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91.――なに、これ

本文中に、虐待に関連した記述が出てきます。

そういう体験をされた方は、場合によってはフラッシュバックやパニック障害を引き起こす可能性もありますので、閲覧は十分にご注意ください。

「どうもありがとうございました。ここで大丈夫なんで」


 爽やか王子パワー全開で会釈したつもりだったけど、頭のてっぺんから足の先までずぶぬれで泥だらけのこの姿ではイマイチ説得力に欠けるらしい。上品そうな藤色の傘をさしかけたご婦人は、心配そうに表情を曇らせた。


「本当に大丈夫ですか? おうちの方は……」


「もうすぐ仕事から母が戻ってくるはずなんで、大丈夫です。帰ってきたら事情を話して、必要だったら病院にも行きますんで」


 外灯もついていない森閑とした家は、人の気配がないことがバレバレだった。見え透いたウソをついてもアレなので、取りあえず学校に伝えてあることに倣ってストーリーを組み立てると、いくぶん安心したのか、ご婦人は表情を和らげた。


「そうですか? でも、本当にお大事になさってくださいね。本気で救急車を呼ぼうと思ったくらいなんですから……」


「いろいろとご心配いただいて本当にありがとうございます。母親が帰ってくるまでは、横になって様子を見てみます」


「そうしてくださいね。じゃ、失礼しますね」


 ご婦人は優雅な所作でシルバーのベンツに乗り込むと、再度一礼して路地の向こうに走り去った。

 ベンツが見えなくなると、なんとか事なきを得た安堵感が怒涛のごとく襲ってきた。肩を揺らして大きく息をつき、それから、右手のクマるんに目を向ける。

 先ほどまでの奮闘で、クマるんはぐしょ濡れの泥だらけ、千切れた頭のてっぺんからは中身のわたがはみ出し、まるでボロ雑巾さながらの悲惨な姿になってしまっていた。自分がその姿でいる分には大して気にもならなかったけれど、柴崎泰広と交代して改めて見てみると、もう少し気を使って動くべきだったかと今さらながら後悔がよぎる。でもまあ、さっきはあれが精いっぱいだったんだから、仕方がないんだけど。


 車が目前に迫ってきたときは、もうダメだと思った。

 もうダメだと思いつつも、必死に重い頭を支えて立ち上がり、柴崎泰広の方に走ろうと一歩踏み出した。でも、重い頭に引っ張られた体がふらついて、今度は後方に倒れてしまった。

 クマるんの頭とベンツのフロントバンパーが接触したのは、その時なんだろうと思う。

 倒れたと同時に意識を閉じたから、何がどうなったかは実のところよくわからない。もうダメだと思ってしばらく意識を閉じて転がっていたけど、よく考えたら自分はすでに死んでる身だし、体だって痛みを感じることもない単なる編みぐるみなことを思い出して。

 で、おそるおそる意識を開いたら、運のいいことに、目の前に柴崎泰広のものと思われる足があった。ラッキーなことに、弾き飛ばされた先が柴崎泰広の足元だったらしい。

 先ほどから、何やら女性のものらしき声が響いていることにも気がついた。見ると、柴崎泰広の頭のあたりに、高級そうな藤色のスーツを着込んだ中年の女性がかがみこんでいる。女性は、声をかけてもさっぱり反応がないので、通報するつもりなのか、焦ったようにカバンの中の携帯を探している。

 大慌てで足に取りつき、気を失ってる柴崎泰広の意識を無理やり押し出して交代して、笑顔満開でむっくり起き上がって見せたら、中年女性はよほど驚いたらしく、濡れた道路に尻もちをついてひっくり返った。驚かせてしまって申し訳なかったけれど、救急車なんか呼ばれてしまったら検査費その他を支払わなければならなくなる。それだけは何としてでも避けたかったのだ。

 高級そうなスーツは汚れてしまったけれど、中年女性はそんなことには腹を立てる様子もなく、ひたすら柴崎泰広の体を心配してくれた。車に轢かれたのはアレだったけれど、運転していた人が思いのほかいい人で助かった。人間万事塞翁が馬ってやつだななどと思いつつ、駐車場に転がっていった黒い傘をとりもどして家に入る。

 それにしても、シバサキヤスヒロの状態がひどすぎる。まず寒い。全身ずぶ濡れのこの状態はかなりつらい。ゲロ臭いのも厳しいし、過呼吸の後遺症か、気のせいでも何でもなく頭がガンガンするし、このままでは本当に風邪をひいてしまいそうだ。早くなんとかしないとまずい。

 ということで、ぜいたくにも風呂を沸かすことにした。これまで、シバサキヤスヒロの体で入浴したことは一度もない。了解を取りたいとは思うけれど、目覚めなければ仕方がない、無断で入るつもりだ。裸体を見るのがどうだとか、そんな甘っちょろいことを言っていられる状況じゃない。非常事態なのだ。

 給湯のスイッチを入れながら、気候がよかったからか金をケチっていたからか、そういえばこの家に来てから、風呂をたてたところを一度見たことがないのに気がついた。もしかしたら給湯設備がいかれているのかもと不安になったが、やってみたら給湯設備は案外きちんとしていて、蛇口からはすぐに温かい湯が迸り出てきたのでほっとした。

 風呂の準備ができるまでに目覚めてくれることを期待しつつ、ぐしょ濡れで泥だらけのクマるんは取りあえず洗面所の鏡の前にタオルを敷いて、そこに寝かせることにした。クマるんを洗うにしても繕うにしても、柴崎泰広の意識が戻らないことにはどうしようもない。取りあえず風呂に入る了承だけでもとりたかったので、早く目覚めてくれることを祈りつつ明るい電燈の下にわざと置く。水をためる音や電燈の明るさで、自然に気がついてくれることを祈りつつ。

 でも、そんな淡い期待は見事に裏切られ、風呂の準備ができてもなおクマるんはぐったりと横たわったままで動かなかった。

 仕方がない。あたしがシバサキヤスヒロの体を風呂に入れるしかない。メガネを外せば状況は七割がた見えなくなるし、緊急事態なのだから、クマるんが文句を言ってくることもないだろう。

 水着に着替える際の要領で、タオルを体に巻き付けて大事なところが外から見えないようにしながらびしょ濡れの服をぬぐ。緊急事態だと頭ではわかっていても、今この姿をもしクマるんに見られてしまったら気恥ずかしいことは確かだったので、大急ぎで風呂場に飛び込んだ。

 シャンプーだかボディソープだかわからなくて戸惑いながらもなんとか髪を洗い、体を洗う。でもって、股のあたりは触らない。流すだけ。できる限り体を見ないようにしてことを済ませたので、果たしてきれいに洗えているかはわからないけど、取りあえず泥は流せたからよしとしよう。ひさびさに湯船につかり、ゆっくりと足を延ばしてお湯の感触を堪能する。

 これがもし、びしょ濡れでぶっ倒れた柴崎泰広を水谷彩南の体で介抱しなければならなかったとしたら、まず道端に倒れてるあいつを引きずって家に入れるまでが至難の業だし、当然目が覚めてくれるまで風呂なんか無理だし、てことは気を失ってる柴崎泰広の服を脱がせて着替えさせるなんてことまでしなければならないわけで、そう考えれば、交代ができるのはかえって便利なのかもしれないなどと、お湯につかりながらたわいもないことを考えてみる。さっき起きた出来事について考えるべきなのはわかっていたけど、考え始めたら頭がパンクしてしまいそうな気がして怖かったから、あえてそこからは目をそらしていた。

 そうしてすべてを終えて風呂場から出ても、クマるんは相変わらず鏡の前に横になっていた。ならばクマるんが寝ている間にさっさと体を拭いて服を着てしまおうとあたりを見回したところで、バスタオルを用意していなかったことに気がついて愕然とした。探そうにも、眼鏡なしではどこに何があるのかさっぱりわからない。

 仕方なく眼鏡を手に取り、恐る恐るそれをかける。途端に部屋の中の様子がクリアになり、洗面台の上で横たわるぼろぼろのクマるんもはっきりと見えた。そして、クマるんのすぐ後ろにある鏡には、上半身裸のシバサキヤスヒロの姿。

 慌てて目線をそらしてバスタオルを探しにかかるも、その時、なにか奇妙なものを目にした気がして引っかかりを覚えた。

 ほどなく棚の上にバスタオルを発見し、一枚ひっつかんで頭からかぶったが、さっき見たものがいったい何だったのか気になって仕方がない。取りあえず髪を拭いてから、バスタオルを肩にかけ、恐る恐る目線を上げて鏡の中のシバサキヤスヒロにもう一度目を向ける。

 バスタオルを肩にかけた黒縁眼鏡の男が、どこか怯えたような目でこちらを見ていた。

 タオルの下に、恐らくその引っ掛かりのもとがある。ドキドキしながら、肩を覆っているタオルをそっと外してみる。

 白っぽい蛍光灯の光に無遠慮に照らされた、少し痩せて骨ばった肩。

 その肩、というより、脇の下や上腕部のあたり、普通なら洋服に隠れて絶対に見えない場所に、何かの跡が無数についているのが見えた。赤っぽく盛り上がったものや皮膚がひきつれたような跡も含めれば、十カ所以上あるだろうか。丸い、黒っぽい跡が、まるで水玉模様のように散らばっている。


――なに、これ。


 顔を鏡に近寄せて眺めながら、生唾を呑みこんだその時だった。


【あれ、彩南さん、……?】


 驚きとか非難とかそういった感情は全く含まれない、どちらかといえばぼんやりとした感じの送信だったけれど、いきなりだったのでびっくりして、思わず叫びそうになってしまった。おそるおそる目線を下方に向けると、タオルの上で横になり、あたしを見上げている黒いビーズの目玉と視線が合う。


「あ、……わ、悪いけど、お風呂に入らせてもらったからね。びしょ濡れで体も冷えちゃってたし、おふろで温まらないと風邪ひいちゃうから。でも、眼鏡を外してれば全然見えなかったし、そういう場所には一切手を触れてないから、安心してよ」


 慌てて、さっき考えておいた言い訳を早口でまくしたてる。

 クマるんはどこかぼうぜんとした感じであたしの方を見てから、ややあって、やはりぼんやりとした感じの返信をよこした。


【……ああ、いいですよ別に。どうせ僕、風呂には入れないから、かえってちょうど良かった】


「え?」


 大慌てで体を拭いて下着を履いていたあたしは、その言葉に違和感を覚えて手を止めた。


「なんで? いつもシャワー入ってたじゃん」


【シャワーは大丈夫ですけど、……風呂、ダメだから】


「風呂がダメ? なんで?」


 クマるんは黙り込んだ。

 顔を天井の方に向けると、ビーズの目を中空に向けて動かずにいる。ただ、その目は天井ではなく、どこかもっと遠くを見ているように感じられた。

 クマるんの様子が気になったものの、とりあえずこの半裸状態を何とかする方が先決なので、黙り込んだクマるんを横目に大急ぎでハーフパンツを履いて一息つき、腰のタオルをとって水の滴る髪をもう一度拭きにかかる。

 拭きながら、鏡の中に立つ上半身裸の眼鏡男をもう一度眺めてみる。

 肩のあたりに散らばる、水玉のようなアザ。いったい何の跡だろう。水疱瘡の跡にしては一カ所に固まり過ぎている気がするし、蚊に刺された後にしても、こんな所を普通は刺されたりしない。

 あれこれ考えていたら、髪を拭く手が止まっていたらしい。肩のあたりを見つめながら機能停止しているあたしに気づいたのか、クマるんはふいにぽつりと、呟くような送信をよこした。


【タバコの跡ですよ】


「え?」


 送信の意味が分からず、鏡の前に寝転ぶボロボロの編みぐるみに目を向ける。

 クマるんはタオルの上で横になり、黒いビーズの目玉を中空に向けた姿勢のままで、独り言のように続けた。


【僕、よくおもらししたんですよね。とろい子どもだったから、なかなかうまくできなくて……。失敗するたんびに裸にひん剥かれて、お仕置きだって言って火のついたタバコを押し付けられた。風呂場で見たかもしんないですけど、そこだけじゃなくて、股の辺とか、おしりとか、外から見えないところにもたくさん】


 あまりに柴崎泰広の送信が平常と変わりない調子で、それでかえって発言内容の衝撃度が高まった気がする。

 言うべき言葉が見つからなかった。

 やむを得ず沈黙していると、クマるんはゆるゆると首を巡らせ、天井に向けていたビーズの目玉をあたしに向けた。


【でもね、それはまだいいんですよ。だって、失敗した僕も悪いんだから……一番嫌だったのは、食わなきゃ大きくなれないって言って、とても食いきれない量の食事を無理やり口に詰め込まれたことかな。僕は小食だったから、とてもじゃないけどそんな量は食べ切れないのに……無理して食べるけど、最後はいつも吐いた。吐くと、滅茶苦茶殴られたあと、吐いたものまでもったいないって口に詰め込まれた。あれが一番嫌だったな】


 指先が震えだすのを感じた。

 話の内容というより、凄惨せいさんな事実を淡々と送信する柴崎泰広の方になぜか慄然りつぜんとするものを感じて身震いした。ずっと裸で突っ立っていて、体が冷えたのかもしれない。急いで棚に置いてあったTシャツを頭からかぶる。

 袖を通しながら、恐る恐る一つだけ質問を試みてみる。


「……あの人が?」


 クマるんは小さく頷いた。洗面台の上でゆっくりと半身を起こし、水を含んで重い頭を鏡面にもたせかける。


【あの人がうちに来たのは、僕がまだ保育園にも行っていない頃だったから、父さんが死んで結構すぐだったのかな……出ていった母親は、たぶんあの人のところに行ったんだと思う】


 柴崎泰広はどこか遠くを見つめながら、呟くように送信を続けた。


【外に出るのも嫌いだった。遊んだり転んだりすると、どうしても服を汚すでしょ。そうすると、滅茶苦茶怒られるから……殴られるだけならまだいいんだけど、風呂の水が張ったままになってるときは、そこに服のまま沈められた。真冬だろうが何だろうが、冷たい水の中に頭から。冷たくて、苦しくて、怖くて、死ぬかもしれないって何度も思った。それ以来、僕は浴槽に入れない。入ると、その時の恐怖がよみがってきて、パニックになるから】


 あまりの惨たらしさに耳を塞ぎたい衝動に駆られながらも、あたしはそれを、ただ黙って受け取る以外になかった。せめて聞いてやることくらいしか、あたしにできることなんかないような気がした。

 柴崎泰広は、苦笑するような雰囲気で少しだけ肩をすくめた。


【こんなこと、ずっと忘れてたんですけどね……さっき、あの男を見たとき、その時のことが一気に頭によみがえってきて。本当に殺されるんじゃないかって思ったら、息ができなくなった。彩南さんが交代してくれて、助かりましたよ……クマるんの体じゃなかったら、今頃、何をしてるかわからないから】


 その言葉に、一瞬呼吸が止まった。


「なにをしてるか分からない……って」


 クマるんはどこかおどけた様子で、少しだけ首を右に傾けた。


【さあ、……手首切ってるか、薬飲んでるか、首つってるかは分かんないですけど、たぶん怖くていられないと思うから。クマるんだとそういうことをやりようがないんで、よかった】


 それきり意識を閉ざし、鏡面に重い頭をもたせかけてどこか遠くを見つめているクマるんを前に、あたしは何を言うこともできないまま、洗面所の真ん中にただひたすらバカみたいに立ち尽くしていた。

 そのままの状態で、いったいどのくらい時間がたったんだろう。クマるんは鏡に寄りかかって中空を見つめながら、ポツリと送信してきた。


【……しばらく、休ませてください】


「え?」


 中途半端な疑問形の返答しか返せない自分に苛立ちつつも、気の利いた言葉などすぐに見つかる訳もない。やむを得ず疑問形で返事をすると、柴崎泰広は遠くを見つめながら淡々と続けた。


【僕、たぶんしばらくの間、その体に入れないと思うんで……入ると、さっきみたいなことがまた起きる気がして、外に出たり学校に行ったりすることが、怖くなると思うから……申し訳ないですけどしばらくの間、僕は寝てる間だけ交代する形に戻してもらえますか。そうしないと、多分、僕……】


 柴崎泰広は送信を止めると、短い前足を顔に押し当てて俯いた。

 泥だらけの前足が、細かく震えているのがわかる。


「……わかった」


 本当は、もっと気の利いたことを言ってやりたかった。

 でも、あれこれ考えた末にようやく絞り出された言葉は、例によって短く味気ないもので、その上どこか突っ慳貪な言い方になってしまった気がして、あたしは湿った洗面所に立ち尽くしながら、不器用な自分がただひたすらに情けなかった。

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