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89.本当は何も知らなかったんだな

 今までは、コイツのことを何でも知っているような気がしていた。

 男性恐怖症のこと、不登校のこと、母親に見捨てられたこと、自殺しようとして死にきれなかったこと。コイツにとって、できれば他人に知られたくないだろう数々の事実をあたしは知っている。実際、コイツの身の上については、関わりのある人間の中ではあたしが一番詳しく知っているんだろうと思う。

 でも、よくよく考えたらあたし、コイツのことを本当は何も知らなかったんだな。


「 After the car accident that John had last night, his mother went to see him to the hospital.この文章で間違っているのは……えっと……」


 柴崎泰広はブツブツ呟きながら、おずおずと上目づかいに前方を見やる。


「それは前置詞問題だな。「病院にいる彼」と考えるといい」


 柴崎泰広の斜め前、教師用の机に座る英語科主任前園俊彦教諭が、パソコンで文書か何かを作成しながらぼそっと答える。

 

「あ、は、はい。じゃあ……to the hospitalのtoを、場所の前置詞atに変えれば……」


 視界の端で前園教諭が小さくうなずいたのを見て取ると、柴崎泰広はほっとしたように表情を緩め、急いでノートに答えを書いた。

 そう。コイツが英語に一番苦手意識を持っていたことだって、知ったのはつい最近だ。 

 進路指導主任の名にかけて柴崎泰広の進学をバックアップすると約束してくれたわれらが担任、金縁メガネの笠原沙也香女史は、その言葉通り学校中の同僚に声をかけ、柴崎泰広が通塾せずともすむように協力を募ってくれた。その結果、学習方法の助言と課題の提示、あとは仕事の合間に質問を受け付ける程度のこととはいえ、数学、理科、国語、英語、社会、それに美術の全教科で協力者が見つかり、放課後の補習が実現したのだ。

 数学はもちろんわれらがウジ村教諭が名乗りを上げ、その他の教科についても実力派の教諭陣が豪勢に名を連ね、柴崎泰広も持ち前の高い能力を生かしてたいていの課題や演習は難なくこなしていたのだが、問題は英語だった。

 前園教諭は実績や能力に関しては担当として申し分ない人選なのだけれど、柴崎泰広の男性恐怖症と、それを増幅する英語に対する強固な苦手意識が災いした。文法は持ち前の記憶力を発揮できるし、リスニングもなかなかに鋭い耳を持っているし、少なくともあたしなんかよりははるかに素養があるはずなのに、もともと引っ込み思案で前に出たがらない性格と、「自分は英語が苦手」という強い先入観が邪魔をして、学習内容が身についていかない節があった。加えて、イギリス留学時代にラグビーで鍛えた筋骨たくましい前園教諭から腹の底にびりびり響くバリトンで指導を受けると、それだけで治りかけた男性恐怖症が再発し、学習どころではない精神状態に陥るらしい。パニックになった柴崎泰広の意識を無理やり押し出して交代し、仕方なくあたしが補習授業を受けることもしばしばだった。

 男性恐怖症がこれほどひどく再発するのも、ひとえに苦手意識のなせる業なんだろうけれど、こいつがここまで英語に強い苦手意識を持っていたなんて夢にも思わなかった。

 この件に限らず、コイツに関して知っているようで知らなかったことが実は多かったんだと思い知らされることが、最近は多い。


『……僕だけで十分なんで』


 先日、柴崎泰広が呟いた言葉。

 前後の文脈から考えれば、「一人きり」は自分だけで十分だ、という意味が込められていたのだろうと思う。

 一人きり。

 父親はすでに亡く、母親にも捨てられた柴崎泰広は確かに「一人きり」だ。

 でも、その大まかな事実の後ろにある細かないきさつを、あたしは知らない。

 父親が亡くなった原因も、そのあと続いた母と二人の生活がどのようなものだったのかも、母親がどうして柴崎泰広を捨てて出ていったのかも、なにひとつ知らない。

 表面的な事実の背後にある真実をつかみ取らないことには、本当に「知った」ことにはならないんじゃないか、最近はとみにそんな気がしている。

 加えて「知る」ということをそういう意味でとらえた場合、もしかしたらこれらの件に関しては、柴崎泰広自身「知らない」ことが多いのかもしれないとも思う。


「お、もう五時過ぎたな」


 前園教諭のドスの効いたバリトンが静かな教室の空気を震わせると、柴崎泰広はびくりと肩を震わせて、慌てたように教室の壁掛け時計を振り仰いだ。


「あ、すみませんでした……今日は、ご用事があったんですよね」


「ああ、悪いが五時半に待ち合わせだから、今日はここまでにする。わからないところがあったら明日質問を受け付けるから、チェックしておいてくれ。いつもの課題も忘れずにな」

 

 前園教諭は言いながらパソコンの電源を落とし、手早く荷物をまとめて立ち上がった。


「セキュリティの関係があるから、柴崎も続きは家でやれよ」


「あ、はい、わかりました。ありがとうございました」


 前園教諭の威圧感にのまれまいと必死だったのだろう、鉛筆を手にしたまま一時停止状態になっていた柴崎泰広は、われに返ったように荷物をまと始める。とはいえ視界に教諭の姿があるうちはまだ何となく気が抜けないらしく、ときどき上目づかいに様子をうかがっている。

 前園教諭が片手を軽く上げて前扉から出ていくと、ようやく柴崎泰広は肩に入っていた力を抜き、ほっとしたように大きく息をついた。


【お疲れさま】


 苦笑めいたニュアンスを含めつつ送信すると、柴崎泰広は額の汗をぬぐいながらひきつった笑みを浮かべてみせる。


「ど、どうも……今日は何とか最後までもちましたね」


【もったもった。最初の頃はどうなることかと思ったけど、やっと慣れてきたんじゃない?】


 気分を盛り上げてやろうと明るい調子で送信するも、柴崎泰広はさえない表情で頭を振った。


「どうですかね……まだ吐き気はかなりひどいし、意識が飛びそうなときもあるんですけどね」


【ええええ、マジで? もしかして、今日も?】


 頷くと、柴崎泰広はたよりなげな溜息を吐いた。


「ほら、今日五時に終わるっていう約束を過ぎちゃったから……先生に少しでも迷惑をかけたかなとか思うと、もう」


【あんなことで?】


 柴崎泰広はうなずくと、きまり悪そうに携帯の先で揺れるあたしを見た。


「ぶっちゃけ、いざとなったら彩南さんと交代できると思うから、なんとかギリギリもってるようなもんなんで……」


【えええ……マジか】


 申し訳なさそうに笑うと、柴崎泰広は外履きに履き替えるためだろう、あたしつき携帯をケツポケにねじ込んだ。

 薄暗い昇降口で靴を履きかえる柴崎泰広の後ろ姿を見上げながら、どういうわけだかホッとしている自分に気づいてドキリとする。

 先日、柴崎泰広にぶつけたあの質問。


【だいたい、あんたにとってはもうあたしなんか、はっきり言って必要ないんだよね?】


 あたしが必要か、必要じゃないか。

 あの質問の答えは、結局はっきりとは返してもらっていない。

 だから柴崎泰広自身の主観がどうなのかはわからないけど、とりあえず客観的に見れば、今日のようなことがあるうちは、あたしが存在するメリットと命を縮められるデメリットをてんびんにかけた時、まだメリットの方が大きいということになる。

 そう思うとほっとする。今はまだ、ここにいてもいいんだと思えるから。

 今はまだ、コイツにとってあたしは「なくてはならない存在」なんだと思えるから。

 いつかてんびんの傾きが逆転する、その日が来るまでは。

 なんてことを考えながらボーっとしてたら、いきなり視界が大きく流れて驚いた。柴崎泰広がケツポケから携帯を取り出したらしい。

 柴崎泰広は時刻表示を確認すると、眼鏡の奥の目をちょっと見開いた。


「……あ、間に合うかも」


【ラジオ英会話?】


 柴崎泰広は小さく頷いた。


 英語に対する苦手意識を払しょくするためだろう、前園教諭は「ディクテーション」なる活動を柴崎泰広に課している。

 とにかく聞く。聞いたとおりに書く。わからない語は調べる。これを短い時間の中で集中して行う。CDも借りてはいるが、聞けるときはラジオ英会話の雑談部分を聞き取るように言われている。

 この活動に毎日一定時間取り組んだことで、はじめは全く聞き取れずに半泣き状態だった柴崎泰広も、最近では洋画の予告編程度なら、ある程度正確に聞き取れるようになってきている。それでいくらか自信がついたのだろう、学習内容も以前よりはスムーズに頭に入るようになってきた。とはいえ数学や物理の全能感から比べれば、本人的にまだまだ不安はあるらしいけど。


「また彩南さんの交代時間を減らしちゃうけど……いいですか?」


 携帯の先で揺れるあたしにおずおずと目線を移し、どこか遠慮がちに問う。

 帰宅後の数時間は日中にあたしが柴崎泰広の体を借りられる数少ない機会だけれど、この活動を行う時はそれがギリギリまで削られて、悪くすると睡眠中のみの交代になってしまうこともある。柴崎泰広は自分ばかり体を使うことにどうも罪悪感を抱いているらしく、これを申し出るときはいつもに増して低姿勢だ。


 実を言えば、あたしはもう、交代に以前ほど執着していない。

 もちろん、柴崎泰広の体に入ってつかの間の生を感じられることはありがたいし楽しい。土日に仕事をしているときなどは時を忘れるし、自由に動く手足を使ってやりたいことがやれるのは、何にも代えがたい喜びなのは事実だ。だからこそ、以前はきっちり時間を分けて、平等に体を使わせてもらえるようにしていた。

 でもなぜだか、今はそんな自分の小さな楽しみは正直言ってどうでもよくなってしまった。そんなことに時間を費やすより、柴崎泰広に一分一秒でも長く自分の力を伸ばすために使ってもらった方がいい。二十四時間の制限がなかったら、ずっとクマるんのままでもいいと思っているくらいだ。

 柴崎泰広が一心にディクテーション演習をやっている様をそばで眺めているのも、今ではなかなかどうして幸せな気分に浸れるひと時になっている。自分自身はテーブルの端に座っているだけなので、何が楽しい訳でもないのだけれど。

 人が何かやっている様を見ているだけで楽しいなんて、以前は感じたこともなかった。しかも、柴崎泰広が能力を伸ばして自立に近づくということは、自分が用済みになる日が近づくということと同義なわけで、さっきは用済みでない自分を確認してほっとしていたのだから、その感情とも矛盾する。どうしてそんな風に感じるのか、はっきり言って自分でもよくわからない。


【いいよもちろん。ていうか、そんなの聞くまでもないじゃん】


 快諾すると、柴崎泰広はすまなそうに、でもどこかほっとしたように笑って頭を下げた。

 もしかしたら、コイツのこういう微妙な笑顔を見るのが実は結構好きだったりするせいかもしれない、なんて思った。


 こんな風に、自分たちのペースで少しずつ前に進みながら、穏やかに日が暮れていく毎日を、あとどのくらい続けられるんだろう。

 どのくらいかはわからないけど、こういう小さなハードルを一つずつ越えながら、柴崎泰広は自分なりの歩みを進めていくんだろう。大きく後戻りすることはなく、一歩一歩、着実に。

 少しずつだけど確実にてんびんの傾きは平衡になって、やがて逆転していくんだろう。

 そういう見通しが、最近やっと持てた気がする。

 それは同時にあたしとコイツの生活が終わるということを意味していて、もちろん寂しいし考えただけで胸が苦しくなるのは事実だけれど、それにも増してどういうわけだか安心というか、ほっとするというか、そんな感覚に心が安らぐ。


 なんとなく、最後までこのまま淡々とことが進んでいくんだろうと思っていた。

 だからあの人が訪ねてきたことは、まさに青天のへきれきだったんだ。

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