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92.許せない

 洗面台にはられた水に、汚れて薄黒く染まった編みぐるみを沈める。

 毛糸にわずかに含まれた空気がクマるんの体中から細かな泡となって湧きだし、しみ出した茶色い靄のような汚れとともに、水面を目指して一斉に駆け上がる。

 まるで、沈められることに抵抗するかのように。


『風呂の水が張ったままになってるときは、そこに服のまま沈められる。真冬だろうが何だろうが、冷たい水の中に頭から』


 突然、衝撃的な内容を無感情に淡々と伝える柴崎泰広の言葉が脳裏を過ぎり、ぞくりと背筋に悪寒が走った。

 息を呑んで凍り付き、手元のクマるんを恐る恐る見やる。

 クマるんは茶色く濁った水の中から、黒いビーズの目玉でじっとあたしを見ていた。


『冷たくて、苦しくて、怖くて、死ぬかもしれないって何度も思った』


 真冬の空気と、湿ったふろ場に響く叫び声と、水音と、助けを求めるように空をつかむ小さな手と、恐怖と絶望に打ちひしがれた目。

 その目が手元のクマるんの目と重なって見えて、息が止まりそうになって、思わずクマるんを放り出すようにして水から手を引いた。


 全く、さっきからこの繰り返しで、作業が全然進まない。

 なんだか自分が情けなくて、鼻で小さくため息をついた。


――でもまあ確かに、あいつがこの中に入ったままだったら、水につけて洗うなんてこと、できないどころの騒ぎじゃないよね……。


 ちらりと振り返り、居間へ続く薄暗い廊下を見やる。

 柴崎泰広は今、クマるんには入っていない。居間に置いてある、一番最初に三途の川から戻ってきたとき意識を移していた時計に入っている。

 ボロボロのクマるんは相当に悲惨な状態になってしまっていて、正直、あたしは捨ててもいいくらいに思っていたのだけれど、それを言い出す暇もなく、柴崎泰広が修繕をしてほしい旨を伝えてきた。

 あたしだっていくら合理主義者とはいえ、こんな状態の柴崎泰広に対して強硬に自説を主張するほど血も涙もない人間ではないつもりだし、もとはと言えばあたしのせいでボロボロになってしまったと言えなくもないので、そういうことなら修繕の間は、取りあえず別のものに意識を移してはどうかと提案した。さっきのあの話から考えれば、柴崎泰広の意識が入ったままでクマるんを洗うのは、相当に厳しいというか不可能だろうと直感的に思ったからだ。

 柴崎泰広自身はそこまで想像してはいなかったようだけれど、素直にあたしの提案に従ってくれた。あまり動きたくない気分だったのか、動きのとれないものに意識を移すことを、かえって喜んでいるような節さえ感じられた。

 そんなこんなで実際に洗ってみて、やはりあたしの直感は的を射ていたとつくづく実感している訳なのだけれど、それはそれでよかったわけで、何を悩む必要もないことなのだけれど、問題は、あたし自身がさっきの話で相当なダメージを受けていたということに、今更ながら気づいたことだった。


 クマるんを水に沈めるたびに泣き叫ぶ柴崎泰広の声が脳裏をかすめ、空気を含んで浮かび上がるクマるんの手足が、なんとか沈められまいと抵抗する柴崎泰広の手足と重なり、じっとあたしを見つめるクマるんのビーズの目玉が、絶望と恐怖に打ちひしがれた柴崎泰広のそれと二重写しになって見える。

 そのたびに心臓が縮み上がるようなここちに襲われて息をのみ、思わずクマるんを放り出しては恐る恐るそれを拾い上げるのを繰り返していて、洗い始めてからもう三十分もたつのというに、未だにクマるんの体から泥の靄が立ち上る状態が改善されていないありさまだった。

 柴崎泰広との交代は今夜中に三時間できればいいし、特段急ぐ必要もないから別に問題はないのだけれど、何というか、自分がこんな状態に陥ったことが一番の驚きだった。


 あたしは取りあえず、そんなに幸せな人生は歩んできていないし、それなりの苦労は経験してきているつもりだったから、今までは他人の苦労話もある程度突き放して聞くことができていた。感情に流されることもなく、あくまで客観的に合理的に、今置かれている状況の把握と、そこから抜け出すための方策を考えること以外、相手の立場に同情したり共感したりして心を痛めるなんていうことは、めったになかった。自分のことは、よく言えば冷静、悪く言えば冷たい人間だと把握していて、その認識に間違いはないとずっと思ってきたし、その認識とずれる行動や反応がみられることもほとんどなかった。

 なかったはずだった。

 でも今、あたしはかなり動揺してる。

 あんな目に遭わされた柴崎泰広に対して、同情もしてる。

 そして、たぶんそれだけじゃない。


 あたしの中では今、どす黒い感情が渦を巻いている。

 こんなことは生まれて初めてだ。

 だから、自分の気持ちにどう収拾をつけていいかが分からない。


 だって、それなりにうまくいっていたんだよ。

 このまま平穏無事に時が流れれば、近い将来、あいつは一人で歩けるようになる。あたしなんかがいなくても、自分の人生を自信を持って自分で切りひらいていくことができるようになる。そうなれば、あたしは安心してあいつから離れていける。この世に対する自分の未練を無理やりにでも断ち切って、あいつの命を喰らう浅ましい行為に終止符を打つことができる。思い残すことなく逝ける。そうやって自分の気持ちにやっと区切りをつけ始めていた、そんな矢先だったのに。

 これからまた、あの時、駅の階段を一歩一歩踏みしめながら登る柴崎泰広に付き添ったように、あいつが外界に適応していけるまでの亀の歩みを辛抱強く見守らなければならない。

 それがどのくらい時間がかかるかなんて、そんなことはまるっきり分からない。

 また一から始めなければならないのか、それとも多少はスムーズに流れるのか、そんなことも全く分からない。

 ただ一つはっきりしてるのは、そうやってあたしが存在する限り、あいつの命は余分にすり減っていくということ。


 許せない。

 そう。許せないんだ。


 多分あたしは自己中だから、柴崎泰広の命を食べるなんていう浅ましい行為を否応なく続けさせられるのが耐え難い、自分が悪者にさせられるのが気に入らないっていうのが一番大きな理由なんだろうと思う。

 でも、いくら冷酷なあたしだって、保育園にも通ってないような小さくて無力な子どもに、タバコの火を押し付け吐くまで食わせて浴槽に沈めたあの男の所業に対して、何も感じないでいられるわけがない。


 あいつを水に沈めているとき、あの男がどういう表情をしていたのか、知りたいと思った。

 あいつの表情なんて考えなくても、不安と絶望に彩られた顔が勝手に浮かんでくるくらい自明だけど、あの男が柴崎泰広を水に沈めながらどんな表情を浮かべていたのかは、あたしにはちょっと想像がつかなかったから。 

 自分より遥かに力の弱い子どもを、圧倒的な力でもって押さえつける屈強な男。

 案外、薄くにやけて恍惚とした表情を浮かべていたんじゃないかと思った途端、全身の毛が一気に逆立つ心地がした。


 もっと言えば、沈められている最中だけじゃない。

 バイトで保育園児のお手伝いをしたことがある。二歳か三歳くらいだったろうか。お昼寝の際はパジャマに着替えるけれど、自分一人で全部できる子なんてほとんどいなかった。ボタンがかけられないどころか、ズボンの右足と左足にそれぞれ足を突っ込むことすら満足にできないし、脱ぐことだって素早くはできない子がたくさんいた。大人の手を借りながら、それなりに時間をかけてやっとのことでやり遂げられる、そんな程度だった。

 だから気になったんだ。水に沈められたあと、あいつはすぐに着替えさせてもらえたんだろうかってことが。

 ぬれて体にまとわりつく衣服を脱ぎ、体を拭いて暖かい服に着替えることなんて、大人の手を借りなければできるわけがない。あの男や、あの男にくっついて家を出たあいつの母親が、すぐさまそういう世話をしてやったとも考えにくい。

 頭の先から足の先までずぶ濡れで凍えそうになりながら、うるさいとどやされるから声を上げて泣くこともできずに、暖房もない洗面所の片隅に声を殺してうずくまっていた、そんな姿がどうしても頭をかすめる。

 寒さと恐怖に耐えながら、その時あいつは何を思っていたんだろう。

 それを想像するだけで、胸が押しつぶされそうな気がして吐きそうになる。


 吐く。

 そうだ。あいつは男と接近したり同じ空間に閉じ込められると、反射的に吐いた。あの反応も、あの男の行為の結果なんだと今ならわかる。

 恐らくあの男は柴崎泰広のすぐ隣に座り、早く食べろとどやしつけ、吐くと殴り、吐いたモノを口に押し込む行動を日常的に繰り返していたんだろう。その時の恐怖や不快感、吐き戻す反応が体に染みついてしまった結果、男性が接近してくるだけでああいう反応が起きるようになってしまったんだ。

 そのために柴崎泰広は、学校に通うことどころか家から外に出ることも難しくなり、生活を成り立たせていくことが出来なくなって自殺未遂をするまでに追い込まれた。

 柴崎泰広の人生の相当な部分が、あの男のせいで失われてしまったに等しい。


 許せない。

 絶対に許せない。

 たとえどんな理由があったにせよ、あの行為を正当化することなど絶対にできない。


 そして、あたしが許せないのはあの男だけじゃない。

 あの男について家を出ていったというあいつの母親も、同様に許せない。


『クマるん、洗って修理してやらないといけないですね』


 当たり前のようにそう言って、まるでほほ笑むかのように首を傾けたあいつを見たとき、あたしは正直言って愕然とした。信じられなかった。


 あんたを捨てて出ていった母親の編んだものなんだよ?

 しかも、あんたを捨てて選んだのはあのクソ男だよ?


 そんなヤツの作ったものなんか、いい機会だから捨てちゃえばいいのに。あんなにボロボロになったんだから元通りに修復することなんか到底不可能だし、何よりあたしはもう、クマるんの中には入りたくなくなってしまったから。

 今までにも、クマるんに入っているあたしを見る柴崎泰広の目が、あたしをあたしとしてではなく、何か別のものに置き換えて見ているような気がずっとしていた。そしてそれは、クマるんを作った頃の母親ではないのか。何となくそんな気がしていた。

 どんなに心を通じ合わせようと、あたしたちの関係は恋愛に絶対発展し得ない。だって、あたしには肉体がないから。だけど一つの肉体を共用するという関係は、否応なく精神的な距離を近づける。そんなあたしたちの距離感……恋愛とは違うけれど、友だち関係より絶対的に近い距離感は、家族のそれとほぼ同じだ。そして、柴崎泰広にとって一番近くにいた家族、それは母親以外にない。

 今までは、それでもいいと思っていた。柴崎泰広がそれを望むのなら、どうせ恋愛関係になり得ないのなら、彼にとって大切な存在には違いないであろう母親の代理をしてやることも、まんざらではないのかもしれないと思いこもうとしていた。


 でも、彼の虐待経験を聞いてしまった今、もうそれはあたしにとって耐え難い。

 あの男の為すがままに柴崎泰広に残酷な精神的トラウマを与え、それを止めもせず守ろうともしなかったばかりか、そのトラウマのために満足に社会生活を営めない柴崎泰広をあっさりと捨てた女。そのせいで柴崎泰広は、一度は本当に死のうとした。


 許せない。

 絶対に許せない。

 そんな女と同一に見られるなんてこと、あたしにはこれ以上耐えられそうにない。

 取りあえず、今のところはクマるんに入る時間が最低限になりそうなのでなんとかガマンはするけれど、これから毛糸を買って自分用の編みぐるみを編むかもしれない。そのくらい不愉快だ。


 そして、一番気がかりなことは、なぜ今あの男がこの家を訪ねてきたかということ。

 あの男が連れていた小太りの男も気にかかる。見た感じなんとなく不動産鑑定士とか弁護士とか、そんな感じの胡散臭い雰囲気をまとっていたけれど、あの男とともにこの家を訪れた理由はいったいなんなのか。


 嫌な予感がしてならない。

 ギリギリだけれど、それでもなんとか日々をつないでいたこれまでの生活に、何か不穏な影を落とす出来事が起きるような気がしてならない。

 まるっきり何の根拠もないただの直感だけど、こういうあたしの直感は、いつもかなりの高確率で当たるんだ。


 心臓の鼓動を嫌にはっきりとこめかみに感じる。

 もし、あの男があたしたちの生活を破壊するようなことがあったら。


 危ないかもしれない。


 だって、あたしは許せないから。

 あの男も、コイツの母親も、みんな許せないから。


 手元に向けていた目線を、ゆっくりと上げる。

 緊張したような面持ちの眼鏡男が、鏡の中に立ってこちらを見ている。

 この体は柴崎泰広のもの。

 この体で罪を犯すわけにはいかない。

 それはわかっているけれど。


 もし、あいつらのせいでこの生活が壊される日がくるんだとしたら。

 そういう事態が、もし本当に起きてしまうんだとしたら。


――あたしは自分が抑えきれるかどうか、正直言って自信がない。

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