90.あたしが何とかしてやらないと
昼過ぎから降り始めた雨が、本降りになってきていた。
道路に降った雨が集まり、小川となって緩い坂道の端を意気揚々と駆け下りていく。
小川にはまって靴を濡らしてしまわないように、柴崎泰広は足元を見ながら慎重に足を運んでいる。傘を前寄りにさしかけているためか、ケツポケで揺れるあたしには雨水が降りかかっているけど、取りあえず編みぐるみなので風邪をひくこともないし、あとで乾かせばいいだけだから特段気にする必要もない。
降りかかる雨の感触を楽しんでいたら、柴崎泰広はふいに「あ」とつぶやいて傘を首で挟み込むと、空いた右手で携帯ではなくあたしをじかに手にとって、目の前にかざした。
「ゴメン彩南さん、結構濡れちゃってる……」
表情を曇らせると、申し訳なさそうに親指であたしの濡れた肩やら背中やらを撫でる。クマるんの姿とはいえ、なんとなくこそばゆくて気恥ずかしい。
【い、いいよ別に大丈夫だよ編みぐるみなんだし。荷物と傘と携帯なんか持ってたら歩けないし……てか、くすぐったいって】
柴崎泰広は親指は引っ込めたものの、傘を顎と肩の間に挟み込んだ不自然な格好のままで、あたしを右手に歩き出した。
「いいですよもうすぐ家だし」
【大丈夫? 痛むんじゃないの? 頭】
柴崎泰広の手のひらの温かみがなんだかやけに心地よくて、脱力しながら何気なく聞くと、柴崎泰広はふいに歩みを止めて、絞り出すようなため息をついた。
「なんか……今日はマジでやんなりました。補習が始まって一カ月近くたつのに」
がっくりうなだれると、さきほどよりさらに重そうに足を踏みだす。
入り組んだ構文の説明をするのに、直接ノートに書き込もうと前園教諭が接近した途端、のけぞった柴崎泰広は例によって椅子ごと後ろにひっくり返るという醜態をさらしてしまった。いつものことなのであたしは大して気にしていなかったけれど、頭を打ったんじゃないかと心配した前園教諭は、わざわわざ家の近くまで車で送ってくれたのだ。
【しょうがないよ、前園センセのことは特別苦手なんだし。でも、吐きもしなけりゃ気も失わなかったんだから、多少は進歩したんじゃないの?】
苦笑めいたニュアンスを含めつつレスすると、柴崎泰広は小さく頭を振り、ますます肩を落としてうなだれた。
「どうして僕、前園先生が苦手なんだろう……ウジ村先生よりよっぽどあたりは柔らかいし、心配して送ってくれるとか、すごく優しいのに。頭ではわかってるのに、なんか、体が勝手に拒否反応を示すというか……」
【前園センセ、確かに優しいよね。雨が降ってたから送ってもらえて超ラッキーだったし……てか、そういえばあんた、どうして駅でおろしてくれって主張したの? 前園センセ、家まで送ってくれるって言ってたのに。買い物もなかったし、家まで送ってもらっちゃった方が楽だったよね】
柴崎泰広はその問いには答えず、足元に落とした目線を上げずに家へ続く四つ辻を右に曲がった。
あたしの視界もそれに伴って九十度転回し、この通り沿いのどの家よりも古い、昭和の香りが漂う木造家屋が見えてくる。
その時ふと、今ではすっかり見慣れたその古びた家の前に、誰かが立っていることに気がついた。
薄暗く湿った路地の奥、雨に煙る古びた鉄製門扉の前に、男が二人立っている。一人は背の低い、心もとない頭頂部の小太りの男。傘を柴崎泰広と同様に肩と首の間に挟み込んで、時折家を見上げながら、手にした書類に何か忙しく書きつけている。
小太りの男の右隣に立つもう一人の男は、玄関チャイムに手を添えて、時折それを押しているようだ。書類男とは対照的な、背が高くて胸板の厚い、がっしりとした男……。
【……前園センセ?】
思わず呟いてしまってから、別人であることに気づく。
道を挟んだ向かい側の路肩に停めてある、恐らく彼らのものであろう車は高級そうな黒のセダン。前園教諭の車はシルバーのフォルクスワーゲンだった。男自身も、よくよく見れば前園教諭よりずっと年かさの中年男だ。ただ、パッと目に入った時の全体的な雰囲気がとてもよく似ていたのは確かだった。
と、先ほどまでゆっくりながら一定速度で流れていた風景が、突然ピタリと停止した。
振り仰ぐと、前方に目を向けて機能停止している柴崎泰広の半開きの口が目に入る。
【ゴメンゴメン前園センセじゃないよ。でも誰だろ? 柴崎泰広、心当たり……】
そう送信しかけた、刹那。
体を優しく包み込んでいたはずの柴崎泰広の手に、突然、ありえないほどの力が加わった。
まるであたしを握りつぶさんばかりにきつく締め上げるその異様な力に、苦しさは感じないまでもギョッとして、思わず送信しかけた言葉を呑みこむ。
同時に、柴崎泰広の首に挟み込まれていた黒い傘が宙を舞い、視界が左右に激しく揺れ出した。
一瞬地震かと思ったけど、そうじゃない。
柴崎泰広の手が震えてるんだ。
手のひらに滲んできた汗が、毛糸にじっとりと絡みつく。
ただならぬ事態が起きていることを悟り、柴崎泰広の表情を確認しようと握り締められて動きにくい体を必死でねじる。
半開きの口元の向こうに見える眼鏡の奥の目は、瞬きすら忘れ果てたかのように一点を凝視していた。
その視線の先に立っているのは。
【柴崎泰広、あの人……】
問いかけた、刹那。
突然、柴崎泰広が、振り捨てるようにあたしから手を離した。
携帯にひっぱられるようにして空を飛んだあたしは、濡れたアスファルトに墜落し、もんどりうって路肩の水たまりにはまる。
見ると、通学かばんもあたしと同様、少し離れた路面に投げ捨てられている。
ついさっきまでは、ちょっと雨に濡れた程度のことを気遣ってくれていたはずだ。そんなあいつがあたしを投げ捨てるなんてただ事じゃない。あいつの様子を見ようと、携帯を引きずりながら必死で首を巡らせる。
その途端、道路に四つん這いになって嘔吐物をまき散らしている柴崎泰広の姿が目に入り、ゾッと背筋に寒気が走った。
【ちょっと……大丈夫!?】
慌ててそばに行こうとするも、頭頂部に連結した携帯電話があたしをその場に縛り付けて離さない。重みに引かれてひっくり返ってしまった拍子に転がった携帯は、運悪く路肩のくぼみにはまりこんでしまった。
【柴崎泰広!】
必死で呼びかけるも、柴崎泰広の脳にあたしの送信は届いていないようだった。
病的なほど浅く速い呼吸を繰り返しながら、雨に濡れた路面に這いつくばっている柴崎泰広の、俯いた顔の鼻先にぶら下がった眼鏡は、今にも吐瀉物の海に墜落しそうになっている。前髪からは雨水だか汗だか分からない水滴がしたたり落ち、半開きの口からは、吐瀉物とも涎ともつかない液体が、ねっとりと糸を引きつつ滴っている。
そのホラー映画ばりのただならぬ様相に息をのみ、思考が凍りついた、刹那。
「……!」
突然、柴崎泰広が大きく息を呑み、両手できつく胸を押さえた。
反動で眼鏡が落下し、乾いた音を立てて濡れた路面に転がる。
両目を固くつむり、うずくまるようにして背中を丸め、まるで全力疾走した直後のような激しい呼吸に全身を揺らしながら、地を這うような低いうめき声を漏らす。
なにがなんだかわからなかった。
この柴崎泰広の症状がいったい何に起因するものなのか、どうすれば治るのか、どうしてこんなことになってしまったのか、あたしには何一つわからなかった。わからなかったけれど、とにかくあたしがこいつを何とかしてやらないとダメだと思った。このままだと、死んでしまうんじゃないかとさえ思った。
とにかく、そばに行くためには携帯をくぼみから抜き取らないといけない。濡れて重たくなった毛糸の体を引きずり、くぼみにはまり込んだ携帯を抜こうと必死で頭を引っ張るあたしの聴覚に、柴崎泰広のうめき声が意味を持った言葉として響いてきたのはその時だった
「……めて」
ハッと首を巡らせて柴崎泰広を見る。
うずくまっている柴崎泰広の背は、傍目にもはっきりわかるくらい震えていた。激しく震えながら、かすれた声で、絞り出すように、柴崎泰広は何度も同じ言葉を繰り返し呟いている。
「やめて……」
――やめて?
濡れそぼった前髪の隙間、固く閉ざされた柴崎泰広の目もとから、雨なのか汗なのか、それとも涙なのかよくわからない滴が、次々に滴り落ちては路面に落ちて消えていく。
「許して……」
胸に石でも詰め込まれたかのような強い圧迫感を覚えて、息が止まるような感覚に思考が停止した。
刹那。
背後で車のドアの閉まる音が響いた。
はっとわれに返って首を巡らせると、小太りの男がセダンに乗り込み、エンジンをかけるところだった。セダンが機嫌の悪そうな唸りをあげると、小太りの男はハンドルから手を離し、何を思い出したのか先ほどの書類を取り出して、なにやら忙しく書きつけている。
体格のいい中年男の方はまだ名残惜しそうに古屋を見上げていたが、あたしの視線に気づいたのか、はたまた路上にうずくまる柴崎泰広の気配を感じたのか、ふいにくるりと首を巡らせてこちらを見た。
思わず動きを止めて、息を詰めた。
びしょ濡れで道の端にうずくまっている高校生。しかもそばには、彼が吐いたと思しき吐瀉物の痕跡。異変に見舞われていることは誰の目にも明らか過ぎるくらい明らかだ。彼らに気付いてもらえれば、救急車を呼ぶなり助けを呼ぶなり病院に運んでもらうなり、何らか助けの手を差し伸べてもらえる可能性がある。本来なら、見つけてもらった方がありがたい場面であり、息をひそめる必要なんか全くない。
全くないはずなのに、なぜかあたしは息をひそめた。
さっきの柴崎泰広。
彼の視線の先にいたのは、たぶんあの男。
柴崎泰広がうずくまっているすぐ目の前には電柱が一本、ちょうど目隠しのような形で立っている。また、一メートルも離れていないところには背の低い金木犀の植栽がそのパリッとした葉を道路にはみ出すようにして生い茂らせている。二重の目隠しで、その奥に駐車しているセダンからは恐らく柴崎泰広の姿を視認することはできないだろう。古家の前に立つ中年男からも、薄闇に包まれた今の状況では、かなり注意しなければ気づかれないはずだ。
ただ一つ、あれさえなければ。
ドキドキしながら、道路の中央付近に転がっている、柴崎泰広の黒い傘を見やる。
柴崎泰広が取り落とした傘が、運悪く道の真ん中へ転がって行ってしまったのだ。あの男がこっちを見たのも、たぶんあの傘に気づいたからだろう。あたしが取りに行こうにも今からではあまりにも目立ちすぎるし、それ以前に携帯が溝にはまっているから動きようもない。
濡れた路面を擦るようにしながら、湿って重くなった毛糸の頭を巡らせる。
柴崎泰広はぐしょ濡れでうずくまったままだ。一刻も早くコイツと交代しないと、このままでは早晩あいつらに見つかってしまう。溝から引き抜こうにも携帯は頑強にその場に固定され、ひきつれた頭部が楕円に歪むばかりで一分たりとも動く気配すらない。
【柴崎泰広!】
焦燥感にいてもたってもいられなくなり、思わず必死の送信を叩き付けた。
【お願い、手だけでもこっちに伸ばして! 交代すれば、あんたは楽になれるはずだから】
送信して数刻。何の反応もなかった柴崎泰広の体が、突然、ゆらりと揺れた。
気付いてくれたんだろうか。
少しだけホッとしながら、あたしの方に手を伸ばしてくれることを期待して、あたしも楕円の右腕を精いっぱい柴崎泰広の方に伸ばす。
でも、柴崎泰広の手があたしの方へ差し出されることはなかった。
柴崎泰広の体はゆっくりと右へ傾き、そのまま濡れた路面に音を立てて横倒しになってしまった。
【柴崎泰広!? しっかりしてよ柴崎泰広! お願い、目を開けて!】
必死で呼びかけるも、ぐっしょりと濡れて張り付いた前髪の隙間から見える目は、固く閉ざされていて開く気配もない。
――気を失ってる。
戦慄が、頭のてっぺんから足の先まで一気に駆け抜けた。
ハッと首を巡らすと、中年男は訝しげな目線を道路の真ん中に転がる傘に投げながら、車の男に何か話しかけた。頷くと体を起こし、傘をどけるつもりなのだろう、こちらの方に向かって歩き始めた。
――ヤバい、マジでヤバすぎる。
なにがヤバいのかは正直言ってよく分からなかった。ただ、ここまでひどい柴崎泰広の身体症状は見たことがない。そして、この症状を引き起こす原因となったのは、恐らくあの男だ。どういう理由で、どうしてそうなったのかは全く分からないけれど、柴崎泰広にあの男を近づけてはいけない、そんな気がした。
中年男の足音が近づいてくる。柴崎泰広の姿は、間もなく金木犀の影からも出てしまうだろう。どうすることもできない自分の無力さを噛みしめつつ、息をつめて気配に意識を尖らせていた、その時。
突然、強い風が吹き付けてきた。
風は一瞬で路地一帯に吹き渡り、吹き飛ばされた傘は道路を舐めるように回転しながら、駐車場の奥へ転がって行ってしまった。
男は歩みを止めたようだった。小さく息をつくような気配と、踵を返したような足音。少しして、車のドアが閉まる音とともに、通奏低音のように鳴り響いていたセダンのエンジン音が、ひときわ高く唸りを上げる。
転がっていった傘の行方に気を取られていたのだろうか、セダンが通り過ぎる時、中年男たちの目は、柴崎泰広とは反対の方に向けられていたようだった。
遠くなるエンジン音を聞きながら、張りつめていた緊張の糸がたちまちのうちに解けていくのを感じた。思わずぬれた路面に顔をうずめて全身の力を抜きかけるも、ホッとしている場合じゃない。雨水の染み込む余裕のなくなった重い首を巡らせて、斜め前に転がっている柴崎泰広に目を向ける。
柴崎泰広は相変わらず目を覚ます気配もなく、ずぶ濡れで路傍に転がっている。ワイシャツもズボンもあたしの毛糸と同様にすっかり濡れそぼって、水を吸い込む余力もなくなったのだろう、半透明になって体にべっとりと張り付いている。先ほど吐いたものも、激しい雨に半分以上洗い流され、路肩の側溝に流れ込んでいた。
哀れで無力なその姿に胸がつまりながら、必死で重くなった頭をもたげる。
このままじゃ、誰かに気づいてもらえるまで、こいつは路傍にびしょ濡れで放置されるだけだ。誰かなんて待っていられない。あたしが何とかしてやらないと。
なんだか知らないがやけに力がみなぎってきた。満身の力を込めて、湿ってジブジブする頭を綱引きさながらに力いっぱい引っ張る。
頭頂部の一点がきつく突っ張り、つり橋のロープが擦れるような、何かが軋む音が響いた。
ここぞとばかり、さらに力を込めて引っ張ると、歪んだ楕円の頭がより一層細く長くなり、絞られた雨水がぼたぼたと音を立てて滴り落ちた。かと思うと、次の瞬間、ぶつりと何かがちぎれる音がした。
同時に、今まで頭頂部に存在した鋭い抵抗感が忽然と消えうせ、あたしは反動で道路の真ん中の方にすっ飛ばされ、三回転して水たまりに突っ込んでしまった。
絞られてせっかく軽くなった頭に再び雨水が染み込んだが、そんなことに構っている暇はない。フラフラしながら立ち上がるも、かわいらしさ重視の細い手足は水を限界まで吸いこんだ重い頭を支えきるにはあまりに貧弱すぎたらしい。歩き出そうとした途端にバランスを崩し、再び水たまりに突っ込んでしまった。仕方なく、ほふく前進のような格好で濡れたアスファルトを這いずりながら、倒れている柴崎泰広に近づく。
その時。
角を曲がってきたのだろう、車のヘッドライトが路地を明るく照らし出した。
濡れた路面がライトを反射して白く輝き、倒れている柴崎泰広も、雨で半分流された吐瀉物も、放り出されたままの通学かばんも、そして、雨水と泥で真っ黒に汚れているであろうクマるん、つまりあたしの姿も無遠慮に照らしだされる。
車はまっすぐにあたしの方に向かってくる。
柴崎泰広は路肩に倒れているからまず轢かれることはないけれど、あたしは今、道路の真ん中より少し右に逸れたあたりにいる。位置的にはちょうど車輪のあたり。薄汚れた編みぐるみを避けるために、わざわざハンドルを切るお人よしもいないだろう。逃げなければと思ったけど、この重い体では、とてもじゃないが素早く移動することは不可能だ。
戦慄が背筋を一気に駆け上がり、頭の中が真っ白になった。