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88.ありがとね

「ありがとう」


 危うく機能停止しかけていたあたしの思考は、頭上から響いてきたこの言葉で現実に引き戻された。

 ありがとう?

 尻の脇から身を乗り出し頭上を仰ぎ見ると、申し出を断られたにしては妙に晴れやかな表情を浮かべた柴崎泰広の横顔が目に入った。

 抗議なり反論なり何かしらの衝突を予想して身を固くしていた結月も、よほど意外な反応だったのか、拍子抜けしたようにポカンとしてから、おずおずと口を開いた。


「ありがとうって……なにがですか」


「え? 彩南さんのお位牌、祀るって言ってくれて……」


 眉根を寄せて首をかしげた結月を見て、柴崎泰広もようやく言葉足らずなことに気付いたのか、慌てたように付け足した。

 

「あ、いや、僕は最初からお位牌をいただけるなんて思ってなかったです。捨てるなんてあんまりだと思ったから言ったまでのことで……ご家族のどなたかに祀っていただけるなら、その方がずっといい」


 照れ隠しのように笑ってから、木々の隙間からこぼれ落ちる午後の日差しに目を細める。


「彩南さんって、自分のことはほとんど話さない人なんですよね。基本的に強気だけど、どことなく寂しそうで……一人で生きてきてたせいなんだろうって、ずっと思ってました。でも、本当に一人きりってわけじゃなかったことがわかって、なんだか僕、今とてもほっとしてるんです」


 遺影を胸に抱いた結月は、独り言のように語る柴崎泰広の口元をじっと見つめている。

 あたしも尻の脇に張り付いたまま、逆光に黒ずむ横顔から目が離せなくなった。


「彩南さんを知る人に会うことができて、遺影を見せてもらえて、昔の話もたくさん聞けて、お位牌もきちんと祀るって言ってもらえて、絶対に忘れないとまで言ってもらえて……今日、僕はここに来て本当に良かった。どうもありがとう、結月さん。これからもずっと、彩南さんと一緒にいてあげてください。よろしくお願いします」


 頭を下げられて、結月はあっけにとられたように固まっていたが、ややあって柴崎泰広の言葉を噛みしめるように繰り返した。


「……一緒に?」


「そう、一緒に」


 柴崎泰広は頷くと、手にしていた消しゴム入りのお守り袋を結月に差し出した。


「一緒に、ヘンな歌でも歌いながら歩いてやってください。あなたにとっての彩南さんは、ここにいる」


 結月は差し出されたお守りに目を移すと、左手で遺影を抱えなおし、右手でそれを受け取った。

 右手のお守りを見つめる結月の頭頂部に、木漏れ日がキラキラと揺れている。日光のかたどるまだら模様に黙って目を落としていた柴崎泰広は、ややあって、ふいにこんなことを口にした。


「人の寿命って、決まってるんですよ」


「え?」


 何の脈絡もなく唐突なその言葉に、結月は怪訝そうに顔を上げた。

 

「命の長さは決まってるんです、生まれたときから」


「……なんでそんなことがわかるの?」


 宗教の勧誘でもされるとでも思ったのか、結月は警戒するように眉根を寄せたが、柴崎泰広は意に介さない様子で言葉を続けた。


「理由は事情があって言えないんですけど、ホントなんですよ。僕の命の長さも決まってるし、あなたの命の長さも多分決まってる。どのくらいの長さかまではわかんないですけどね」


 斜め下から注がれる胡乱な目線には頓着なく、前髪を揺らす初夏の風に気持ちよさそうに目を細めながら、柴崎泰広は自分の思いを確かめるように言葉を継ぐ。


「だから人は、いつだかわからないその瞬間がやってきたときに後悔しないで逝けるよう、生きている間は自分にできることとかやりたいこととかを精いっぱいやりきっておくのかな、なんて、何となく思ってるんです。最近なんですけどね、こんな風に思えるようになったのは。今まで、僕は基本的に死にたい人だったから」


「……お姉ちゃんの命の長さも、決まってたっていうの?」


 頷くと、ゆっくりと首を巡らせて結月に向き直る。


「彩南さんが事故に遭ったのは、あくまでも運命だし彩南さん自身の責任です。あなたの責任なんて一切ないし、そんなことを気に病んでいると知ったら彩南さんも悲しみます。今までどおり、彩南さんがあなたにしてくれたことをずっと忘れないでいてくれるだけで十分だし、その方が彩南さんだって、きっと喜ぶと思いますよ」


 結月は柴崎泰広の言葉が終わっても、しばらくは手元のお守り袋に目線を落として動かなかったが、やがてぽつりと口を開いた。


「……そうだね」


小さく頷くと、潤んだ目で柴崎泰広を見上げる。


「寿命が決まってるっていう話は子どもだましで信じらんないけど、あたしが落ち込んでたらお姉ちゃんが悲しむっていうのは、確かにそうだと思った」


 言葉を切ると少しだけ目線を落とし、噛みしめるように問いかける。 


「お姉ちゃんは、あたしと一緒に歩いてくれてるんだよね?」


「もちろんです」


 柴崎泰広が頷くと、結月は右手のお守りを握りしめ、顎を反らして青空を仰いだ。


「……そっか。そう思ったらなんだか、引っ越しても転校しても、何とかなるような気がしてきた」


「そうですよ。大丈夫、彩南さんがついてます。つらいことがあったら、ヘンな歌を歌って励ましてくれますから」


 さっきから柴崎泰広が「ヘンな歌」と繰り返しているのがなにげにツボったらしい。結月は肩を揺らして笑いだした。


「あはは……そーだよね。それによく考えたら、転校すればいじめてた子たちとも別れられるから、次の学校でまた新しくやり直せる。悪いことばかりじゃない」

 

 それから浮かべていた笑みを収めると、声のトーンを落とし、自分に言い聞かせるように呟く。


「お兄ちゃんたちは働きながら学校に行くし、お母さんも仕事と看病でたいへんだし、……あたしだってがんばらないと」


 そう言うと、結月は何を思ったか、胸に抱いてた遺影を両手で持ちなおし、きょとんとしている柴崎泰広の眼前に差し出した

 柴崎泰広は戸惑ったように結月の顔を見つめなおし、それから差し出されている遺影に目を落とす。


「え? これ……」


「あげる。あたしの携帯に、これの元版は入ってるから」


 柴崎泰広は差し出されている遺影を見つめてから、おずおずと両手を差し出し、卒業証書授与式さながらに受け取った。


「……ありがとう。大事にします」


 柴崎泰広の言葉に頷くと、結月はにっこり笑った。吹っ切れたような、明るい笑顔だった。


 そんな二人のやりとりを、結局あたしは、最初から最後まで黙って見ていた。

 二人が会話している間、どういうわけだかほとんど言葉を発せなかった。ときどき柴崎泰広が交代の意向を聞くように右手を差し出してくれたけど、柴崎泰広の尻と背もたれの間に挟まりながら、最後までその手を取る気にはなれなかった。

 あたしがようやく言葉を発したのは、柴崎泰広が結月と別れ、駅前の交差点に差しかかった時だった。


【ありがとね】


 唐突な礼の言葉に、柴崎泰広はきょとんとしてあたしを見た。


「何がですか?」


【え? 結月に携番を渡してくれたこと。結月、ああは言ってもやっぱり不安なこともあると思うし、頼みの綱があるかないかで心強さって全然違うから。渡してくれて助かったよ】


「……いえ、当然です」


 いくぶん交通量を増した四車線道路を、排気ガスをまき散らしながら大型車両や業務用車両が勢いよく走り抜けていく。旧型のディーゼルエンジンが吐き出す黒い煙に顔をしかめつつ、柴崎泰広は小さく頭を振った。


【助かったんだけど、よくやったなあって感心しちゃった】


「え、何がですか?」


 ケツポケのあたしを見た柴崎泰広に、意地の悪い自分を演出するべく短い腕を組んでみせる。


【だって、女子中学生に男子高校生が携番渡すって、ぶっちゃけただのナンパじゃん。白昼堂々、健全な児童公園で為される行為じゃないな、みたいな】


 柴崎泰広は両目をまん丸く見開くと、たちまち耳まで赤くなった。


「え、え、え、え、そ、そんな風にとられちゃうようなことなんですかあれって?」


【当たりまえじゃん。ていうか、そういう認識まるでなかったわけねまたしても】


 真っ赤になってうろたえまくっているその様子があまりにも予想通り過ぎて、ストラップに預けた体を大げさに揺らしてクスクス笑いを表現してみたり。

 柴崎泰広は口を尖らせると、眉根を寄せてあたしを睨んだ。


「だから何回も交代してくれって意味で手を出してたのに……彩南さん全然知らんぷりで、掴もうとさえしてくれないんですもん」


【だって必要なかったから。あんたの言葉で、結月十分立ち直ったし】


「だからって、結月さんを直接励ましてあげられるまたとないチャンスだったのに……」


【いいの。あたしはすでに死んだ人間なんだから。いまさら、生きてる人にあれこれ偉そうに指図なんかできないって】


「でも……」


【結月なら大丈夫だよ】


 しつこく口を開きかけた柴崎泰広を、断定調で強めに遮る。


【あの子、ちょっと他の子より幼くて頼りないところが心配だったんだけど、お父さんがたいへんなんだし、少し背筋も伸びると思う。転校すれば今までの関わりも一新できるし、さっきの様子を見ても、きっと大丈夫だと思うよ】


 横断歩道の信号が青に変わり、調子はずれなとおりゃんせが流れ始める。柴崎泰広は口を噤んでいたが、足を踏み出した途端に何を思い出したのか、クスッと笑った。


「……そうですね。彩南さんのお守りがついてるから。きっとヘンな歌を歌って慰めてくれる」


 なぬ?


【ねえねえちょっとさっきから気になってたんだけど、ヘンな歌ヘンな歌って連呼すんのやめてくれない? だいたい、あたしの歌を聴いたこともないくせに、勝手にヘンな歌呼ばわりしてほしくないんだけど】


「え? 結月さんがそう言ってたんだから仕方がないじゃないですか。それにしても、どんな歌だったんだろ。彩南さんのヘンな歌って……」


 クスクスと肩を震わせる柴崎泰広のケツを思い切り体を揺らして蹴とばしてみるも、いかんせん編みぐるみの体では大したダメージを与えられないのが悔しい。

 駅が近づくにつれて人通りも増えてくる。柴崎泰広は笑いを収めると、反対側のケツポケから取り出したカードをかざして自動改札を抜けた。

 まだ帰宅ラッシュには早い時間なので、ホームに立つ人影もまばらだ。それでも人混みが苦手な柴崎泰広は、より乗客の少ない最後尾の車両を目指していつものように歩いていく。

 歩みに合わせて手にしている紙袋ががさがさ乾いた音を立て、中に入っている四角いものが前後に揺れているのが見えた。


【あ、そうだ。遺影見せてよ】


「え?」


 柴崎泰広はドキッとしたように歩みを止めた。


【あたしの遺影。あの位置からじゃ、あたし全然見えなかったんだもん。どんな写真になってるか、ちゃんと見てみたい】


「……こんなところで?」


【へ? こんなところって……周りに人全然いないじゃん】


「え、いや……でも、わざわざ駅のホームで見なくても」


 なぜだかあまり乗り気でない柴崎泰広の反応にムッとして、少し強めに意識を送ってみる。


【別にどこで見たっていいじゃんちらっと見るだけなんだから】


「いや、でも、別に今じゃなくても……」


 ブツブツ呟きながらホームにに立つと、柴崎泰広は紙袋から黒くて四角い遺影を取り出したが、胸に抱え込んで見せようとしない。


「あたしを写真の前にかざせばそんなに目立たないし、早く見せてよ」


 数回せっつくと、柴崎泰広は仕方なさそうにあたしをケツポケから取り出して、表に返した写真の前にぶら下げた。 

 写真の真ん前にぶら下げられて回転しながら、意を決して意識を開いた瞬間、あたしの思考は固まった。

 携帯を扱いなれないおばさんが撮ったせいだろうか、はたまた画素数が粗すぎたせいだろうか、画像全体がぶれて、滲んだようになってしまっているのだ。しかも、あたしの顔半分は恐らく結月がかぶっていたのだろう、修正されてはいるものの欠けたようになっていて、まるで顔を半分食べられてしまった〇ンパンマンのようだ。あたしの顔なんて、知っている人が見れば何とか識別できる程度で、初めて見る人には正直言って何が何だかわからないだろう。

 あっけにとられて言葉を失っていると、柴崎泰広が苦笑めいた笑みを浮かべながら口を開いた。


「……まあ、この仕上がりじゃ、おばさんが捨てようって言いたくなるのもなんとなくわからないではないですよね」


【いや、マジで捨てていいよこれ……捨てて行こうそこに】


 ぼうぜんと送信しつつホーム下を指差すと、柴崎泰広は目を丸くした。


「何言ってんですかせっかくもらったのに。持って帰りますよ」


【持って帰ってどうすんの……顔なんか全然分かんないじゃん】


「え、そんなことはないですよ。少なくとも、三途の川のイメージよりははっきりしてる」


 柴崎泰広は、嬉しそうにニコニコしながら写真を眺めた。


「彩南さんて、ホントに髪が長かったんですね」


 自分の容姿について柴崎泰広に語られたのは初めてだったので、なんだかやたらにドギマギした気分になって、思わず【ま、まあね】なんてつっけんどんな送信を返してしまう。

 柴崎泰広は写真を丁寧にくるみ直して紙袋の中にしまいながら、しみじみとした調子で呟いた。


「でも本当に、結月さんがいてくれてよかった……」


 なんだか気恥ずかしかったので、照れ隠しのようにきつい調子で言葉を投げてしまう。


【なんかやたらと喜んでて草 あんた、そんなにあたしの顔に興味があったの?】


 柴崎泰広は目を丸くすると、少し赤くなった。


「え? あ、いや、別にそういう意味じゃないです」


【じゃあどういう意味なの?】


「いや、別に、言葉どおりで……彩南さんが、一人じゃなくてよかったなって……」

 

【なにそれ。あたしが一人だろうがなんだろうが、あんたには関係ないじゃん】


「関係ないって言われれば確かにそうなんですけど、なんか……」


 柴崎泰広は口ごもるように語尾をのみこむと、目線を線路上に向けた。

 その雰囲気が、さっきまではなかった重さをまとっている気がして、ケツポケ脇で回転しながら調子に乗り過ぎた自分を反省しかけた時、柴崎泰広がぽつりと口を開いた。


「……僕だけで、十分なんで」


【え?】


 どういう意味か聞き返そうと思った。

 でも、線路上に向けられている柴崎泰広の目が、ここではないはるか遠くを見つめている気がして、言おうとした言葉は喉の奥で固まって出てこなくなった。

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