとともに背後からいきなり肩をどつかれても、それに合わせて明るい返しをしてやれるような気力も体力も残っていないわけで。
そんな万感の思いを込めつつ、どよんとした恨みがましい目線を斜め後ろの某電気店マーク的にこにこ笑顔に流すも、西ちゃんは毛ほども気にしていない様子で呵呵大笑した。
「なーに目の下に隈作ってんの柴崎くんてばー。ちゃんと出すもん出してないんじゃねえの?」
全く、このテンションの差は正直言ってかなりきつい……。
先日の一件をきっかけに、西ちゃんは親御さんと幾度か話し合いの機会を持った。自分の将来的なビジョンを説明し、同時に親御さんの考えを知る中で、足りない部分に関しては素直に変更と訂正を加えながら、お菓子職人になるための道筋を明確にしていった。その苦労のかいもあり、先日ついに親御さんの了承をとりつけ、晴れてバイトを再開したばかりなのだ。テンションが高くなるのも道理なのだが、それにしてもあまりの落差に気が遠くなる思いがする。
自分の望む未来に向けて着実に一歩を踏み出した人間と、過去に足元をすくわれて身動きが取れずもがいている人間との落差。
なんで、柴崎泰広ばかりがこんな目に遭わなければならないんだろう。
西ちゃんが西ちゃんの家に生まれ、柴崎泰広があの家に生まれ、夏波があの家に生まれ、そしてあたしが水谷彩南として生まれたのは、全て「偶然」に過ぎない。そこには何の責任も必然もない。あるのは運だけだ。
もちろん、西ちゃんは西ちゃんで努力もしているし、頑張ってもいる。それはわかっているし、認めてもいる。
でも、柴崎泰広だって同じくらい努力している。頑張ってもいる。もちろん単純に比べられるようなものではないけれど、身体的精神的不調を乗り越えるためのそれは、もしかしたら西ちゃんのそれよりつらく苦しい努力だったかもしれない。
それなのに、単なる「運」ごときに、どうしてこんなにも結果を左右されなければならないんだろう。
あまりにも理不尽で、なんとも納得がいかなくて、なにより柴崎泰広が不憫でならなくて、胸の奥から釈然としない思いがあとからあとから突き上げてきて喉の奥がこわばる。
「……っと、どうしたっての、柴崎?」
足元に目線を固定したままその感覚にじっと耐えていると、突然、西ちゃんがあたしの顔を覗き込んできたから驚いた。
「え?」
思わず足を止めて顔を上げた途端、頬を何かが伝うくすぐったいような感触を覚える。
西ちゃんは少しだけ心配そうに眉根を寄せ、首をかしげた。
「え? じゃねえよ……なんでおまえ、泣いてんの?」
――うそ。
頬を腕で擦ると白いワイシャツの一部が濡れて透けたようになり、それで初めて水分の存在を感知する。
慌ててメガネをはずして目元をこすりまくっていたら、斜め下からそんなあたしにじっと胡乱な目線を投げかけていた西ちゃんが、突然ぽつりと口を開いた。
「……もしかしておまえ……アヤカ?」
心臓が縮み上がって息が止まりそうになり、思わず動きを止めてしまった。
ヤバ。これじゃまるっきり肯定したようなもんじゃん。
「確か、もう学校じゃ交代しねえとか言ってたのに……なにかあった?」
なにかあったかって、あったよ。
何かあったもなにもないくらいのことがあった。
でも、あの事実を広めてしまうことに対して柴崎泰広がどう思っているかがわからない以上、話すわけにはいかない。
かといって、いつものようにお軽い調子で受け流すことも、今のあたしにはできそうにない。
だって、あたし自身があの事実の重さに押しつぶされそうで、誰かに話して楽になりたくて仕方がないから。
腰をかがめて心配そうに覗き込んでいる西ちゃんの優しいまなざしに視点を合わせた途端、その思いが決壊して一気に溢れ出してしまいそうな気がしたから、目線を一切合わせず、力いっぱい地面をけって走り出した。
走り出そうとした。
でも、西ちゃんはそんなあたしの行動をすっかり読んでいたらしく、次の瞬間右腕を拘束されて引き戻され、逃走計画はわずか三歩で敢え無く終了した。
「いきなり逃げ出すとかねえだろ。何があったのか教えてくれよ」
「……無理だよ」
俯いたまま仕方なく短い言葉を返すと、西ちゃんは少しだけ右腕をつかむ手の力を緩めた。
「無理ってなにが」
「あたしの一存じゃ決められない」
「決めるって、何を」
「この件について話していいかどうかを」
西ちゃんは口をつぐんであたしを見た。
あたしも右腕をつかまれた不自然な姿勢で黙り込む。
明るい笑い声に満ちた晴れやかな朝の通学路の真ん中で、あたしと西ちゃんはしばらくの間、そのまま無言で立ち尽くしていた。
「あれ? 西崎と柴崎、こんなとこで何やってんの?」
背後から響いてきたこれまた明るく朗らかな声にハッとして、そっと目線だけ後ろに流す。硬い表情でたたずむ西ちゃんの向こうに、小首をかしげて立っている夏波の姿が見えた。
「なに朝っぱらから通学路の真ん中でお手手つないで固まってんの? 通行の邪魔なんだけど」
苦笑まじりに歩み寄ってきた夏波に目を向けることもなく、西ちゃんは硬い表情であたしに注いでいる視線を動かさない。
そんな西ちゃんのただならぬ様子に、勘のいい夏波もすぐに何かを感じ取ったらしい。わずかに眉根を寄せて西ちゃんを見上げ、それからあたしに目を向けてきたので、慌ててその視線から逃げるように目線を進行方向に戻した。
「……別に、話したくないなら無理に聞き出すつもりもねえけどさ」
しばらくの間ののち、西ちゃんがぽつりと口を開いた。
夏波が、怪訝そうに眉根を寄せたままそんな西ちゃんを見上げる気配。
「ただ、それじゃアヤカ自身がつらいんじゃねえの? とか思っただけの話で」
その一言に、思わず呼吸が止まった。
「抱えきれない荷物は無理やり一人で担ぐより、ちょっとだけでも分け合った方が軽くなるんじゃねえの? 誰もいないんならアレだけど、とりあえず微力ながら、俺も夏波もいるわけだしさ」
「……アヤカ、なの?」
先程までとはがらりとテンションを変えた夏波の声が、遠慮がちに響く。
「柴崎に……なにか、あったの?」
「何かあったか何かあったかって……何かあったらなんだっての?」
あたしの話したくないという意志を「尊重する」なんて言って体よく立ち去る方がずっと簡単だし気分も楽だろうに、一生懸命自分たちなりにあたしの思いに寄り添おうとしてくれている二人の気持ちが痛いくらい伝わってきて、くすぐったくて、ありがたくて、鼻の奥がツンツンしてきて、でもどう反応していいのかますますわからなくなって、やっとのことで口から出たのはそれまでに輪をかけてきつい言葉だった。
「あんたたちに何がわかるっての? 幸せいっぱいのあんたたちに何がわかるっての? 柴崎泰広やあたしが見てきたような地獄なんか何一つ知らないくせに。あんたたちに話したからって、何も変わらないし解決しない。悪いけど、今は放っておいて!」
一瞬、ひるむように右腕を掴む西ちゃんの手の力が弱まった。
すかさずその手を振りほどき、力いっぱい地面をける。
走りながらちらりと目線を後ろに流すと、西ちゃんも夏波も追いかけてはこないようだった。
学校とは逆方向に路地を曲がり、点滅を始めた信号を突っ切り、渡り切ったところでようやくスピードを落とすと、息を弾ませながら振り返る。
交差点にいるのはネクタイ姿のオヤジと、犬を連れた主婦らしきおばちゃんと、大学生らしき二人連れだけだった。
スピードを緩めた途端、運動不足気味の体が酸素不足を声高に主張し始めて苦しくなったので、それを解消すべく呼吸を整えながら歩いていると、つい先ほど、別れ際に垣間見た西ちゃんと夏波の顔が突然脳裏によみがえってきた。
おちゃらけてヘラヘラしている西ちゃんのあんなに真剣な表情も、超然としていてクールな夏波のあんなに悲しそうな表情も、初めて見たかもしれない。
『あんたたちに何がわかるっての? 幸せいっぱいのあんたたちに何がわかるっての? 柴崎泰広やあたしが見てきたような修羅場なんか何一つ知らないくせに』
――心配して差し伸べてくれた手を振り払った上に、あたし、なんてことを言ったんだろう。
再び喉元のこわばりが痛いくらい膨れ上がってきて、こらえきれずに溢れた滴が一つ路面に小さなシミを作った途端、辛うじて一歩を踏み出していた足も、とうとう地面に縫い付けられたかのように動かなくなってしまった。
ごめん、西ちゃん。
ごめん、夏波。
……たぶんあたし、あんたたちに甘えてる。